(7)
その週末、選対本部長は弟に打診した。いや、強制した。
しかし、即座に断られた。政治にも選挙にも関心がないというのが理由だった。夢開市がどうなろうと、そんなことどうでもいいと投げやりに言った。
それを聞いてムカッとしたが、怒りをぶつけて喧嘩別れしたら元も子もないので、ぐっと飲み込んだ。
「確かにおまえにとってはどうでもいいことかもしれない。市長が誰になろうと関係ないかもしれない。だが、枯田が市長を続ければ夢開市は存亡の危機に晒される。例え市として存続できたとしても、これ以上、人口が減れば、税収が減って予算は大きく削減される。そうなると公共サービスが立ちいかなくなる。老朽化したインフラの補修は後回しになり、水道や下水のトラブルが頻発するようになる。それだけでなく、その料金は値上げされる。更に、市内唯一の公共交通機関である市営バスは廃止になり、市民の足が奪われることになる。当然のことながら市外流出が加速する。その結果、地価は下落し、マイホームの資産価値も下がっていく。多額のローンを組んで建てたお前の家の価値も下がっていく。そうなってもいいのか?」
「別にどうだっていいよ、ローンが増えるわけではないし。それに死ぬまで住むつもりだから家の価値がどうなろうと関係ない」
子供もいないから遺産のことを考える必要もないと、にべもなかった。
本部長は呆れたが、それでもなんとかこちらのペースに引き込もうと話の視点を変えた。
「お前は小さな頃から正義感の強い人間だった。そして、優しい心を持った人間だった。虐められている友達がいたら放っておけなかった。虐めている相手が上級生であっても立ち向かっていった」
幼い頃のことを思い出させようとしたが、話を遮られた。
「そんな昔の話を今更されても」
冷ややかな声が返ってきただけだった。
それでも本部長は諦めなかった。
「夢開市にとってこの選挙は最後のチャンスだった。しかし、枯田陣営の陰謀によって望みは断たれ、良心そのものが破壊された。それに対して私は精一杯戦った。必死になって戦った。だが、力及ばず負けてしまった。もう私には打つ手が残っていない。それに、今となっては誰も助けてはくれない。このままでは終わりだ。夢開市の将来は消えてしまう」
そして、哀願の目を弟に向けた。
「この窮地を救えるのはお前だけだ。お前以外誰もいない。私の仇を討ってくれないか。頼むから夢開市の救世主になってくれ。この通りだ」
深く頭を下げたが、これだけ頼んでも弟の表情は変わらなかった。まったくその気はないという意思を表しているように見えた。万策尽きた本部長はこれ以上言っても無駄だと悟り、仕方なく弟の家をあとにした。
*
冷ややかに兄の後姿を見送った弟だったが、ベッドに入って目を瞑った時、不意に兄の顔が浮かんできた。それは、「仇を討ってくれ」と懇願している顔だった。
「あの兄が……」
信じられなかった。あらゆる面で勝っている兄が自分に懇願していることが信じられなかった。それだけでなく、『お前以外誰もいない』という言葉に対して甘美な思いまで起きた。
今までは兄に対して劣等感しかなかった。勉強もスポーツも付き合った女性のレベルもすべて完全に負けていた。そのため親から期待をかけられたことはなく、家の中ではどうでもいい存在だった。
それに耐えられず、逃げるように大阪の大学に行った。そして4年間一度も帰らなかった。
就職した会社は京都に本社のある電子部品メーカーだった。親と兄に顔を合わせたくなかったから当然の選択だった。
しかし2年前、突然、東京支社への転勤を命じられた。断ることはできなかった。それでも定年になったら京都に戻るつもりだったので、家は賃貸マンションと決めて探した。
ところが、信じられないような安い建売物件に巡り合い、心を動かされた。それが今の家だった。都心に比べて4割以上安かったのだ。
ただ夢開市というのが引っかかったが、既に両親は亡くなっていたし、兄とも年に1、2度電話がある程度だったので、気にする必要はなかった。そして、昨日まで何事もなく過ぎていった。
ところが、突然、兄が訪ねてきた。
なんだろうと思って身構えたが、自分を頼ってきたことを知って、驚いた。その上、頭を下げられた。それはあり得ないことだったし、信じられなかった。現実のものだとは思えなかった。
でも、頼まれたことに対してはまったく関心がなかった。
だから、首を縦には振らなかった。
それでも嬉しくないわけはなかった。あの兄から「頼む」と言われたのだ。心が動かないはずはなかった。
それに、千載一遇のチャンスがやってきたのかもしれなかった。幼い頃から待ち望んでいたことが訪れた可能性を否定できなかった。
更に、『救世主』という言葉が心に突き刺さっていた。今まで目立った活躍や功績を残してこられなかった自分にとってこれほど晴れやかな言葉はなかった。
中間管理職として上からも下からも責任をなすりつけられて徒労感を覚えている現状を吹き飛ばしてくれる魔法の言葉のように思えた。
遂に表舞台に躍り出るチャンスに巡り合えたのだ。もし、これを断ったら、二度とこんなチャンスは訪れないだろう。兄に対する引け目を解消するまたとない機会なのだ。うだつの上がらない毎日から脱却する好機なのだ。幸運の女神がいるのかどうか知らないが、もしいたとしたら、目の前を通り過ぎようとしているのだ。前髪を掴めと言っているのだ。
もちろん、気は進まない。面倒くさいし、やりたいとも思わない。
でも、断った瞬間、すべてが終わってしまう。それは、余りにももったいない。
ぐるぐるぐるぐる考えても答えは出なかったが、どんなに考えてもNOという選択肢を選ぶ気にはならなかった。
「やるしかないか……」
呟くと、兄だけでなく、今は亡き両親が、妻が、会社の人が、夢開市の住民が、自分に頭を下げている姿が見えたような気がした。それは、誰からも評価されなかった過去と決別した新たな自分が誕生する瞬間でもあった。
「やるしかない!」
声に出すと、腹の底から何かが湧き出してくるのを感じた。今夜は眠れそうになかった。
*
翌日の夜遅く、兄の家を訪ねた。
連絡をせずに行ったせいか、驚きの表情で迎えられたが、「やることにした」と告げると、兄は絶句し、目から涙を零した。
それは衝撃的な光景だった。こんな瞬間が来るとは思ってもいなかった。しかし、どういう態度を取っていいかわからなくなり、それに、これ以上伝えることもないので帰ろうとすると、「ありがとう。恩に着る」と両手を強く握られた。その上、抱きしめられそうになった。慌てて身をかわしたが、心は喜びで震えていた。これ以上嬉しいことはなかった。人生最良の日、という言葉が頭に浮かんだ。




