番外編 後日談
庭で花見した後の別日、ある休日の午前。川沿いの遊歩道は、思ったよりも人が多かった。まだ桜は満開にはほど遠い。それでも、枝先にふくらんだつぼみを見つけるたび、歩く足取りが弾む。
「やっぱり、来てたんだね」
後ろから話しかけてきた彼が、そう言って私に近づいてきて笑う。空は青く、時折吹き抜ける風が少し冷たい。けれど、頬を撫でる空気には、どこかやわらかな匂いが混じっていた。
「ね、来てよかったかも。もうすぐ桜が咲きそうだしね」
私が指差した枝先を、隣に歩いていた彼も立ち止まって見上げる。小さな芽が陽を受けて透き通り、風に揺れている。
ほんのわずかな変化なのに、それだけで心がほどける気がした。
ベンチに腰かけると、子ども連れやジョギングの人たちが次々と通り過ぎていく。川面に光がきらめいて、まるで春を先取りしたようだった。
「最近、仕事始めたんだろ?忙しかった?」
彼が缶コーヒーを差し出してくる。それを受け取った時、彼と指が重なった気がして…ドキッとした。缶の温かさが、指先から胸の奥までしみ込むようだった。
「うん、ちょっとね。でもこうして気分転換で散歩に出ると、疲れが飛んでいくから」
「わかるなあ。俺も同じ」
そんなやりとりが、妙に心地よい。特別なことは何もないのに、並んでいるだけで満たされていく。
ふと彼が、川の向こうを見ながらぽつりと言った。
「なんか、君の家にいる時に思う時があって……昔から、こうしてここにいた気がする」
その声は不意打ちのように胸に響いた。
彼が続ける。
「きっと、信じられる場所だったんだな。別な意味で春が来そうな感じだ」
「お前にまだ脈があるか分からないが…」ボソッ
「…?」
最後…何か言っていた気がしたが、私は黙って頷いた。
その横顔が少し照れくさそうに笑うのを見て、言葉を探す必要はないと感じた。心の中で繰り返すだけで十分だった。──私も同じ気持ちだよ、と。
しばらく二人で黙って景色を眺める。川の流れも、木々の揺れも、すべてがゆるやかに未来へ続いていくように見えた。こうして隣にいられるだけで安心する。
缶を飲み干し、軽く伸びをした彼が立ち上がる。
「桜が咲いたら、また来よう」
その言葉に、胸の奥がふわりと温かくなる。
「うん、一緒にね」
私は立ち上がり、彼と並んで歩き出した。
つぼみの並木道を抜ける足取りは、これから訪れる季節を迎えに行くようで、胸が少し高鳴った。
──ちゃんと春は来る。
それを信じられる場所で、彼と共に歩けることが、今はただ嬉しい。




