1.始まり
書店員として平凡な日々を送る青年・広瀬燈は、ある日から奇妙な夢に悩まされるようになる。
夢の中で彼は、見知らぬ町や葬式、結婚式、そして自分と一緒に写る少女の姿を目撃する。
誰なのかも、なぜ自分が泣いているのかも分からない。
けれど、その夢はあまりに鮮やかで、まるで本当にそこで生きてきた記憶のようだった──。
幼なじみ・日野澄人の支えを受けながら、燈は「夢」に隠された秘密に向き合っていく。
現実と夢が重なり、やがて失われた真実へとたどり着く物語。
今朝の夢は、誰かの葬式だった。黒いスーツの男たちが列をなし、冷たい石畳を歩いている。参列者の足音は重たく、空気に沈んでいた。
白布をかけられた祭壇にはユリの花。甘い香りと線香の煙が部屋に満ちて、窓もないのに空気はかすかに揺れていた。誰かが泣いていた。誰かは沈黙していた。
その「誰か」の顔は、どうしても思い出せない。けれど僕は確かに涙を流していた。まるで、心からその人を愛していたと…本当に失ったかのように。
驚いてばっと勢いよく目が覚めると、いつもの白い天井が目に映った。寝汗をかいたのか背中は湿っていて、夢の余韻が肌に残っている。
自室を見渡すと、時計の時刻が午前七時過ぎを示していた。カーテンの隙間から淡い光が差し込み、部屋は静かだった。
歯を磨き、パンをかじり、コーヒーを飲む。いつも通りの朝──のはずなのに、体の奥に夢の余韻が消えなかった。思考を放棄したいほどだ。
今の季節は、春。どうしてこうなったのか。二週間ほど前から、僕はこの夢に悩まされている。
見知らぬ町、見知らぬ式場、そして──自分の知らない他人の人生。
たとえば、夢の中の僕は結婚式に出席していた。祝福の声に包まれながら、緊張で震える手でマイクを握り、スピーチをしていた。
白いドレスの裾の刺繍、窓から差す光、人々の笑顔。その瞬間だけ胸が焼けるように熱くなった。目が覚めた後も、鼓動はしばらく収まらなかった。
いつも通りに仕事場に出勤し、しばらく経って昼休憩が交代で回ってきた。僕が働かせてもらっているところは書店で、店長や同僚とも仲良くやっている…と思う。
書店の休憩所は、決まってなくて……僕の場合は書店裏路地のファミレスに行って休憩している。
「お前、また寝不足か?最近クマ酷いぞ」
丁度昼過ぎに、自販機で買った缶コーヒーを飲んでいると声をかけられた。声の主は、同僚で幼なじみの日野澄人だった。丁度休憩に入ったようだ。
「……そうかもな」
「そうかもなって!…ったく、ここ最近夢見でも悪かったんだろ」
「……まあ」
澄人はしばし黙り、自販機で買ってあっただろう飲み物を持っている手に視線を落とした。
「その夢見が悪いっていうの、どんな内容なんだ?」
不意にそう訊かれて、僕は飲み終わった缶コーヒーを捨てようとしていた缶に変な力が入ってしまった。自分でもなんだか、どうゆう驚き方だよ。
「……なんで急に?」
「いや、なんで言うか。最近お前って、仕事しているようでどこか上の空っていうか…何かあったのか?」
「…どうだろうな」
僕は曖昧に答えて、その場を後にし仕事に戻った。澄人は、昔からこういうやつだ。言葉に詰まりがちな僕と違って、思ったことをすぐに質問する。
趣味の範囲でフリーの映像編集を副業にしていて、中々僕には真似できない。
その夜、僕はまた夢を見た。窓際に立つ僕の前には、古い写真立て。そこに写っていたのは──僕と見知らぬ女の子。
名前も、声も、何ひとつ思い出せない。けれど、彼女を好きだった気持ちだけは確かだった。
暗い部屋。窓の外は灰色の空。雨粒がガラスを叩く音が、胸の奥に響く。
写真の中の笑顔に手を伸ばそうとした瞬間、窓の外が白く閃いた。光と影が交錯し、世界が揺れる。
写真立ての中の少女が、まるで「ここにいるよ」と囁くように──。
「……っ」
目が覚めた時、頬は濡れていた。頭に残るのは、夢の余韻と、あの少女の意味深な微笑みだけ。
誰なのかも分からないのに、どうしようもなく懐かしい。
胸の奥に残る痛みと共に、僕は思った。
──きっとまた、会えないかも知れない。けど、いつか彼女に会える。夢の中で。
