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日々の隙間に咲くもの  作者: 穂乃歌
ひとひら、恋の雫
8/10

1.残業帰りに

重たい足取りで帰路につく桐谷未来。

同じ職場の先輩・浅倉陽介と改札前で出会い、ぎこちない会話の中で彼の“ちょっとした優しさ”が差し込む──。

コンビニスイーツを分けてもらったその瞬間、未来の胸の奥には、ほんのりとした温かさと、“変わった”気持ちが芽生え始める。


普段は淡く、静かな日常の陰に潜む心の揺らぎを描く、ささやかな恋の始まり。

 私は桐谷(きりたに)未来(みく)

 気づけば今日も、日付が変わる少し前に会社を出ていた。

 残業は慣れたつもりでも、夜風を受けながら駅へ向かう足取りは、どうしても重くなる。

 街のざわめきも、疲れた心には少しだけ遠く感じられる。

 すれ違う人たちの笑い声が、仕事終わりの静寂を一層際立たせていた。


「明日も朝から会議か……」

 そう呟きながらため息をひとつ。

 仕事は嫌いじゃない。むしろやりがいを見つけ始めていた。

 だが終業後のこの時間だけは、自分だけが取り残されたような気分になる。

 照明に照らされたアスファルトの上に、自分の影だけが長く伸びていて、それがやけに心細かった。


 周りが急ぎ足で通り過ぎていく人々の背中を眺めながら、

「この人たちにも、それぞれの帰る場所があるんだな」とぼんやり考える。

 私ももちろん帰る家はある。今日もコンビニで買ったお惣菜を温めて、ひとりで食べるだけだ。

 それを思うと、胸の奥にぽっかり小さな穴が空いたような気がした。


 ──そのとき。

 視線の先に、ふと見慣れた横顔が映り込んだ。


「……あれ?」


 驚いて足を止めた。人混みの中でもすぐに分かった。その人は浅倉(あさくら)陽介(ようすけ)


 同じ部署の先輩で、几帳面で真面目。会議では落ち着いた口調で的確な意見を述べ、後輩の私たちからも頼れる存在として慕われている。

 けれど──昼休みになると、食後のデザートを買ってきたであろうコンビニの袋を下げて帰ってきて、中身を見せては「これ、新発売なんだってさ」と嬉しそうに披露し、まるで少年のように無邪気に笑う一面を見せる。

 そのギャップが可笑しくて、でも同時に、私の胸が少しドキッとした。


 夜のホームで照明に照らされながら、浅倉先輩はスマホを見つめている。

 その横顔は、昼間の明るい雰囲気とは違って、どこか静かで、少し寂しげにも見えた。

 疲れた表情の中に浮かぶ優しさが、ふとした瞬間にこぼれ落ちそうで──目が離せなくなる。


 電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。

 ホームに吹き込む風が、髪を軽く揺らした。

 私は、声をかけようとして──でも、その一歩が出なかった。


「…いや……やっぱり、やめとこう」


 ボソッと呟いて、虚空に視線を逸らす。

 同じ空間にいるのに、知らないふりをする。それがいちばん楽な距離のような気がしていた。

 けれど、それでもどうしてか、足は彼のほうへと向かっていた。


 少し歩き出した瞬間、浅倉先輩がこちらに気づく。

 顔を上げて振り向き、柔らかく目を細めた。

「…あれ?……桐谷さんも残業だったの?」

 低めの声に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。


「え、あ……はい。浅倉先輩もですか?」

 思わず言葉がぎこちなくなる。

 それでも、たったそれだけの会話で、帰り道の寒さがほんの少し和らぐのを感じた。

 彼の声には、不思議と心を落ち着かせる感じがする。


 カサカサと下から音がした。音のした方を見ると、先輩の手にはコンビニのビニール袋が握られている。

 チラッと覗いた中には、見覚えのあるパッケージ。

 ふと、昼休みのあの笑顔が思い出される。


「……それ、新作ですか?」

 いつの間にか口が勝手に動いていた。自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。


 浅倉先輩は少し目を丸くしたあと、照れたように笑った。

「お、よく分かったね。……良かったら、一緒に食べる?」

「い、いえ」

「そ、そう?」


 袋の中を軽く持ち上げて見せる。中には小さなプリンのカップ。小さな透明のふた越しに、とろりとしたカスタードが揺れる。

 差し出すように見せられて、思わず頬が熱くなる。仕事場では落ち着いた先輩が、こうして気さくに声をかけてくれることが、嬉しくて仕方なかった。


「これ、気になってて。今日、つい買っちゃった」

「甘いの、好きなんですね」

「うん。疲れたときは、糖分がいちばんの癒しだから」


 先輩の声は穏やかで、どこか照れくさそう。

 その言葉に合わせるように、彼の指先がビニール袋を軽く揺らした。


 仕事場では落ち着いていて、いつも冷静に物事を判断する人。

 でも今、こうして夜のホームで見る彼は、少し違う。

 スーツの襟が風に揺れて、柔らかな表情をしていて──まるで、同じ会社の人じゃないみたいに見えた。


「……浅倉先輩って、ちゃんと自分を甘やかせるんですね」


 先輩が「え?」と小さく笑う。

「いや、上手いこと言うね。桐谷さんも、たまには自分に甘くしなよ」

 そう言って笑う先輩の目尻に、少しだけ疲れの影が見えた。


 電車がホームに滑り込んできて、風が二人の間をすり抜ける。

 アナウンスの声と車輪の音が重なって、足元から小さな震えが伝わってきた。

 列車の明かりが彼の頬を照らした瞬間、私は小さく呟いた。


「そうですね、確かに。……たまには自分へのご褒美とか、欲しいかもしれません」

 軽く笑いながら言ったつもりだったけれど、声がわずかに震えていた。自分でも理由が分からない。

 ただ、久しぶりに誰かに優しくされたことが、こんなにも胸が暖かくなるのだと知って、少し戸惑っていた。


 その言葉に、浅倉先輩は一瞬きょとんとしてから、少しだけ口元を緩めた。

「桐谷さんも、頑張りすぎないようにな」

 それだけ言って、目を細める。彼の声は、街のざわめきに溶けていった。


「……ありがとうございます」

 小さく呟いた声は、ちょうど電車のブレーキ音にかき消された。

 けれど、先輩の視線が柔らかく揺れていたのを、私は見逃さなかった。


 帰り道に差し込んだ、思いがけない優しさ。

 そしてその夜、家に帰ってカップスープを啜りながら、ふと気づいた。


 ──少しだけ、明日が待ち遠しい

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