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日々の隙間に咲くもの  作者: 穂乃歌
記憶の扉がひらくとき
1/10

記憶編 上

都会に馴染めず亡き祖母の空き家に戻った「私」は、押し入れから埃をかぶった桜模様の古いオルゴールを見つける。


ネジを巻いた瞬間、懐かしい旋律に幼い日の記憶が揺り起こされる。ある日、夢で祖母の姿が現れる。


「春を忘れた子が、まだ起きていないの……」

謎めいた言葉と旋律が、失われた過去と新たな季節を呼び覚ましていく──。

 都会での暮らしに疲れてしまったのは、ほんの些細なきっかけだった。

 朝は、満員電車に押し込まれるときに感じる他人の体温。

 昼は、窓のないオフィスで人工の光に晒されながら、ひたすら無言でキーボードを叩く時間。

 夜は、コンビニの明かりや街頭しかない道を歩き、安い弁当を片手にマンション部屋に戻る。


 その繰り返しの中で、気づけば「()()()()はここにいるのか」と言う疑問を考えなくなっていた。仕事して寝るために、マンション部屋に寝るために帰る毎日。

 同僚との会話は表面的なものばかりで、机の上には処理しきれない仕事の山。

 体だけが動いて、心はどこか別の場所に取り残されているような日々だった。


 退職を決めた日のことは、今でも鮮明に覚えている。

「お疲れさまです」

 上司は目も合わせずにその一言を投げただけだった。

 解放感と同時に、どこにも行き場のない虚しさが胸に広がった。


 ──私は、どこへ帰ればいいのだろう。


 その問いに答えるように、ふと頭に浮かんだのは祖母の顔だった。

 三年前に亡くなった祖母。

 そして、誰も住まなくなったまま取り残された、あの古い家。




 退職したその日に引っ越しの申し込みと荷造りを開始した。引っ越し日は大きな荷物は持たず、リュックひとつでマンションを出た。

 バスに揺られていると、窓の外の景色が少しずつ変わっていく。都会の灰色の街並みから、やがて低い家並み、畑、川のきらめき。


 揺れる座席の向こうで、年配の女性が地元の方言で話している。標準語に直すとこうだ。

「今年の桜は遅いねえ」

 その言葉に耳を傾けたとき、心の奥に眠っていた懐かしさが、ふっと蘇った。


 途中の停留所から、通学帰りの学生が乗り込んでくる。

 制服の襟に花粉がついていて、春がもうすぐそこまで来ていることを感じさせた。

 彼らの笑い声が、妙に遠い世界だったかのように聞こえた。


 ──この道を通るのも、何年ぶりだろう。


 バスを降り、歩き慣れたの道を進む。舗装されきらない道に、細い水路が並走している。

 草の匂いが濃く、風が頬を撫でるたびに都会の埃が削ぎ落とされていくようだった。


 そして、木々の合間に赤茶けた瓦屋根が見えてきた。よく長期休みのたびに連れてこられたあの家だ。


「……ただいま」


 誰に聞かせるでもなく、声を出してみる。

 返事はないけれど、この言葉に答えるように今は亡き祖母の声で「おかえり」と返ってくるように思えた。




 玄関の戸を開けると、重たい空気が流れ出す。長く閉ざされていたせいか、木と畳の匂いが強く漂っている。


 ──確か、もう引っ越しの荷物が届いているはず。


 居間の柱時計は、祖母が亡くなったあの日のまま針を止めていた。机の上には、祖母がよく使っていた湯飲みが残されている。

 白地に青の模様が入った湯飲みは、もう誰の手にも触れられることはない。けれどそこには確かに「生活」が存在していた痕跡があった。


 窓を開けると、外の空気が一気に流れ込む。草の匂い、鳥の声、障子が揺れる音。

 都会にいた頃までは気づけなかった音や匂いが、ここでは生きている。


「おばあちゃん……」

 自然に言葉がこぼれた。返事はなくても、この家全体が祖母の気配を抱きしめているようだった。


 寝る予定の部屋を片付け始めると、しばらくして押し入れの奥に古びた木箱が見つかった。黒ずんだ木肌に、桜の模様が彫り込まれている。

 木箱に被っている埃を払い、蓋を開けると、そこには小さなオルゴールが収まっていた。


 そのオルゴールの錆びかけたネジを恐る恐る巻くと、ぎこちなくも澄んだ旋律が流れ始める。その瞬間、胸が強く締めつけられた。


 ──あれ?この曲、私知っている。


 それはある日、庭の縁側で祖母の膝に座り、髪を結ってもらった記憶が自然と思い出してきた。

「じっとしてなきゃ、三つ編みがぐちゃぐちゃになっちゃうよ」

 祖母の声が耳の奥に(よみがえ)り、温かい手の感触までもがある。


 庭に咲いている桜の花びらが舞い、私と祖母は陽だまりの中で笑っていた。オルゴールの音色は、忘れていたはずの記憶を呼び起こさせている。


「確か、()()()だったかな……」

 その時、目から頬を伝った涙をが流れた。その現象と共にボソッと呟いた。

 外を見ると窓の外で桜の枝が揺れ、まだ固い蕾が震えている。




 その夜、布団に横たわっても、オルゴールの旋律が耳から離れなかった。

 静かな闇の中、祖母の家の匂いに包まれながら、やっとの事で私は眠りに落ちていった。


 そして夢を見た。

 縁側に腰かける祖母が、暖かな光を背にしてこちらに微笑みかけている。

 幼い頃に見たあのままの姿。顔の皺も、手の温もりも、何ひとつ変わっていない。


 祖母は手のひらにひらひらと落ちてきた桜の花びらを載せ、静かに口を開いた。


「春を忘れた子が、まだ起きていないの……」


 柔らかな声だった。けれど、不思議に深い余韻を残し、胸に小さな棘のように刺さる。


 花びらは風に舞い、光とともに溶けていった。

 その光景にハッとなり、祖母に声を掛けようと思ったが、喉が震えるだけで言葉にはならなかった。




 ──目を覚ますと、さっきあった事に驚いたのか…胸の鼓動はまだ速いままだった。

 夢の事を覚えていた。やけにリアルであまりにも鮮明な……夢だとわかっている。でも祖母のあの言葉は何かに引っ掛かっており、確かに耳に残っている。


()()()()()()

 ──それは誰のことなのだったのだろうか。私自身なのか、あるいは……私の知っている別の誰かなのか。


 飛び起きた時刻がまだ深夜だった為か、深い夜の静けさがある。さっきっからあの妙な言葉が頭に残っていて、私の中で心が灯火のように揺れ続けていた。

 なんでこんな不思議な事が起こるのだろうか?と疑問に思う。

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