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日々の隙間に咲くもの  作者: 穂乃歌
見えない扉の前で
6/10

2.残り香

 夢の中では、僕は誰かの人生を生きていた。

 今夜は、ひとりの父親だった。


 年老いた男の指先には、何度も折りたたまれた便箋が握られている。紙の角は擦り切れ、インクはところどころ薄くなっていた。指先が微かに震えて、名前を呼ぼうとして言葉がこぼれ落ちるように止まる。顔を思い出そうとするのに、輪郭はすぐに溶けてしまう。けれど、胸の奥に残る確かな“愛情”だけは持っている。


 目が覚めると、まだ夜明け前だった。窓の外は墨絵のように薄暗く、遠くで電車の音がひとつふたつ聞こえる。夢の余韻が抜けきれず、布団の重みが異様に心地よく感じられた。誰かを恋しく思う感情だけが、心の底に静かに残っている。


「……おまえさ、また変な夢。見てんだろ」


 翌日の夕方、僕はその日休日だった。部屋に突然ドアを開けられ、何もなかった様に平然と澄人が入ってきた。アポもなくやってくるのは相変わらずだ。確かこいつも休日だったか…。室内には俺が普段から読んでいる本の匂い、どこか疲れた空気が混ざっている。彼は窓際の椅子に半分崩れるように座っていて、疲れた目で俺を見た。


「おまえ、たぶん今週、三回目だぞ」

「うん、三回目だな」


 その後も澄人はいつもの様に、人の部屋を「落ち着かない」と言いながらもよく入り浸りしている。くだらない言葉のやり取りをしてから、僕らは丁度ストックしてあったカップラーメンを出来る時間が来たので開けてすすった。彼は麺をすすりながら、ふいに真面目な顔をした。


「で、さっきの話だけど」


 ラーメンのスープをすする音が一瞬だけ止まる。彼の口調には、いつもとは違う真剣さが混じっていた。冗談でも冷やかしでもなく、ただ純粋に“知りたい”という目だ。僕はその目を見て、本気で僕の中にある何かを覗きたい──そんな目をしていた。


「その夢って、どんな感じなんだ?」


 彼は訊いてきた。僕は少し迷って、言葉を選びながら話し始める。


「……夢の中で、僕は僕じゃないんだ。名前も、年齢も、家も違う。だけど“感情”だけは、どういうわけか僕のままなんだよ」


 僕は一瞬だけ黙り、箸を置く手元が止まった。返ってきたのは短い「ほう」だったが、そこに含まれる重みはいつものそれとは違っていた。


「ある日は子どもで、ある日は老人。毎回、まったく違う誰かの人生を、ほんの少しだけ生きる。で、起きると、その人の気持ちだけが、僕に残るんだ」


「それって……めちゃくちゃ疲れないか?」


 彼の声は、時折驚くほど控えめだ。理解の輪郭を探ろうとしているのが伝わってくる。僕は肩をすくめ、笑ってみせる。


「疲れるよ。正直。けど、起きた後に『ああ、今日も誰かの断片を生きたんだな』って思うと、不思議と安心することもあるんだ」


 僕は麺をすする手を止め、遠くを見つめた。彼はやがて、意を決したように、ぽつりと口を開く。


「中学校の頃、おまえが学校に来なくなったとき。俺、最初全然分かんなかったんだよ。おまえってさ、黙って我慢するタイプだから。で、気づいたら、教室におまえの分のプリントが山積みになってた」

「そんな事もあったな…」


 彼は少し照れたような笑いを混ぜて、でもはっきりと思い出を語った。


「ある日の学校帰りに、担任が俺に『プリント届けに行ってきて欲しい』って言われて、おまえの家の前まで行ったんだ。チャイム押す勇気はなくて、門のところで30分くらいうろうろしてた。そしたら窓が開いて、おまえが顔を出して『……来てたのか』って。覚えてるか?」

「うん、覚えてる」


 その時彼は急に照れたように笑った。だが、その笑顔の奥には確かな何かが込められていた。


「その時、おまえが急いで家から出てきて、急に笑って『プリント、持ってきてくれてありがとな』って言っただろ。多分俺、あれが初めておまえに『必要とされた』気がした瞬間だったんだ」


 僕の胸のどこかで、何かが静かに柔らかくなるのを感じた。彼の声に含まれていたのは、相談してくれという意思であり、過去の小さな誓いのようなものだった。


「だからさ、今度は俺が言う番かなって思って」


「……何を」

「おまえがどこの誰になっても、夢の中でどれだけ泣いてもさ。現実には、ちゃんと“広瀬燈”ってやつがいるって。それだけは忘れるなよ」


 その言葉は、真っ直ぐに胸に刺さった。彼の言葉は何の飾りもなく、素朴で、でも確かな重みを持っていた。僕は小さく頷いた。


「ん、分かった」


 夢の中で誰かを生きることは、現実の自分を削ってしまうこともある。だが、現実の自分が空っぽにもなければ、夢の断片たちはただの空虚な影に過ぎない。澄人の言葉は、僕の輪郭をゆっくりとなぞり、少しずつ輪郭を取り戻させてくれた。


 言葉が終わると、二人の間にいつもの雰囲気が戻った。ラーメンの器からすっかり冷めてしまったのか、立ちのぼる湯気がなくなっていた。窓の薄暗さが和らげる。外の世界は相変わらず雑踏で満ちているが、僕の内側には小さな灯がともったようだった。


 夢の断片を紡ぎながら、俺は自分という“輪郭”を少しずつ取り戻していく。澄人の言葉に支えられて、居場所を思い出す。次に眠るとき、どんな顔で目を覚ますのだろうと不安と期待が混じるけれど、今はただこの優しい温もりに身を任せていようと思った。

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