結び編 下 Fin.
その夜、ポツポツと窓を叩く雨音に目を覚ました。
カーテンの隙間から街灯の明かりがにじんで、部屋の中はぼんやりと明るい。時計を見ると、まだ午前二時を少し回ったところだった。眠りは浅く、胸の奥に溜まった言葉が、どうしても外に出たがっている。
寝返りを打ってスマートフォンを手に取る。
私はメッセージアプリを開いた。画面には、寝る前に話していたやりとりが残っている。
「ねえ、祐。明日って、時間ある?」
そう聞いた私に、彼は「あるっちゃ、あるかな?午前なら空いてると思う」とだけ返してきた。そのありきたりな文が、胸を軽くした。
会う約束を取りつけたはずなのに、どこかから込み上げてくる不安は消えない。私の気持ちが、彼に伝わってしまったらどうしよう。と逆に、伝わらなければ、この宙ぶらりんな関係はどこへ行くのだろう。
スマホを置き、しばらく天井を見つめた。
彼と出会ってからのことを、自然と思い出す。最初はただ高校の同級生だった。昼休み時間に交わす小さな雑談、学校の帰り道での何気ない会話。けれどその積み重ねが、私にとってはかけがえのない日々だった。
「好き」という言葉を使わなくても、気持ちはきっと伝わる。そう信じて高校時代を過ごしてきた。けれど季節が巡るたび、心の奥で芽生えた感情はますます膨らんでいく。
学生時代でこの気持ちを終わらそうと、割り切っていたのに…。見ないふりをしても、もう隠しきれない。
枕元のカレンダーに視線を落とす。三月の終わり、もうすぐ春。桜のつぼみはふくらみ始めている。
彼と話す明日が、ほんの少しでも特別なものになればいい──そう願いながら、私はようやく重くなる目を閉じた。
夢を見た。祖母の隣には祐がおり、二人とも縁側微笑みあっていた。こちらに目線が注がれている事に気づき、祖母は私に視線を向けて言った。
「ようやく見つけたのね。よかった。
あなたの春…正確には音が、祐くんを連れてきたのよ」
私は発する言葉を失って、ただ頷くだけしか出来なかった。
翌朝。雲間からのぞく淡い光が、部屋をやさしく照らしていた。
眠気を引きずりながら身支度を整え、外に出ると、雨上がりの空気が思いのほか澄んでいる。街路樹の葉から滴る水が光を反射し、道のあちこちに小さな輝きを散らしていた。
待ち合わせのカフェへ向かう道すがら、心臓の鼓動が早まっていく。
「おはよう、よく眠れたか?」
先に着いていた彼が、注文を済ませていた模様だ。カップを片手に手を振っていた。その笑顔を見ただけで、胸の奥の痛さは少しやわらいだ。
テーブルにつくと、会話はいつもと変わらない。趣味のこと、互いの近況。どんな話題でも、彼と話していると時間がゆっくり流れる気がする。
窓際の席から差し込む光がふと、彼の横顔を照らした。その瞬間、胸が痛むほどに格好いいと思った。
この気持ちを、もし口にできたなら──。
けれど言葉は喉でつかえて、口元がキュッとなり、どうしても出てこない。代わりに私は、頼んだ飲み物カップを両手で包み込むように持ち上げ、深呼吸をした。
「ねえ」
私の声に、彼がカップを置いてこちらを見た。
その穏やかな眼差しに、胸の奥がじんわりと熱くなる。言葉にすれば、きっとこの空気は変わってしまう。けれど黙ったままでは、何も始まらない。
「どうしたんだ?」
彼が首をかしげる。その仕草すら、私の目には愛おしく映った。
けれど、口を開こうとするたびに心臓が跳ね、声が消えてしまう。
一瞬の沈黙を埋めるように、店内のBGMが流れる。カップを握る指先に力がこもる。
「あっ……ごめん、何でもない」
結局、私は視線を落として笑ってごまかした。
彼は少し不思議そうに笑い返す。それ以上追及しないところが、彼らしい。そんな優しさに救われると同時に、少し苦しくもあった。
会話は私の都会の話に戻り、時間は穏やかに流れていく。外の光はだんだんと強くなり、窓辺の街路樹の枝先には、小さな芽が陽を受けて輝いていた。
──その姿を見た瞬間、胸の中で何かがほどけた気がした。
「ねえ、来週の休み、桜見に行かない?うちの庭にある桜、で良ければだけど…」
気づけば、自然とその言葉が口をついていた。
彼は驚いたように目を丸くし、それからすぐに笑顔になった。
「いいね。いつかあそこで花見出来ないかなって思った事あったし、あそこ何かと落ち着くんだ。」
返事を聞いた途端、胸の奥に温かなものが広がった。たったそれだけの会話なのに、距離が一歩近づいたように思えた。
話し終えてカフェを出ると、雨上がりの町はすっかり明るくなっていた。アスファルトに映る青空が、まだ少し濡れた靴先を包み込む。
横を歩く彼の足音が、不思議と心地よいリズムに聞こえた。
「別れ際にごめんね?ちょっと家に寄って行かない?」
「え?う、うん…?」と困惑した様子で返事する彼に、絶対伝えたい事が一つあったからだ。
祖母の家…引っ越す時に家の名義を自分に変えたから、家だけど。彼に寄ってもらって部屋から玄関外にオルゴール持ってきた。
「このオルゴールを、覚えていてくれてありがとうね。……もし…もしだよ?この音が好きだったら、あなたにもらって欲しいな」
彼はほのかに頬を赤らめて、少し戸惑いながらそれを受け取った。微かにだが、木箱が震えたように感じた。
「んじゃ、また来週。楽しみにしてる」
そう言ってオルゴールの木箱を鞄にしまった後、彼が私を見る。その笑顔に頷きながら、私は心の中でそっと呟く。
──きっと、今日のことを忘れることはないだろう。
思い切って気持ちを告げることはできなかった。けれど、こうして約束を重ね、季節を一緒に迎えられることが、今はただ嬉しい。
春はもうすぐそこまで来ている。膨らんだつぼみが花開く日を待つように、私の想いもまた、静かに芽吹き続けている。
それが、私にとっての“春”なのかもしれない。




