3.贈り物 Fin.
その夜、僕は夢の中で例の如く“僕じゃない誰か”として目を覚ました。
窓のない古い部屋。薄い毛布にくるまれたまま、僕の手は誰かの手を握っている。骨張っていて、冷たい。だけど不思議と安心する。
「……ごめんな」
目の前の“僕”が、弱く笑った。笑顔は小さく歪、でも真実味を帯びていた。どうやら僕は誰かを守る役目を終えたらしい。誇りや後悔の色はなく、その表情は使命をやり遂げたようだった。
手を握ったまま、夢の中の僕はゆっくり目を閉じた。まるでその役目の終わりを告げるかのように。
そこで世界はすっと緩み、僕は目を覚ました──広瀬燈としての朝に。
夜明け前の部屋には、一筋の光が差し込んでいた。カーテンの隙間から吸い込まれた空気が、ほんの少しだけ明るくなっている。季節の終わりに触れたような、夏の名残を感じる風だ。胸の奥に、昨夜の夢がまだ重く残っている。誰かが生きて、そして自分が何かを守った。夢の中のその“何か”はわからない。でも「誰かが生きていた」という確かさだけが胸に残っている。
僕はゆっくり起き上がり、ベッドの端に腰掛けた。深呼吸を一つ、また一つと。胸の中の糸がほどけるように、少しずつ静かになっていくのを感じた。今日は仕事を休むことにした。書店に電話を入れると、店長は驚くほど淡々と「いいよ」と言った。理由を細かく説明する気にもなれず、ただ休みを受け入れてもらったことに少し救われた。
ふらりと電車に揺られ、二駅先の図書館へ向かった。理由はとくになかった。ただ、静かな場所へ行って見たくなった気分だった。図書館の小さな展示コーナーには古い絵本が並んでいて、頁をめくると、紙の匂いがふっと脳裏に懐かしさを運んできた。名前も知らない作家の挿絵が、妙に胸に刺さる。
帰り道、公園のベンチに座って缶コーヒーを飲んだ。公園を横断する人たちはそれぞれの用事に忙しく、時々子どもの笑い声が風に混ざる。スーツ姿の男たち、ベビーカーを押す母親、ルーティーンの一部であろうランニングする人。みんなそれぞれの“今”を生きていて、僕の中で軋んでいた夢の断片がふとボヤけるのを感じた。
夢の中で誰かを生きること、そしてその記憶の“記録”を持ち帰ること─それはもう怖くなくなっていた。むしろ、ありがたい贈り物のようにも思えた。夢から持ち帰る記録を、現実の自分の生活に少しずつ歩いていけばいい。そうやって日々の灯りが増えていけばいいのだと、どこかで思った。
数日後、澄人がまたふらりとした足取りで僕の部屋にやってきた。コンビニの袋を片手にぶら下げて、机に袋を置くと糸が切れた様に、ソファに倒れ込む。あの変わらない無邪気さを見ると、妙に気持ちがほぐれた。
「あー。今日、昼ヒマ?」
と胡散臭い笑みを浮かべながら、澄人が聞いてきた。
「……珍しく誘いが直球だな」
「たまにはな」
行き先を決めずに電車に乗り、ふらふらと降りた町を歩いた。昔駄菓子屋があった場所は小さなカフェになっていて、古びた看板の隣に新しい店名がのっている。僕たちはそのカフェに入った。外から見えていた窓越しにあった木のテーブルに座った。僕らはアイスコーヒーを頼んだ。
「最近、夢どう?」
と澄人が何気なく尋ねてくる。
「……相変わらずだよ」
「また誰かになってる?」
「うん。でも──もう、嫌じゃない」
彼はストローをくるくると回しながら、ふっと笑った。僕の声の震えや、目の奥の光が少し落ち着いたことも、たぶんすぐに気付いてしまうのだろう。言葉にせずとも伝わっていたらいいな、と思った。
夢の中でどんな“僕”になっても、現実に戻ってきたとき──ここに残る記憶や誰かと過ごした時間が、僕を繋ぎ止めてくれる。灯りがともるような、虚無な日常が変わる…正気がある生活が、ちゃんとここにある。それが僕にとってどれほど救いになるかは、言葉にしなくても分かっている。
その夜、また眠りに落ちた。今回見た夢は、今までと違う。夢の風は、柔らかくどこか懐かしい匂いを帯びていた。暗闇の中で、夢の中の“僕”が小さなでも優しい声でつぶやく。
「今の自分で、生きていけますように」
その言葉は僕には深く、そして希望の願いだった。覚悟のようでもあり、祈りのようでもある。目覚めた瞬間、頬に温かいものが伝った。それは涙なのだと理解できた。けれどそれは、もはや悲しみから来るものとは違っていた。
夢の断片は重なり、僕の中に新しい輪郭を与えてくれた。昔の記憶でもなく、未来の確約されたものでもない。ただここにある“今、現在”を大事にするために、人間関係や何気ない小さな灯火を守ろう。僕はそれを胸に誓い、また大切な日々を歩いていく。