朝、頬を拭って目を覚ました。
枕の端に乾いた涙の跡がついている。いつの間に泣いたのか、自分でもわからない。感覚が麻痺してしまったのか、泣いていたことに驚かなくなった自分が、少し怖い。
夢の記憶は目覚めるとすぐに崩れる。
霧が指の間からすり抜けるように、細部は淡く消えていく。けれど、指先に残る感触のように、確かな「感情のかけら」はいつまでも手元に残る。寂しさ、胸の奥をそっと震わせる何か。
思い出せるのは、たしかに小さな部屋だった。
窓の桟が古く、雨音がやけに近く聞こえた。木製の机の上に埃をかぶった写真立てが一つ。写真を保護してあるガラス越しに見えるのは、僕と、僕ではない誰か──女の子の笑顔。輪郭はぼやけているのに、その笑顔だけは鮮やかに目に焼き付いている。名前は出てこない。呼びかける言葉もない。ただ、彼女を「好きだった」という事実だけが残っている。
通勤電車の窓に映る自分の顔が、どこか他人のように見えた。
自分を見つめる距離感がいつもと違う。窓に映る虚な目をした自分と、僕の内側で揺れている何者かがうまく重ならない。人混みの中、足取りはいつもより重く、心だけがどこか遠くへ置き去りにされたみたいだった。
昼休み。店の店員用休憩室に、澄人が顔を出した。彼はいつもどおりの調子でコンビニの袋を机に置く。
「なあ、燈。好きな人とか、いんの?」
突然の問いに僕は咄嗟に返せず、読んでいた本にしおりを挟んで読むのを中断した。彼は、缶コーヒーを机に出し、昼食を食べる準備をしている。
「……いきなりどうした?」
「なんとなく。今日のおまえ、『失恋した』雰囲気漂わせてるから」
澄人は笑いを含ませながら言ったが、その目は真剣だった。的確…と言っても良いのだろうか?彼は時々、驚くほど核心を突く事がある。
僕はどこまで話すべきか迷い、曖昧に笑って誤魔化した。
「夢のせいだ」とでも言えば、簡単だろうか。けれどその「夢での感情」は、もう僕だけのものではない気がしていた。まるで他人の人生の切れ端のように僕の内側に入り込み、不思議と居座っている。
昨夜は、違う夢を見た。
小さな部屋ではなく、草原だった。僕は子どもで、たぶん七歳くらい。広い空の下、知らない国の風が頬を撫でる。誰かと手を繋いで走った。言葉はわからない。だけど顔を見れば、向こうも笑っている。草の匂い、土の感触、遠くで羽音が揺れる音──その瞬間、胸がほどけるように軽くなった。
目覚めたとき、胸に残っていたのは悲しみではなく、懐かしさだった。
説明のつかない、古い記憶のような感触。僕は確かに、その夢の中で何かを生きていた。ひとつではない。何度も、別の時間や場所や立場で──別の“僕”として。
夢の断片が重なり合って、現実の僕にだけ感情を残す。本当に不思議な感覚だ。
泣き、笑い、走り、抱きしめられた感触は、すべて朝になっても鈍い痛みとして残った。澄人が以前言った言葉が、ふと蘇る。
「おまえってさ、なんでそんなに“人のこと”ばっか気にすんの?」
そのとき僕はうまく答えられなかった。今なら言えるかもしれない。僕は───誰かの人生に触れてみたかったのだと。自分の外側にある時間や景色を、肌で感じてみたかったのだと。
それは好奇心かもしれない。もしくは、何かが欠けているという無自覚な心の穴を埋める試みかもしれない。もしかしたら、僕の中に眠っていたもう一人の自分なのだろうか?
(?もう一人の自分…と言う考えを、人はペルソナと呼ぶのだろうか?)
どちらにせよ、夢は僕に何かを差し出している。手渡されたのは記憶そのものではなく、記憶の“断片”だった。
夜が近づくと、どこか期待と不安が入り混じった気持ちになる。
今夜もまた眠るだろう。きっとまた、知らない誰かとして目を覚ますために。
もう夜の寝る前の習慣と化している。眠りにつくとき、僕は窓の外の空を見上げる。灰色が薄れて、ほんの少しだけ星が見える。まるでささやかな約束の合図みたいに。
次に何を見せるのか。誰の人生を見せてくれるのか。僕はもう、ただ待つだけでなく、その断片を拾い集めてみたいという気持ちに駆られていた。




