(5)
悶々としたまま1週間が過ぎた。その間、『万事休す』という言葉が幾度も頭に浮かんできた。その度に振り払ったが、消え去ることはなかった。わたしは追い詰められていた。
そんな時、鹿久田から呼び出しがあった。丸岡にも声をかけているという。「用件はその時に話すよ」と言うので聞かなかったが、候補者に関することではないような感じがした。
*
あの喫茶店が待ち合わせ場所だった。
ドアを開けて中に入ると、丸岡が席についていた。彼も用件は知らないようだった。「なんだろうね」と言いながらコーヒーを飲んでいると、鹿久田が右目を瞑って左手を顔の前に立てながら店に入ってきた。約束の時間を20分過ぎていた。
「遅くなって悪い」
痛めている靭帯の治療に時間がかかったと言い訳したが、神妙な表情はすぐに普通に戻って、上着のポケットから封筒を取り出した。
「クラシックって興味ある?」
「えっ、クラシック?」
「うん。妹がバイオリンやっててさ、大学の演奏会のチケット買わされちゃったんだよ」
封筒から取り出したチケットには『都立音楽大学の定期演奏会』と書いてあった。日時は7月7日の夜7時。
「結構レベル高いらしいよ。去年、全国大学音楽祭でグランプリをとっているから」
でも、その演奏はまだ一度も聴いたことがないと、鹿久田は頭を掻いた。J・POP以外の音楽には興味がないのだという。
「でも、捨てるわけにもいかないし、お前らが嫌じゃなかったら気分転換にどうかなって思って」
無理にとは言わないけど、というような目でわたしたちを見た。
「どんな曲を演奏するの?」
しかし、これは愚問だったとすぐに反省した。クラシックに興味のない人が曲名など知っているはずはないのだ。
それでも彼は記憶を探るように目を細めて首を傾げて、「妹が言うには、みんなが知っている曲が多いらしいよ。なんて言ってたっけ……、え~っと、え~っと、そうだ、アイネなんとかって言ってたかな」とヒントをくれた。
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク?」
「そう、それ。その曲」
わたしの大好きな曲だったので、モーツァルトが作曲した中でも特に人気のある曲だと教えてあげた。
すると、へ~、よく知っているんだな、というような顔でしげしげと見つめられた。
それで照れ臭くなったわたしは視線を外して、「わたしは聴きたい。丸岡君はどう?」と彼に振った。丸岡がクラシックに興味があるかどうかはわからなかったが、候補者選びの袋小路から脱出するためのきっかけになりそうな気がしたので、頷いてくれることを期待したのだ。
するとその意図を察してくれたのか、肩をちょっと上げて、断る理由はないというような表情を浮かべてくれた。
「決まりね」
話を収めた。
*
「秋村色葉先生です」
演奏会終了後、花束を持って楽屋を訪問すると、その場で鹿久田の妹から紹介された。指揮を執っていた女性で、都立音楽大学の教授だった。
「素晴らしい演奏で感激しました。アンサンブルの素晴らしさに驚きました。でも、ただ調和しているだけでなく、リード楽器はより際立って、本当にメリハリの効いた素晴らしい合奏だなって、聴き惚れてしまいました」
わたしは自分の感じたままを彼女に伝えたが、彼女はそれを軽く受け流し、いきなり持論のようなものを展開し始めた。
「指揮者の仕事はチームマネジメントなんですよ。チームとして最大の効果を発揮するためにメンバーそれぞれの役割を理解させることが重要なんです。その上で、各自の技術向上を促し、更なる相乗効果に繋げていきます。役割を理解し、技術が向上し、相乗効果が高まると、次は主張です。ソリストとしての表現力を磨くのです」
急に講義のような話をされたので呆気に取られていると、「先生!」と鹿久田の妹が苦笑いしながら間に入った。
「音楽の話になるといつもこうなんですよ。せっかく演奏を褒めていただいたのに、お礼も言わないで説教するみたいに話すんだから」
ダメでしょう、というような顔で教授を諭した。すると教授は舌をチラッと出して、ごめんなさいというように顎を引いた。
その仕草が可愛かった。可愛くて純粋な女性だなと思った。
会場を出て3人で駅に向かっている時、演奏も指揮も妹さんのソロも良かったと鹿久田に賛辞を送っていると、「秋村さんって、いいね」と丸岡が口を挟んできた。すると、「うん。チームマネジメントのこと、わかっているよね」と鹿久田が頷いた。
「校長、頼もうか?」
丸岡がわたしの顔を覗き込んだ。そんなふうな目で彼女を見ていなかったので一瞬声が出なかったが、言われてみればその通りだった。彼女が校長になってくれたら日本一素敵な学校が作れるかもしれなかった。
「うん、いいと思う」
自分に言い聞かせるように頷くと、一気に光が差し込んできたような気がして足取りが軽くなった。




