プロローグ
死にたくない。
少女のささやかな願いは、9月中旬、雨の路上にて打ち砕かれた。
無機質で堅いアスファルトの感覚、同時に感じる血の生温さ、体温を奪っていく冷たい9月の雨……それらは死が近づいているということを正確に、そして残酷に少女に教える。
――死にたくない。
心を通り過ぎていく混乱や不安と戦いながら少女は叫んだ。しかし叫びは声にならず雨音にかき消されていく。
少女の脳裏に、今まさに自分の帰りを待っているであろう母の顔が過った。走馬灯の中の母は、新しく買ったばかりと自慢していた桜色のエプロンを掛けて手際よくカレーライスを作っていた。娘がいつも通り帰ってくることを疑いもせず、優雅に鼻歌など歌いながら。
鮮明すぎるその映像は、少女の死に対する恐怖を増幅させた。死にたくない、家族が待っている温かい家に帰りたい。
しかし思いだけが先走り身体はいつまでも動く気配がない。鉛のように重たくなった身体は最早指一本も動かせない状態になっていた。同じく物理的重さが一気に増した瞼が、脳の命令に反して視界を塞いでいく。
――し、に、た、く、な……。
最後の言葉を言い切れぬまま、糸が切れるように呆気なく、少女の意識はそこで一度途絶えた。
底なしの暗闇の中少女を出迎えたのは、幼き日の悪夢だった。
目の前には血だまりに転がる男女の姿。それはもう人間ではなくモノと化し、再び呼吸することも、誰かに笑いかけることも無い。心の奥底に鍵をかけて仕舞っていたはずの、少女が最も思い出したくない記憶だった。
夢の中であるはずなのに少女は激しい動悸と頭痛に襲われ、耐えきれずその場に座り込んだ。
それと同時に全ての元凶となった人物のことを思い出す。罪悪感ではなく嘲笑に顔を歪めたその人物は、残された少女の人生すら大きく狂わせた。
怒りと憎しみで吐き気がする。あまりにリアルな感覚にこれが夢だと忘れかけた。
視界の隅に白い足が入り込んだ。顔を上げると、小学校入学前くらいの小さな女の子が血だまりの中央に立っていた。肩くらいまでの長さの髪をツインテールにし、青いワンピースを着ている。胸の部分に血がべったりと染みついていることを除けばどこにでもいる普通の女の子だ。
女の子は暫くの間無言で足元の赤い液体を見つめていた。長い前髪で顔の上半分は隠れてしまい、表情を伺うことは出来ない。
嫌な予感がした。この後女の子がどうなってしまうのか、少女には安易に想像が出来た。
女の子の口元に微かな笑みが浮かび、直後壊れたように笑い出した。黒板を爪で引っ掻いたような不快な高音が空間に反響する。耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、少女は唇を噛み締めた。
不意に女の子が視線をこちらに向ける。前髪の隙間から見える目には年相応の無邪気さはおろか感情すら投影されておらず、悲しいほど空虚だった。
「嘘つき」
薄い唇から掠れた声を伴って放たれた言葉は、一瞬にして少女の心を深く抉った。頭痛は鋭さを増し、全力疾走した時みたいに呼吸は荒くなる。女の子はそれを見てにやりと微笑んだ。
「嘘つき」
少女は耐えきれず耳を塞いだが、女の子の声を完全にシャットダウンできるわけではない。鋭い言葉の断片からは逃れられない。
「嘘つき」
壊れた機械人形のように女の子はそればかり繰り返す。
「嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき……」
「やめて!」
少女が悲痛な叫び声をあげた刹那、血だまりの男女と女の子はまるでシュレッダーにかけられたようにぼろぼろと形を失い、暗闇の中に吸い込まれていった。
上半身だけになった女の子は、それでも少女に不気味な笑みを投げた。
「逃げられるわけないんだから」
女の子が言い終わるのを待っていたように、崩壊はスピードを増し、あっという間に女の子がいた形跡は無くなってしまった。少女は静寂が立ち込める空間に一人取り残された。
気づけば少女は叫んでいた。抉られた心を守る為に。それはどこか先程の女の子の笑い声に似ていた。
声に応えてくれる人も、優しく包み込んでくれる人もいないと知りつつ、少女は魂を吐き出すように叫び続ける。それを遮ったのはアスファルトを打つ雨の音だった。
