2.ほろ苦い午後
青空だった天気は、いつの間にかどんよりとした灰色に覆われていた。梅雨に入り、毎日のように雨が降り続いている。
朝から途切れなく降る雨のせいで、会社の窓は薄く曇り、空調の効いた室内には湿気が漂っていた。パソコンの熱気と紙の匂い。そして雨の湿った空気が混ざり合って、頭の奥が重たく苦しい感じがする。
昼休憩。雨が降っている最中外に出る気にもなれず、私は休憩室のテーブルにお弁当を広げていた。ここ最近はストレスのせいなのか、味覚が鈍くなっている。
好きだったはずの手作り卵焼きを口に運んでも、全く味が感じられない。
窓の外をぼんやりと眺めながら、ガラスを打つ雨音に耳を澄ます。無数の水の粒が絶え間なく叩きつけ、まるで心の中の空虚さを代弁しているようだった。
「早くこの時間から解放されたいな……」
誰にも聞こえない小さな声で呟く。自分の言葉が、雨音にすぐ飲み込まれていく。
そんなときだった。
「……桐谷さん、隣いいかな?」
不意にかけられた声に顔を上げる。
そこには、浅倉先輩が立っていた。手には自動販売機から買ったらしい缶コーヒー。
その姿を見た瞬間、胸の奥がわずかに跳ねる。
「は、はい。どうぞ」
自分でも少し慌てた声が出てしまい、恥ずかしくなる。
浅倉先輩は柔らかく微笑んで、私の隣の席に腰を下ろした。その瞬間、彼からふわりと漂うコーヒーの香り。
深く、ほろ苦い香りが湿った空気の中でゆっくりと広がる。少しだけ気持ちが落ち着いていく気がした。
「この感じじゃ、今日の帰りは強く降りそうだね。桐谷さん、傘持ってきてるかい?」
浅倉先輩が窓の外を見ながら言う。その横顔は職場の真剣な表情とは違って、どこか穏やかだった。
ん?待てよ。今日、鞄に折りたたみ傘……入れてたっけ?
頭の中で必死に思い返すが、今朝の記憶が曖昧だ。
「……ああっ!傘、持ってきてないんです!」
勢い余って、少し大きな声が出てしまった。
「あぁ、そうなんだ。ちょっと声下げてね」
浅倉先輩は少しだけ目を細めて笑い、それから視線を落とした。
「……じゃあ良かったら、帰りは一緒にどうだい?」
その言葉に、また胸が小さく跳ねた。
だからってなんなのだっていう話だけど、私にとっては良い気晴らしになるように思えた。
「え、あ……いいんですか?」
「え?もちろん。雨の中びしょ濡れのまま、駅まで帰るのは大変でしょ?」
あの日以来、先輩はよく私に声をかけてくれるようになった。
他の人から見れば、きっと些細なことだろう。
でも私にとっては、それだけで一日が少しだけ気分が軽くなる。
お弁当を食べ終えたあとも、先輩と他愛もない会話を交わした。
気づけば、残りの昼休憩は砂時計のように静かに落ちていった。
窓の外では、相変わらず雨が降り続いている。
少しずつ雨脚が強まり、道路を走る車のタイヤが水を跳ね上げた。
それに伴ってなのか、心の中にあった重たい雨雲がほんの少しだけ薄らいでいく気がした。
──そして、夜。
会社を出ると、雨脚は昼よりもさらに強くなっていた。
アスファルトの上で弾ける雨粒が、街灯の光を反射して雫が光っている。
行き交う人々はそれぞれの指してある傘の下で足早に通り過ぎ、湿ったアスファルトに靴音だけが不規則的に響いていた。
「さあ、こっち入って」
会社の出入り口付近で傘を広げながら、浅倉先輩が私に手招きする。私は黒い傘の中へ、おそるおそる身を寄せる。
思っていたよりも狭い様で広い空間だった。傘の縁から滴る雨が肩に落ちそう、私はほんの少し体を傘の中心へ寄せる。
歩くたびに浅倉先輩の肩が触れ、スーツの生地がこすれる様に感じた。ただ隣で歩いているだけなのに、私の心臓の鼓動が落ち着かなくなる。
「……すみません、やっぱり狭いですね」
「大丈夫だよ。桐谷さん、このままだと傘も差さずに帰っちゃいそうだったから。風邪ひかれたら困るし、僕が心配になる」
そう言って笑う先輩の声は、雨音の中でも不思議とよく聞こえた。ふと斜め上を見上げると、傘の内側にこもる熱が外に逃げているように感じた。
「……桐谷さんってさ」
「…え…は、はい?」
「最近は見ないけど…普段はよく笑うのに、仕事のときは頑張りすぎるよね。自分の悩みとか色々、溜め込みすぎてない?」
雨音にまぎれて発せられたその声が、やけに近く響いた。
先輩の方へ顔を上げた。雨粒を照らす光の中で、浅倉先輩の横顔は少しだけ切なげに見えた。
「だから……限界になる前に、誰でも良い。僕でも良い、頼ってほしいな。なんて」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。驚きと嬉しさと、少しの戸惑いが一度に押し寄せてくる。
この感情を整理出来ないまま、私はそっと彼を見上げた。
「…えっと…そんなふうに、見えてました?」
「あ、うん。ちゃんと真面目に頑張ってる人って、溜め込みやすい兆候にあるから…分かりやすいんだよ」
言葉の中に、優しさと心配がにじんでいる。
それが嬉しくて照れくさくて、自身が歩いている地面に視線を足元に落とした。
濡れたアスファルトに映る二人の影が、ひとつの傘の中で寄り添っている。
交差点の信号が変わり、歩き出す。横断歩道の白線に、まだ吸収されてない雨の粒が跳ねた。
浅倉先輩がそっと再度傘の角度を変え、私の肩が濡れないように位置を調整する。
──周りに心配かける訳にはいかない。
心の中でそう思いながら、私は傘の内側からこっそり遠くを見つめた。
雨は止む気配もなく、街灯の光を受けて降り続けていた。




