第二話
目を覚ますと、アスファルトの地面とは似ても似つかぬ柔らかな心地が背中にあった。
頭も冴え、体に痛みもない。ためしに掌を握ったり開いたりするが何の違和感もなかった。
えっ……生きてる。
驚きのあまり、慌てて体を起こすと、ここが病院ですらないことがわかった。
ベッドの四隅には装飾されたカーテンがかけられており、その先からは、これまた豪華な装飾が施された照明や家具が見えた。
その部屋模様はいってしまえば西洋風で、とくに乙女ゲームが好きなサチは、西洋ファンタジー物のそれを思い描いた。
「こっ、ここは……?」
サチがベッドからおり、あたりを見渡すと大きな鏡台が目に入った。
そこに映る自分の姿に一瞬、言葉を失った。
鏡には、長いブロンズヘアーで青色の目をしたお人形のような女性が映っていた。
わわわわ私じゃない。
その姿が信じられないサチは、自分の手を頬にあてる。
すると当然、合わせて鏡の中の人物も動き、手を頬にあてた。
鏡は事実を映し出し、映し出されたものを見て、サチは鏡に映っている人物が自分であると、どうにか納得した。
なになに、どうなってるの。夢……じゃないよね。まさかあの世ってわけでもないだろうし……。
事故に遭い、死んだかと思ったらどうやら生きているようで、かといえ多分今の自分は自分ではない。
この状況に夢やあの世を疑ったがそれにしては確かな実感がある。もちろんあの世に行ったことはないから断言はできないが、ただやっぱり絶対あの世でもない。
であれば、ここはどこか、自分は誰か、ますますわからなくなった。
なにも思考が追い付かないが、サチはおもむろにゆらゆらと鏡台に向かって歩き出した。
鏡に近づくと、今の自分の顔立ちがよくわかった。ただそれはサチをより困惑させた。
鏡に映るなんとも浮世離れした美しい顔にサチは確かに見覚えがあった。
「……リリシア様?」
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西洋貴族乙女ゲーム『マーガッレト』————
ヴァインシュノワール王国という架空の国が舞台の乙女ゲームで弱小貴族の令嬢であるヒロインがあらゆる困難を乗り越え、恋に奮闘するといういたってシンプルな乙女ゲームである。
しかしこのゲームは、サチにとって原点的な作品で乙女ゲームにはまるきっかけとなった作品だった。『マーガッレト』の世界観に虜になり、何度も繰り返しプレイした。
サチの目の前に映っている女性は間違いなく『マーガッレト』のキャラであるリリシア・ミッシュバルクその人だった。
リリシア・ミッシュバルクは、『マーガッレト』のなかでいわゆる悪役令嬢という立場にあるヒロインのライバル的存在である。
大貴族の家に生まれ、宰相の父を持つ。
元々、ヴァインシュノワール王国第一王子の婚約者であったが、王子がヒロインに惹かれていることに気づいたリリシアは、婚約者という立場を守るため日常的にヒロインに嫌がらせをするようになる。
最終的に、ヒロインに対する嫌がらせは王子に知られることになり、また、リリシア・ミッシュバルクは重大な罪を犯しており、それをヒロインと王子に暴かれ処刑されることになる。
その後、王子とヒロインは無事に結ばれることとなり、物語を終えるというのが『マーガレット』のおおまかなあらすじとなっている。
◆◇◆◇◆◇◆◇
なにが起こっているの? これは転生ってやつ? 私がリリシア様ってわけ? そんなわけ……。
ゲーム好きのサチは今この状況から転生という言葉をすぐに浮かべたが転生なんてあの世よりも信じられない、しかも転生先がゲームの世界だなんてと思った。
にわかには信じられないサチの頭の中は考えが行ったり来たりとせわしないが、それも時間がたてば落ち着きを取り戻し、とりあえず今の状況を理解、というよりも自分の中で納得させた。
しかし、冷静になったサチに、一つ嫌な考えがよぎった。
「……って、それじゃ殺されるじゃない!」
そうだ、サチがいる世界が『マーガッレト』の世界だとして、リリシア・ミッシュバルクに転生したとして、ゲームの世界であれば最終的に処刑という未来が待っている。
リリシア・ミッシュバルクの最後を思い出したサチは鏡台に強く手を叩きつけるようにして叫んだ。
そうだそうだ、やばい。このままじゃ死ぬじゃん。せっかく転生したのに? それは神さま、ちょっとひどすぎませんか。
車に轢かれて多分、すでに一回死んでいる。それなのにまた死ななきゃいけないなんて。しかも、リリシア・ミッシュバルクは処刑によって死ぬ。
事故に遭った時の恐怖や全身の痛みを思い出し、サチは体温が急激に下がるのがわかった。もう一回、あれを味わなきゃいけないなら転生なんかさせないであのままあの世に連れていてほしかったと思った。
ただそんなサチの頭の中に、今の状況を理解したからだろうか、リリシアのこれまでの記憶が一気に流れ込んできた。
記憶が流れ込んできた後、少しばかり目眩がしたがそれどころではなかった。
なぜならサチの知っている『マーガッレト』とは少々相違する部分があったからだ。
リリシアが王子の婚約者であること、王子がヒロインに惹かれていること、またリリシアがそれがそれに気づいていることはサチの知っている『マーガッレト』の通りだった。
ただ違うのはリリシアがヒロインに対して嫌がらせをしていないことだった。
えっ……どういうこと?
確かにリリシアは王子のことを慕っているようだったし、王子の意識がヒロインに移っていることに対しても心を痛めているようだった。ただそれだけだった。
嫌がらせなんかしていない。どうにか王子のことを諦めようと、自分の心を押し殺す、ただそれだけだった。
これは、『マーガッレト』じゃないの? いやでもどう見ても今の私はリリシア様だよね。ていうことは別の世界線? パラレルワールドってやつ?
サチの頭はまた混乱していたが、そんなサチに一つの希望が見えた。
もしかして私、処刑されないんじゃない。いやもちろん処刑される直接的な理由は罪を犯したことだけど……だってこれたぶん世界線が違うわ。それにリリシア様の記憶によると犯罪だって行ってないようだし……。
ヒロインに対する嫌がらせがないという相違点と、もう一つゲームとの違いがあった。それは多分、リリシアは処刑されるような犯罪を行っていないということだった。少なくともサチが転生する前までは。もしかしたらこれから罪を犯すというシナリオだったのかもしれないが、であれば問題ない。
なぜなら今のリリシアはサチだから。処刑されるとわかっていてこれから罪を犯すはずもない。ならば処刑も回避できるはず。
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「やっっっっったあああああああああ」
鏡台についた手を今度は思いっきり挙げ、サチは先ほどよりも大きな声で叫んだ。
そうだよね、そうだよね、そうだよね。だってせっかく転生して処刑だなんて意味わかんないもん。びっくりしたー。ありがとぉぉぉぉぉぉ神さまぁぁぁぁぁぁ。
サチは今すぐここで踊ってしまいたい気分だった。