音はだんだん大きくなり、黒一色だった世界も元の灰色に埋め尽くされた空と見慣れた路地裏に変わっていった。
泥沼から這い上がるようにして悪夢から解放された少女が最初に見たものは、雨の路上に横たわる自分の抜け殻だった。
学校の制服である白と水色のセーラー服の脇腹部分にはナイフが刺さったままになっており、そこから半径30センチほどは制服の色が判別できないほど血で真っ赤に染まっていた。そしてそれに対比して、抜け殻の顔は体温を失ってどこまでも青白い。
一瞬誰なのか分からなかった。これが自分だということが、少女にはどうしても理解できなかった。
「何……これ。あたしは、一体……」
ぐちゃぐちゃになった頭を宥めすかして少女は抜け殻を凝視した。悪夢の中と同じ鮮やかな血の紅は、見知らぬ男にすれ違いざまに刺されたことを少女に思い出させる。
この地域で連続して起こっている通り魔事件。その被害者になり、少女もまたモノと化して路上に転がっていた。その事実が急速に少女の身体を駆け巡り、言いようのない不安に支配される。
「嫌だ……死にたくない。死にたくないよ」
駄々をこねる子供みたいに少女は呟いた。ならば何故自分がここにいるのかなど、今は考えることが出来なかった。
少女は不意に思い立って、青白くなった自分の抜け殻へ手を伸ばした。まだ温かいのではないか、眠っているだけで実は生きているのではないか。確かめる前から分かり切っているであろうことにすら少女は縋りたかった。
しかし奇跡があるはずもなく、また抜け殻の冷たさに打ちひしがれることも出来なかった。少女の手は抜け殻に触れることなくすり抜けてしまったのだ。
「え?」
抜け殻から手を引き、少女は暫く呆然としていた。
身体が死んでいるはずなのに、自分は今こうしてそれを見ている。その不自然さに少女はようやく気がついた。
「何で……」
少女は自分の脇腹に目を向けた。ナイフも血の染みもなく、普段使っているものと何も変わらなかった。むしろこちらの方が血色も良く、生きているという感じがした。しかし今の自分は他者に触ることが出来ない。しかも制服は雨が降っているにも関わらず全く濡れていなかった。
現状が分かれば分かるほど理解できないことが増えていく。混乱を極めた少女の頭が導き出した結論は、「とりあえず家に帰ろう」だった。
家に帰れば家族が待っている。辺りはもう暗くなっているから、遅くなったことを叱られるかもしれない。そういえば今日は弟の数学の宿題を手伝う約束をしていたんだった。夕飯を食べ終えたら自分も宿題を片づけつつ教えてやらないと。そういえば因数分解がよく分からないって言ってた気がするな――。
不安を払う為態と他愛のないことを考えながら立ち上がった時だった。
「見ぃつけた」
声が聞こえて振り返ると、見知らぬ少年が道を塞いでいた。長身で細面、どこか猫みたいな印象を抱かせる。
喪服みたいな真っ黒なスーツを着て右手に青い傘を携えた少年は、傘は閉じたままにも関わらず少女と同じく髪もスーツも全く濡れていなかった。
「『残留思念』だよね、キミ」
「え?」
立場を理解していないと察したのか、少年は憐みの視線を少女に向けた。
「あぁ、もしかして自分がどういう状況かよく分かってない感じ?それなら今のうちに狩っておいた方がいいな」
一人で納得してしまった少年が勢いよく傘を開くと、途端にそれまで普通の傘だったものが少年の背丈を超える巨大な鎌に変わった。
死神の鎌。
そう形容するに相応しい綺麗な三日月形の刃が、光を反射して少女の姿を映す。目の前で起こっていることが信じられなかった。
少年の目がすぅっと赤みを帯びる。人間のものとは思えない冷酷な紅に思わず身がすくんだ。
「年下の『残留思念』狩るのって心痛むんだけどさぁ、仕方ないんだ。……ごめんね」
少年は申し訳なさそうに微笑んだ後、地面を蹴って一気に間合いを詰めてきた。
避けろ、と少女の本能が告げる。
鎌の切っ先が心臓を貫くすんでのところで直撃を避けることは成功した。少年がヒュゥと口笛を鳴らす。
「一発でいけると思ったんだけどな。意外と素早いんだね。こりゃ面倒臭くなりそうだ」
言い終えるかどうかのうちに鎌の切っ先が少女めがけて飛んでくる。
戦え。内側から声が聞こえた。
