記憶編 上
都会に馴染めず亡き祖母の空き家に戻った「私」は、押し入れから埃をかぶった桜模様の古いオルゴールを見つける。
ネジを巻いた瞬間、懐かしい旋律に幼い日の記憶が揺り起こされる。ある日、夢で祖母の姿が現れる。
「春を忘れた子が、まだ起きていないの……」
謎めいた言葉と旋律が、失われた過去と新たな季節を呼び覚ましていく──。
都会での暮らしに疲れてしまったのは、ほんの些細なきっかけだった。
朝は、満員電車に押し込まれるときに感じる他人の体温。
昼は、窓のないオフィスで人工の光に晒されながら、ひたすら無言でキーボードを叩く時間。
夜は、コンビニの明かりや街頭しかない道を歩き、安い弁当を片手にマンション部屋に戻る。
その繰り返しの中で、気づけば「なぜ自分はここにいるのか」と言う疑問を考えなくなっていた。仕事して寝るために、マンション部屋に寝るために帰る毎日。
同僚との会話は表面的なものばかりで、机の上には処理しきれない仕事の山。
体だけが動いて、心はどこか別の場所に取り残されているような日々だった。
退職を決めた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
「お疲れさまです」
上司は目も合わせずにその一言を投げただけだった。
解放感と同時に、どこにも行き場のない虚しさが胸に広がった。
──私は、どこへ帰ればいいのだろう。
その問いに答えるように、ふと頭に浮かんだのは祖母の顔だった。
三年前に亡くなった祖母。
そして、誰も住まなくなったまま取り残された、あの古い家。
退職したその日に引っ越しの申し込みと荷造りを開始した。引っ越し日は大きな荷物は持たず、リュックひとつでマンションを出た。
バスに揺られていると、窓の外の景色が少しずつ変わっていく。都会の灰色の街並みから、やがて低い家並み、畑、川のきらめき。
揺れる座席の向こうで、年配の女性が地元の方言で話している。標準語に直すとこうだ。
「今年の桜は遅いねえ」
その言葉に耳を傾けたとき、心の奥に眠っていた懐かしさが、ふっと蘇った。
途中の停留所から、通学帰りの学生が乗り込んでくる。
制服の襟に花粉がついていて、春がもうすぐそこまで来ていることを感じさせた。
彼らの笑い声が、妙に遠い世界だったかのように聞こえた。
──この道を通るのも、何年ぶりだろう。
バスを降り、歩き慣れたの道を進む。舗装されきらない道に、細い水路が並走している。
草の匂いが濃く、風が頬を撫でるたびに都会の埃が削ぎ落とされていくようだった。
そして、木々の合間に赤茶けた瓦屋根が見えてきた。よく長期休みのたびに連れてこられたあの家だ。
「……ただいま」
誰に聞かせるでもなく、声を出してみる。
返事はないけれど、この言葉に答えるように今は亡き祖母の声で「おかえり」と返ってくるように思えた。
玄関の戸を開けると、重たい空気が流れ出す。長く閉ざされていたせいか、木と畳の匂いが強く漂っている。
──確か、もう引っ越しの荷物が届いているはず。
居間の柱時計は、祖母が亡くなったあの日のまま針を止めていた。机の上には、祖母がよく使っていた湯飲みが残されている。
白地に青の模様が入った湯飲みは、もう誰の手にも触れられることはない。けれどそこには確かに「生活」が存在していた痕跡があった。
窓を開けると、外の空気が一気に流れ込む。草の匂い、鳥の声、障子が揺れる音。
都会にいた頃までは気づけなかった音や匂いが、ここでは生きている。
「おばあちゃん……」
自然に言葉がこぼれた。返事はなくても、この家全体が祖母の気配を抱きしめているようだった。
寝る予定の部屋を片付け始めると、しばらくして押し入れの奥に古びた木箱が見つかった。黒ずんだ木肌に、桜の模様が彫り込まれている。
木箱に被っている埃を払い、蓋を開けると、そこには小さなオルゴールが収まっていた。
そのオルゴールの錆びかけたネジを恐る恐る巻くと、ぎこちなくも澄んだ旋律が流れ始める。その瞬間、胸が強く締めつけられた。
──あれ?この曲、私知っている。
それはある日、庭の縁側で祖母の膝に座り、髪を結ってもらった記憶が自然と思い出してきた。
「じっとしてなきゃ、三つ編みがぐちゃぐちゃになっちゃうよ」
祖母の声が耳の奥に甦り、温かい手の感触までもがある。
庭に咲いている桜の花びらが舞い、私と祖母は陽だまりの中で笑っていた。オルゴールの音色は、忘れていたはずの記憶を呼び起こさせている。
「確か、春の音だったかな……」
その時、目から頬を伝った涙をが流れた。その現象と共にボソッと呟いた。
外を見ると窓の外で桜の枝が揺れ、まだ固い蕾が震えている。
その夜、布団に横たわっても、オルゴールの旋律が耳から離れなかった。
静かな闇の中、祖母の家の匂いに包まれながら、やっとの事で私は眠りに落ちていった。
そして夢を見た。
縁側に腰かける祖母が、暖かな光を背にしてこちらに微笑みかけている。
幼い頃に見たあのままの姿。顔の皺も、手の温もりも、何ひとつ変わっていない。
祖母は手のひらにひらひらと落ちてきた桜の花びらを載せ、静かに口を開いた。
「春を忘れた子が、まだ起きていないの……」
柔らかな声だった。けれど、不思議に深い余韻を残し、胸に小さな棘のように刺さる。
花びらは風に舞い、光とともに溶けていった。
その光景にハッとなり、祖母に声を掛けようと思ったが、喉が震えるだけで言葉にはならなかった。
──目を覚ますと、さっきあった事に驚いたのか…胸の鼓動はまだ速いままだった。
夢の事を覚えていた。やけにリアルであまりにも鮮明な……夢だとわかっている。でも祖母のあの言葉は何かに引っ掛かっており、確かに耳に残っている。
「春を忘れた子」
──それは誰のことなのだったのだろうか。私自身なのか、あるいは……私の知っている別の誰かなのか。
飛び起きた時刻がまだ深夜だった為か、深い夜の静けさがある。さっきっからあの妙な言葉が頭に残っていて、私の中で心が灯火のように揺れ続けていた。
なんでこんな不思議な事が起こるのだろうか?と疑問に思う。




