1.残業帰りに
重たい足取りで帰路につく桐谷未来。
同じ職場の先輩・浅倉陽介と改札前で出会い、ぎこちない会話の中で彼の“ちょっとした優しさ”が差し込む──。
コンビニスイーツを分けてもらったその瞬間、未来の胸の奥には、ほんのりとした温かさと、“変わった”気持ちが芽生え始める。
普段は淡く、静かな日常の陰に潜む心の揺らぎを描く、ささやかな恋の始まり。
私は桐谷未来。
気づけば今日も、日付が変わる少し前に会社を出ていた。
残業は慣れたつもりでも、夜風を受けながら駅へ向かう足取りは、どうしても重くなる。
街のざわめきも、疲れた心には少しだけ遠く感じられる。
すれ違う人たちの笑い声が、仕事終わりの静寂を一層際立たせていた。
「明日も朝から会議か……」
そう呟きながらため息をひとつ。
仕事は嫌いじゃない。むしろやりがいを見つけ始めていた。
だが終業後のこの時間だけは、自分だけが取り残されたような気分になる。
照明に照らされたアスファルトの上に、自分の影だけが長く伸びていて、それがやけに心細かった。
周りが急ぎ足で通り過ぎていく人々の背中を眺めながら、
「この人たちにも、それぞれの帰る場所があるんだな」とぼんやり考える。
私ももちろん帰る家はある。今日もコンビニで買ったお惣菜を温めて、ひとりで食べるだけだ。
それを思うと、胸の奥にぽっかり小さな穴が空いたような気がした。
──そのとき。
視線の先に、ふと見慣れた横顔が映り込んだ。
「……あれ?」
驚いて足を止めた。人混みの中でもすぐに分かった。その人は浅倉陽介。
同じ部署の先輩で、几帳面で真面目。会議では落ち着いた口調で的確な意見を述べ、後輩の私たちからも頼れる存在として慕われている。
けれど──昼休みになると、食後のデザートを買ってきたであろうコンビニの袋を下げて帰ってきて、中身を見せては「これ、新発売なんだってさ」と嬉しそうに披露し、まるで少年のように無邪気に笑う一面を見せる。
そのギャップが可笑しくて、でも同時に、私の胸が少しドキッとした。
夜のホームで照明に照らされながら、浅倉先輩はスマホを見つめている。
その横顔は、昼間の明るい雰囲気とは違って、どこか静かで、少し寂しげにも見えた。
疲れた表情の中に浮かぶ優しさが、ふとした瞬間にこぼれ落ちそうで──目が離せなくなる。
電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
ホームに吹き込む風が、髪を軽く揺らした。
私は、声をかけようとして──でも、その一歩が出なかった。
「…いや……やっぱり、やめとこう」
ボソッと呟いて、虚空に視線を逸らす。
同じ空間にいるのに、知らないふりをする。それがいちばん楽な距離のような気がしていた。
けれど、それでもどうしてか、足は彼のほうへと向かっていた。
少し歩き出した瞬間、浅倉先輩がこちらに気づく。
顔を上げて振り向き、柔らかく目を細めた。
「…あれ?……桐谷さんも残業だったの?」
低めの声に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「え、あ……はい。浅倉先輩もですか?」
思わず言葉がぎこちなくなる。
それでも、たったそれだけの会話で、帰り道の寒さがほんの少し和らぐのを感じた。
彼の声には、不思議と心を落ち着かせる感じがする。
カサカサと下から音がした。音のした方を見ると、先輩の手にはコンビニのビニール袋が握られている。
チラッと覗いた中には、見覚えのあるパッケージ。
ふと、昼休みのあの笑顔が思い出される。
「……それ、新作ですか?」
いつの間にか口が勝手に動いていた。自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。
浅倉先輩は少し目を丸くしたあと、照れたように笑った。
「お、よく分かったね。……良かったら、一緒に食べる?」
「い、いえ」
「そ、そう?」
袋の中を軽く持ち上げて見せる。中には小さなプリンのカップ。小さな透明のふた越しに、とろりとしたカスタードが揺れる。
差し出すように見せられて、思わず頬が熱くなる。仕事場では落ち着いた先輩が、こうして気さくに声をかけてくれることが、嬉しくて仕方なかった。
「これ、気になってて。今日、つい買っちゃった」
「甘いの、好きなんですね」
「うん。疲れたときは、糖分がいちばんの癒しだから」
先輩の声は穏やかで、どこか照れくさそう。
その言葉に合わせるように、彼の指先がビニール袋を軽く揺らした。
仕事場では落ち着いていて、いつも冷静に物事を判断する人。
でも今、こうして夜のホームで見る彼は、少し違う。
スーツの襟が風に揺れて、柔らかな表情をしていて──まるで、同じ会社の人じゃないみたいに見えた。
「……浅倉先輩って、ちゃんと自分を甘やかせるんですね」
先輩が「え?」と小さく笑う。
「いや、上手いこと言うね。桐谷さんも、たまには自分に甘くしなよ」
そう言って笑う先輩の目尻に、少しだけ疲れの影が見えた。
電車がホームに滑り込んできて、風が二人の間をすり抜ける。
アナウンスの声と車輪の音が重なって、足元から小さな震えが伝わってきた。
列車の明かりが彼の頬を照らした瞬間、私は小さく呟いた。
「そうですね、確かに。……たまには自分へのご褒美とか、欲しいかもしれません」
軽く笑いながら言ったつもりだったけれど、声がわずかに震えていた。自分でも理由が分からない。
ただ、久しぶりに誰かに優しくされたことが、こんなにも胸が暖かくなるのだと知って、少し戸惑っていた。
その言葉に、浅倉先輩は一瞬きょとんとしてから、少しだけ口元を緩めた。
「桐谷さんも、頑張りすぎないようにな」
それだけ言って、目を細める。彼の声は、街のざわめきに溶けていった。
「……ありがとうございます」
小さく呟いた声は、ちょうど電車のブレーキ音にかき消された。
けれど、先輩の視線が柔らかく揺れていたのを、私は見逃さなかった。
帰り道に差し込んだ、思いがけない優しさ。
そしてその夜、家に帰ってカップスープを啜りながら、ふと気づいた。
──少しだけ、明日が待ち遠しい