それに従うように、振り下ろされる鎌をするりと避け、がら空きになっていた少年の脇腹に蹴りをいれた。ほぼ無意識の行動で、何をしたのか自分でも分からない。
少年は突然の反撃に驚いたのか、脇腹を押さえて一瞬よろめいた。
今は逃げることが最優先だと少女は思った。とにかく安全を確保しなければ。
走り出そうとした刹那、背中に衝撃が走り焼け付くような痛みが一気に広がる。斬られたと理解するのにそう時間はかからなかった。そのまま膝から崩れ落ちると、少年はゆっくりと少女の方に近づいてきた。
「……逃げようたってそうはいかないよ」
少年の声には先程までの軽々しさはまるでなく、態と感情を押し殺しているようだった。
少女の額を冷たい汗が伝う。思うように身体が動かなかった。
「生きたいと思ってるのはオレもあんたも同じだ。でもあんたらの存在は認められてないし、オレはあんたを狩らなきゃいけない。だからいっそ、精神崩壊起こす前の楽な状態で死なせてやるよ」
存在を認められていない。
自分はそれに当てはまっているのだと感じた。
ならば、今ここで殺されてしまった方がいいのであろうか。そんな思いがむくりと首をもたげた。
でも、
「嫌だ」
思いが完全に起き上がる前に言葉が口をついて出た。
痛みをこらえながら何とか起き上がり、少年を睨みつける。しかし少年もまた驚くほど冷たい目をしていた。
「……もう手遅れさ」
小さな声で少年が呟くのと同時に刃が喉元に突き付けられた。掻き切られてしまえば完全に終わりだ。下手に動けば自分で自分の首を斬りかねない。
拳を強く握りしめ、下唇を噛む。何だか泣くのを堪えるような恰好になってしまった。
「死にたくない」
はっきりとした声で少女は言った。思いの丈を吐き出さずにはいられなかった。
少年の目に一瞬迷いが浮かぶ。
「……オレだってそうさ。だからオレは、あんたを殺す」
そう言い切った唇は小刻みに震えていた。捨てきれない感情と義務が、心の中で格闘しているのだと少女は感じた。
やがて少年の顔から迷いが消えた。どうやら義務が勝利してしまったらしい。
「死にたくないんだ!」
能面のように何の感情も浮かんでいない少年に、それでも少女はそう叫んだ。少年は少しだけ頬を緩めると、どこか寂しげに微笑んだ。憂いを含んだその表情に少女の心は締めつけられた。
「……あんたとは同僚として会いたかったよ」
少年の鎌を握る右手に力がこもる。尚も少女は何とかこの危機を抜け出そうと目まぐるしく脳みそを回転させていた。
どこかにチャンスは無いのか。鎌の餌食を乗り切る手段は……。
「彼女を殺してはいけませんよ」
チャンスは頭上から降ってきた。
「八神さん……!」
少年につられて声のした方向を見ると、ブロック塀の上に一人の男が立っていた。
今や少女の命の実権を握るその男は、真っ白い髪に少年と同じ紅い目、黒いスーツに蝙蝠傘を携えている。「胡散臭い」という単語を擬人化したら間違いなくこの男になると断言できるくらい、その顔に湛えた笑みは妖しげだった。
八神というのは恐らくはこの男の名前であろう。
男は身軽にブロック塀から飛び降りると少年と少女の間に割って入った。
「ほらほら、優くんもいい加減警戒を解いて下さい。今回は特例ですから彼女を殺す義務は貴方にはありません」
少年――優は渋々といった感じで鎌を下ろす。
男は満足げに微笑むと、そのまま少女に視線を移す。
「初めまして、樋野紗也羅さん。私は八神と申します」
まるで英国紳士のような優雅な動作で男はお辞儀をした。見た目の妖しさに反して所作は洗練されている。
「どうしてあたしの名前を……?」
樋野紗也羅、というのは確かに少女の名前だ。しかし、初対面なはずのこの男がどうして知っているのだろう。
男は質問には答えず、まるで空に書かれた何かを読んでいくようにすらすらとしゃべり出した。
「樋野紗也羅。今から14年前の7月23日午後1時35分41秒に生まれる。優しく理解のある両親の愛情を受けて育ち、幼い頃から周囲の人気者であった。現在は市立桜ヶ丘中学校2年3組29番に籍を置き、成績優秀、スポーツ万能な所謂『優等生』。しかし持ち前の明るさから人望も厚く学級委員を務めるなど多くの場で活躍している……っと。貴女のこれまでの人生から都合の悪い部分を一切合切省いて3割増しにすればこんな感じですかね。名前だけじゃなくてこれぐらいの情報なら把握済みですよ」
