第三話
リリシアの記憶を獲得し、どうやら処刑という結末を回避できることを知ったサチの体に再び血液が十分にめぐり、気持ちが高揚した。
っていうか、本当に綺麗な人だわ、リリシア様って。
安堵したサチは、鏡に映る姿をまじまじと見つめた。
リリシアの見た目は当然ながら前世で見た誰よりも美しく、その肌はまさに透き通るといった表現がぴったりだった。
や、やわらかい……。
白い頬に触れると、静かに指が軽く沈み、頬に触れる指の腹からすべすべな感触が伝わった。あまりの心地よい感触にムニムニと数回、揉んだ。
はぁ、本当にリリシア様に転生したんだ。
鏡には恍惚と笑みを浮かべるリリシアの顔が映った。
「どうされました、お嬢様!」
鏡台の前でニヤけていると、使用人らしきふくよかな年配の女性とリリシアと同年代か少し若い女性、そして長身の白髪の男性が慌てた様子で部屋に入ってきた。
「え……」
サチは驚いたように目を大きく開け三人の方を見つめた。
「先ほどお嬢様の部屋から叫び声が聞こえたので何事かと駆けつけました」
執事服をきた男性がそういうと、
「あ……ああ、何でもないわ」
まさか本当のことをいうわけにはいかないのでサチは、とぼけ顔でそう答えた。
「本当に何もありませんか」
今度は年配の女性が尋ねてきた。
「え、えぇ」
「しかし、お嬢様があんな大声を出すなんて……」
た、たしかに。リリシア様とあろう大令嬢が大声で叫ぶなんてないよね。リリシア様はいつも落ち着いている花のような方のはず。だってこんな美人さんだもん! もっと身を引き締めないと。
サチは女性の指摘にぎくりとし、もっと令嬢としてリリシア様としてふさわしい態度をとらなければと思った。
「ちょ、ちょっと、大きなクモが出て少し驚いただけだわ」
だからといってすぐにリリシアとして振舞えるわけはなく、動揺が隠せなかった。
「そ、そうですか……」
年配の女性の声から疑いと心配を感じた。
ややややばい、完全に疑われている。
サチの心臓は鼓動が聞こえるほどに速く動いた。
「まぁ、見る限りではお嬢様の身には何もないようですし。なにはともあれよかったです」
そんなサチに助け舟を出すように白髪の男性がそういった。男性もまだ完全に心配の色が消えているわけではないが、少なくとも部屋に入ってきた時と比べれば、表情が柔らかくなっている。
男性の言葉と表情にサチは心の中でそっと胸をなでおろした。
「そうですね。確かにお嬢様は元気そうですし」
年配の女性もどうやら納得したようで、
「では、もうお目覚めになられたようですし、朝食は召し上がりになりますか」
柔和な笑顔を見せ、そう聞いてきた。
朝食! そういわれればお腹ぺこぺこだわ!
さっきまでの動揺は何のその。三人も納得してくれたようだし、目覚めてからはそれどころではなかったため気づかなかったが、女性に朝食を食べるか聞かれ、自分がお腹がすいていることに気付いた。サチの心はパッと明るくなった。
「もちろん! 食べるわ!」
だから素で、はつらつと答えた。答えた後、多分違う、間違えたと一瞬で反省した。リリシア様がこんな風に答えるはずがないと。
そんなサチの心情もつゆ知らず、三人がふっと笑った。
「そんなにお腹が空いていたんですか。これは失礼しました。」
完全にサチの態度に女性から心配の色が消えたようだった。
「では、すぐに準備してお部屋までお持ちしますね。いきましょう」
「はい」
女性はそういうと隣の若い女性を連れて「それでは失礼しました」と頭を下げ、部屋から出て行った。
「お嬢様、そのほかご入用はないでしょうか」
「え、えぇそうね。今は特にないわ」
二人に続くように男性も、「では、またなにかご入用がありましたらなんなりとお申し付けください」と、先に出て行った二人と同じように一礼した後、部屋から出て行った。
三人が出て行ったあと、ドッと気が緩み、ベッドに座り込んだ。
ベッドに両手を後ろにつけ、体をその両手に預け、天井を見つめる。
白髪の男性がモンベルト、
年配の女性がビルマ、
若い女性がミッシェル。
うん、ちゃんとわかるわ。
サチは天井を仰ぎ、確認するように部屋に入ってきた三人の名前を反芻した。三人はリリシア専属の使用人。
リリシアの記憶のおかげで、ちゃんと三人の名前もわかるようだった。
部屋でボーっとしているとビルマとミッシェルによって朝食が部屋まで運ばれた。
サチ改めリリシアの前に卵料理、ベーコン、パン、サラダ、フルーツ、飲み物が並べられた。
はぁ、どれも美味しそう。まさか、こうやって朝食を食べられるなんてあの時、トラックに轢かれた時には思わなかったものね。
思わずよだれが垂れてしまうのを抑えつつも、今にでも食べてしまおうとナイフとフォークを持ってウキウキしていると、準備を済ませたビルマが、
「お嬢様、今晩は夜会がありますからまた後でミッシェルとこちらに伺いますね。旦那様が今夜のためにお嬢様に新しいドレスを買ってらっしゃるのでそちらもおもちしますね」
柔和な口調でそう言った。
「わかったわ」
「では、ごゆっくりどうぞ」
ビルマとミッシェルに二人は部屋から出て行った。
「夜会……」
二人が出て行ったのを確認すると、リリシアはそうつぶやいた。
確かにリリシアの記憶が流れ込んだ時に夜会のことも流れ込んできていたが、一連のことで完全に忘れていた。
そんなリリシアにとって前世の日常では聞き馴染みのない言葉で、また突然の発言だったのでそれが功を奏したのか、落ち着いて反応できた。
しかし内心はそうではなく、
夜会、夜会って、貴族が集まるあのキラキラしたパーティーのことよね。豪華な食事が並べたり、ゆったりと踊ったり……。まじかまじか、まじかあぁぁぁぁー。めちゃくちゃ楽しみだわ。うんうんうん、どうせ殺されないんだしせっかくの貴族生活なんだから楽しまなきゃもったいないよね。正直、私は第一王子に恋しているわけじゃないし。どうだっていいわ。私は私で楽しんじゃお。
期待が止まらなかった。
今のリリシアはリリシアであってリリシアではない。だから王子に恋しているわけでもないし、ヒロインに嫉妬しているわけでもない。王子との恋路なんてどうだってよかった。そんなことよりも存分にこの世界を楽しもうと思った。
今夜の夜会、そしてこれからの貴族生活に思いを膨らませながら、リリシアは朝食に手を付けた。
「ていうか、このベーコンおいしいな!」