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第一章(9)


「……替わって」


女の声は尚も後ろから迫ってくる。背後に気味悪さを感じた時のゾワゾワする感覚が常に背中に纏わりついている。


諦めの悪い奴、と紗也羅は内心で毒づきながら言うことを聞かない足を前に進めることをやめなかった。何のためにあの胡散臭い男が差し出した書類にサインしたと思っている?


「替わって!」


「五月蝿いな! あたしはあんたの替わりになるのも、こんな場所で死ぬのもお断りだ!」


空間に反響するほど大声で叫ぶと、少しだけ不安が払拭された。そうだ、自分はこんな所で呆気なく終わるわけにはいかないんだ。


このままいつまでも意味のない鬼ごっこを続けるのかと思っていた時、紗也羅の目が微かに漏れる光を捉えた。黒一色の空間の中では、そこだけが妙に明るく、眩しく見えた。


蛾が吸い寄せられるように、紗也羅は一心に光のある場所を目指して走った。その先が安全かなんて、考える暇はなかった。近づくにつれて、光はドアから漏れ出ていることが分かった。所々ペンキのはげた、黒い重厚なドア。


――あそこに行けば!


今となっては出所の分からない安堵が胸に広がった時、紗也羅の背中を冷たいものが触れた。振り返ると、女が細く長い腕を伸ばして、紗也羅の制服を掴もうとしているところだった。


「離せ!」


行き先を得た安心感に一瞬でも浸った自分が許せなかった。金切り声に近い叫びをあげながらも、紗也羅はラストスパートをかける。


――こんな……こんな所で終わりたくなんかないんだ。

 

心の中で何度もそう言い聞かせて。


ドアへと思い切り手を伸ばす。ギィという軋む音と共に、ドアはゆっくり、しかし何にも触れられないはずの紗也羅の手によって確かに開いた。


「逃げられるわけないんだから」


ドアの中へと逃げ込む刹那、女の声が紗也羅の耳にしっかりと届いた。「替わって」と熱に浮かされたように繰り返していた時とは口調も声音も全く違う。その声は聞き慣れた誰かにそっくりだった。


「……!」


逃げていた時よりもずっと激しく心臓が鼓動を打つのが分かった。壊さんばかりの勢いでドアを閉める。いきなり明るい空間に入った所為で頭痛と眩暈がした。凭れるようにしてその場に座り込む。


「おっ、噂をすれば新入りじゃねぇか! ちゃんと迷子にならずに此処までこられて良かった!」


声と一緒に大きな手が頭上から降りてきた。そのまま紗也羅の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きまわした。


「えっ?ちょっ……何!」


頭を防御しつつ何とか立ち上がると、見上げるのに一苦労な大男が満面の笑顔で紗也羅を見つめていた。がっちりした肩幅に太い腕。厳つい見た目に似合わず温厚そうな印象を抱かせるのが不思議な男だった。


「詳しいことは八神に聞いてるぜ! よく頑張ったな!」


男はそう言ってもう一度紗也羅の頭をぐしゃぐしゃと掻き乱す。緊張が一気に解けたこともあってか、無下に拒否する気にはなれなかった。


「お止めなさい七星。嫌がってるじゃない」


凛と張った声が聞こえた。視線をやると、いつの間にか女性が男の隣に立っていた。艶やかな黒髪を一つに束ね、同じく黒いスーツに身を包んでいる。細身な分男と並ぶと妙な違和感を醸し出していた。


女性は紗也羅の方に目線をやり、それから嬉しそうに微笑んだ。女性も男も、八神と同様に血みたいな濃く紅い目の色をしている。


「まぁ、よく見たら可愛いお嬢さんじゃない。お疲れ様、お菓子食べる?」


女性はポケットからマドレーヌらしき焼き菓子を取り出した。どちらかと言うと水分を奪うようなものは食べたくなかったが、気づいたら焼き菓子は紗也羅の掌に乗っかっていた。


「お名前教えてもらってもいいかしら?」


「樋野紗也羅、です」

 

興味津々といった様子で女性は紗也羅に詰め寄る。紗也羅は水分の不足した口に無理矢理焼き菓子を突っこみながら答えた。


「可愛い名前ね。私は一宮よ。よろしくね紗也羅ちゃん」

女性――一宮は初対面にも関わらず親しげに紗也羅に握手を求めてきた。紗也羅は困惑しながらもそれに応じる。


「……なぁ一宮、一言いいか?」


七星と呼ばれていた例の大男が申し訳なさそうに切り出した。一宮があからさまに嫌そうな顔をしながら何?と短く訊いた。


「何じゃなくてさ。ほれ、足踏んでんじゃん」


七星が地面を指さす。視線を向けると、一宮のハイヒールの踵が見事に七星の靴の上に乗っかっていた。見てるだけでももの凄く痛そうだ。


「あら、ごめんなさい」

 

