3.雨上がり、好きのかたち Fin.
長く続いた梅雨がようやく明け、湿り気を帯びた空気が少しずつ薄れていく。
朝から容赦のない日差しが照りつけ、夜になっても蒸し暑さはそのままだった。
昔は「夏は夜が涼しい」なんて言われていたのに、今はもうそんな時代じゃないのかもしれない。
しかし幸いな事だった。昼間に降った通り雨のおかげで、濡れたアスファルトがほんの少しだけ夜風を冷やしてくれていた。
私はいつものように、残業を終えて駅の改札を抜ける。
疲れきった体を引きずりながらも、心のどこかで“誰か”を探している自分に気づく。
そう、最近──帰り道が少しだけ、楽しみになっていた。
ふと顔を上げると、出入り口のそばに浅倉先輩の姿が見えた。
白いシャツの袖を軽くまくり、ジャケットを腕にかけて、スマホを見ている。
駅の照明が反射して、その輪郭が少し金色に見えた。
「おっ、桐谷さん。また遅くまで残業、お疲れさま」
「浅倉先輩も退勤するの、遅かったんですね」
いつも通りの挨拶。だけど、その“いつも通り”が嬉しい。
他愛もない会話のまま、先輩に促されてベンチへ移動する。
ホームの上を通る夜風が、夕立の名残を連れて二人の間をすり抜けていく。
夜のホームは、思っていた以上に人が多かった。
仕事帰りの人、夜勤へ向かう人、そして残業から帰ろうとしている人。自動販売機に屯して缶コーヒーを飲みながら、雑談しているであろう人達。
ざわめきの中、私たちの声だけが不思議と自分の耳に残るように響いていた。
だけど話していた言葉は少しずつ途切れ、段々と沈黙が落ちる。だが、気まずく感じなかった。
ただ隣にいるだけで、今日一日の疲れが少しずつ溶けていく気がする。なんだろうか、心の奥のモヤモヤが浄化されていく感じだ。
──この時間が、もう少しだけ続けばいいな…なんて。
そんな想いが胸の奥に浮かんで、整理するように小さく息を吸い込んだ。
「あ、あの!この前みたいに……また、一緒に帰ってもいいですか?」
その後、一瞬の沈黙。
浅倉先輩は少し驚いたように目を見開き、そしてすぐに柔らかく笑った。
「もちろん、いいよ。……僕も、その方が嬉しいから」
その笑顔に、心臓がどくんと鳴った。
思わず視線を逸らしそうになるけど、次の言葉が彼から発せられた。
「桐谷さんと一緒に帰る日は、なんか特別に感じるんだ。
前々から……そのそういう意味でも好き、だったから」
息が詰まった。
耳に届くはずの駅アナウンスも、人の喧騒も、すべて遠くに霞んでいく。
胸の奥に熱がじわりと広がって、声が出なかった。
だが頬のあたりが熱い、頬に雫が伝っていた。
彼の方へ視線を上げると、浅倉先輩の表情は真剣。だけど表情はどこか優しかった。
「……ありがとうございます。
私も先輩のことが好きですよ」
ようやく絞り出した言葉は、少しかすれていた。
それでも気持ちを伝えるのは、十分だった。
──雨上がりの夜空の向こう、雲の隙間から淡い月が顔を出していた。
その光が、二人の影を重ねていた。
まだ胸の鼓動が速いまま。言葉を交わすたび、自身の世界が止まったように感じていた。
このまま時間が止まってくれたら──そんなことが頭をよぎった。
だが次の瞬間、浅倉先輩が何かを決意したように私の方へ一歩近づいた。驚いたが、平常心を保つことにした。
再びホームに雨上がりの匂いを運んで、夜風が吹き抜けてくる。
電車の到着を知らせるベルが遠くで鳴り、その音が夜気に溶けていった。
「……っと、そろそろ場所を変えようか」
「え?」
「このままだと、ちょっと目立っちゃうし。近くに公園があるから、少し歩こう」
移動した先は、駅から数分の小さな公園だった。
夜だから人の姿はほとんどなく、公園ベンチの上には雨の名残が少し残っている。
私たちはベンチに腰を下ろし、街灯の照明が照らしていた。
その横顔は、いつもより少しだけ真剣で──そして優しい。
「桐谷さんと一緒にいるとさ……不思議と、その日が楽しくなるんだ」
鼓動が一度、大きく跳ねた。
遠くで電車の走行音が遠ざかり、世界から音が消えたような気がした。
どう返せばいいか分からず、私は視線を落とす。
足元を見ると、タイルの上にまだ吸水しきれなかった小さな水たまり。
街灯を映した光がゆらゆらと揺れて、まるで自分の心情を写しているみたいだった。
少しの間があって、そっと顔を上げる。
浅倉先輩が一歩、こちらへ近づいていた。
夜風が頬を撫で、髪がふわりと揺れる。
ふと彼の方に視線を向けると、彼のまつ毛が動いた。
その瞬間、唇に暖かいものがそっと触れ合った気がした。
暖かいものと言っても、キスした長さはほんの短い触れるだけ。
それでも胸の中で、小さな花がひらくように世界が広がっていく。
驚きよりも先に、段々とだが幸福が心を満たしていった。
「…えっと…浅倉先輩」
自分から発せられた声が、名前を呼んだ声が、わずかに震えていた。
彼は少しだけ笑い、優しい声色で言う。
「突然キスして、その、ごめん。
……勢いで。なんて言い訳したくないけど、どうしても止められなかった」
その言葉で、胸がまた熱くなる。
どれほど短い瞬間でも、今後この夜をきっと忘れないと思った。
視線を逃すように見上げれば、夜空に淡い月が浮かんでいる。
綺麗な光が、私たちの影を包み込んでいた。
──随分前に傘の中に入れさせてもらったあの日よりも、
今のほうがずっと心理的・物理的に距離が近い。
そんなことを思いながら、私はそっと笑った。
雨上がりした後の独特な匂い。そしてまだ唇に残る彼の温もりが、胸の奥でやさしく混ざり合っていた。