言い終わってから男はにやりと少女に笑いかけた。
周囲からの評価は別として、誕生日も所属中学校も見事に当たっていた。少女の中で男に対する不信感が広がる。
「……八神さん、ドン引きされてますよ」
見かねた少年が申し訳なさそうに男に告げた。
「おっと。すみません、無駄話は過ぎましたね。早くしないと精神崩壊のタイムリミットが来てしまう」
ついさっき少年も同じことを言っていた。精神崩壊が起こる、と。少女には何のことかさっぱり分からなかったが。
「一つだけ断言しておきましょう。樋野紗也羅さん、貴女はもうこの世には存在していません。分かりやすく言うと死んでいます」
いきなり言われて、落ち着きつつあった少女の頭はこれまた混乱状態に陥った。
自分の抜け殻を見た時から何となく分かってはいた。それなら何故自分はここにいて、こうして少年や男と会話しているのだろうか。
「……まぁ、細かく言うと身体が死んでいるってことなんですよ」
男は少女の疑問に答えるように呟くと、スーツの胸ポケットからぐっしゃぐしゃになった紙を取り出した。
「それって……」
少年の問いに男は不敵な笑みを浮かべることで肯定の意を表した。
「落ち込んでる暇はありませんよ。貴女には選んでもらわなければいけないのですから」
沈痛な面持ちで宙を眺めている少女に男ははっきりとした口調で言った。真紅の瞳がまっすぐに少女を見つめる。
「選ぶって何を……?」
例のしわくちゃな紙が少女に向かって投げられた。受け取って皺を伸ばしてみると、そこには『契約書』と大きく書かれている。男は人差し指と中指でVサインを作った。
「選択肢は二つです。一つ目は今ここで彼に殺される。この場合、貴女の存在は完全に消えて無くなります」
少年が鎌を持つ手に力を込めたのが見えた。男が止めなければ自分は必ずあの鎌の餌食になる。そう思うと足がすくんだ。
「二つ目、生き返るために戦う」
「え?」
今、男は確かに『生き返る』という単語を口にした。
「言葉の通りですよ。こちらを選んだ場合、先程渡した契約書にサインしていただく必要があります」
皺だらけで所々読めなくなっていたが、契約書には小さな文字で文章が書かれていた。
『――私は株式会社アンダーテイカーズの派遣社員として従事することを誓い、またその際に生じる如何なる問題も自己責任とする――』
大体こんな内容だった。
「契約したら働いてもらう。この世はそういうシステムです。ノルマをクリアすればもう一度生きるチャンスが与えられます。これは保障しましょう。但し、決して生半可な決意で出来ることではありませんよ。彼を見れば分かるでしょう?」
男が少年を指す。良心と義務の間で揺れ動いていたあの悲しげな表情が思い出された。
「今より悲惨な状態に陥ることだって大いに有り得ることです。あるいはここで人らしい最期を選ぶのも得策――」
「やるよ。派遣社員だか何だか知らないけど、あたしは後者を選ぶ」
男の言葉を遮って少女は顔をあげる。その目には少しの迷いも浮かんではいなかった。選択肢を示された時から選ぶ方は決まっていた。
「いいんですか?あくまでも生き返る可能性がある、というだけですよ。確証なんてどこにもありませんからね」
そう言いながらも、男の目は少女がどちらを選ぶか、最初から知っていたと語っている。
「構わない」
男の顔に一瞬だけ影が差したように見えた。そのまま悲しげな微笑を象っていく。
「――本当に、あの人に……」
声が小さすぎて後半は雨音にかき消されてしまった。
すぐに男は元のニヒルな笑みを浮かべ、少女に手袋をはめた大きな手で万年筆を差し出した。
「されでは樋野紗也羅さん。これにサインを」
最早躊躇いなど一切無かった。でこぼこして書きにくいことこの上ない契約書の隅に名前を書き、男に手渡した。
「もう、後戻りはできませんよ」
契約書を受け取った男は神妙な口調でぽつりと呟くと、徐に左手の手袋を外しその手を少女の額に押し付けた。その瞬間、身体の力が一斉に抜け少女は立っていることができなくなった。
意識が遠くに行ってしまう感覚に襲われる。
「……迷子にならずにこちらに辿り着いて下さいね。貴女の仕事ぶり、期待していますから」
どこか優しげな男の声が聞こえたのを最後に、少女の記憶は途切れた。