口先だけの謝罪を口にし、一宮は渋々といった感じでヒールをどけた。七星はぷはぁと息を吐き出し、しゃがんで足先を擦っている。


「あのさぁ、いつも思うんだけど、態とやってね?」


「そんなことないわよ。いつも都合の悪い場所に居る七星がいけないんじゃなくて?」


ただの痴話喧嘩の様相を呈してきたやり取りを呆然と眺めながら、紗也羅は現状を何とか理解しようと努めた。通り魔に遭い、中途半端な形で蘇ったと思ったら少年に鎌で狩られかけ、寸前で現れた胡散臭い男が差し出した契約書にサインして――。


「よく言うわ。おつむは小学生以下のくせに」


「んなこたぁねぇよ!」


時折耳に届く罵詈雑言が思考を妨げる。今の紗也羅にそれでも尚思案し続ける気力も体力もなかった。降伏の意を込めて大きく溜め息を吐く。


「ほらほら。お客さんが困っているではありませんか。雑談はそこまでにしなさい」

 

ぱんぱんと手を二回叩く音と共に聞いたことのある胡散臭い声音が響いた。そちらに視線をやった時、初めて部屋の全貌を見た。


中は世にいうオフィスみたいになっていて、無機質な机が5個並べられていた。一つは空席なのか、バッグやら女性物のコートやらが置かれ、ほとんど一宮の私物置きと化しているみたいだった。その一番奥に八神は居た。


机の上には英国式のティーセットが広げられ、優雅に紅茶など飲んでいる。傍らにもう一人小柄な男が立っていたが、彼は紗也羅を一瞥しただけで何も言ってこなかった。


「……お前」


「改めてこんにちは、樋野紗也羅さん。再びお目にかかれて嬉しい限りですよ。――申し遅れましたが、私こういう者でございます」


八神はティーカップを置くと立ち上がり、紗也羅の方へと近づいてきた。そして胸ポケットから小さな紙を取り出す。受け取ってみると名刺のようだ。


『株式会社アンダーテイカーズ 人事部部長 八神』


名刺に書かれた20文字の文字から八神の人となりを推測するのは、紗也羅にはひどく難しいことだった。八神がニヤリと微笑むのを視界の隅に捉える。


「そんな薄っぺらい紙一枚で理解できるわけがありませんよね。大丈夫ですよ、ちゃんと説明しますから。……さてと、何から話しましょうか」


八神はまるで宙に文字が書いてあるかのように視線を様々な方向に彷徨わせながら、紗也羅の周りをぐるぐると歩いていたが、やがてピタリと歩みを止めた。


「では、まずこの会社の仕組みから説明しましょうか。この『株式会社アンダーテイカーズ』は、死者の魂を黄泉の世界に案内する死神たちの集団です。ちなみに株式会社と言っても名ばかりで、社長がノリで決めてしまったものなので悪しからず――」


「ま、待ってくれ。今……死神って言ったよな?」


いきなり核心をつかれ、紗也羅は思わず八神の言葉を途中で遮った。八神は何当たり前のことを聞いているのだという顔で紗也羅を見つめる。


「そうですよ。説明しませんでしたっけ?」


「説明なんて何も受けていない。その……死神ってことはやっぱり、人間の魂を狩る類の者なのか?」


八神は最初目を丸くしたが、すぐに腹を抱えて笑い出した。意を決して言ったことを笑われ、紗也羅は憮然とした表情で八神を睨みつけた。


「失礼しました。まぁ、そのような典型的なイメージを持たれても仕方ないのですが、私達に生きている人間の魂を狩る権利はありません。私達はあくまで死者の魂の案内役ですから……。人間の魂を狩るのは、どちらかと言えば貴女の仕事ですかね」


「……えっ?」


「説明を続けましょう」


紗也羅の疑問には応えず、八神はまた宙に視線を向けながらぶらぶらと歩き始めた。紗也羅はぐっと息を殺して、八神が口を開くのを待つ。


「この世には2種類の人間が居ます。自らの死を受け入れる人間と、そうではない人間。無論、貴女は後者だった為に今此処に居るわけです」


暫くして八神は紗也羅の目を見ながら告げた。


「そうだな」


「受け入れようが拒否しようが、死というものは平等に人の元に訪れるものなのですが……。時々居るんですよ、死を拒絶するあまり、死神の意に背いて現世に留まろうとする者が。それを我々は『残留思念』と呼んでいます」


――『残留思念』だよね、キミ。


優と呼ばれていた少年にそう言われたのを思い出す。あの時は意味が分からなかったけれど、自分が「死にたくない」という想いに駆られるあまり不法に現世に留まろうとしたということがはっきりと自覚された。


「魂だけの存在であれば少し荒っぽい手を使って強制的にこちら連れてくることも可能なのですがね。厄介なことに、彼らは不完全ながら血の通った肉体を持ち、より完全な身体を求めて生きた人間を襲うのです。……お気づきかと思いますが、貴女を刺したのも、『残留思念』の一人です」


八神の言葉に、紗也羅は何も言えず呆然と立ち尽くしていた。何の謂れもなく突然自分を殺したのは、本来ならとっくに死んでいるはずの人間だった。


「肉体を持っているだけに、曲がりなりにも彼らは『生きた人間』です。死神が対抗する術はありません。そこで我々は考えたわけです。目には目を、歯には歯を。――『残留思念』には『残留思念』を」



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