『目覚めた人形と否な朝』後編
沙羅が、家事を覚え始めた。
最初は拙く、洗った皿を滑らせて割ってしまったり、米と水の分量を間違えたりもした。それでも、指導を重ねるたび、彼女は着実に上達していった。無表情の中にも、どこか“得意げ”な気配が見える瞬間がある。尾宅夫はそれを見逃さなかった。
「……ありがとう、助かるよ」
夕食後、ちゃぶ台に並べられた品々を見て、思わず呟く。味噌汁の味は少し濃いが、それでも十分に“手作り”の温もりが感じられるものだった。
沙羅は目を瞬かせ、ほんのわずかに口元を緩めた。感情を模したプログラムなのか、あるいは、もっと別の“何か”が彼女の内に芽生えているのか……その境界線は、まだ分からなかった。
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彼女と過ごす日々は、静かに、だが確かに、宅夫の心を変えていった。
誰かがそこにいて、言葉を交わせること。
自分のために食事を用意してくれる存在がいること。
それだけで、部屋の空気が少しだけ温かく感じられる。
「まるで……彼女ができたみたいだな」
ある夜、ふと零した言葉に、沙羅のアンテナがぴくりと反応した。照明の下、長いまつ毛がゆらりと揺れる。やはり彼女には、感情に近い“何か”が宿っているように思えた。
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休日、二人でコンビニに出かけた。
沙羅は角のある動きで品物を見つめ、陳列棚の前でじっと立ち尽くしていた。アイスクリームのパッケージに指を伸ばし、じっと眺める様子がどこか微笑ましい。
「食べてみたいのか?」
そう聞くと、沙羅は小さくうなずいた。口に入れた瞬間、目を見開いた彼女の顔に、ほんのりと“驚き”らしき表情が浮かぶ。
それを見て、宅夫は思わず笑ってしまった。
「……うまいだろ?」
沙羅は小さく頷く。機械らしさの奥に、確かに人間味のようなものが感じられる。その姿に、心の奥がじんわりと熱くなった。
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日常が、少しずつ愛おしいものへと変わっていく。
ある夜、一緒に入浴することになった。
壊れた部分を清潔に保つため――そう沙羅が自ら提案したのだが、宅夫は戸惑った。
「お、おまえ……はずかしくないのか?」
バスタブの向こう側、湯気の中で沙羅は無表情のままこちらを見つめていた。だが、頬のあたりにかすかな色が差しているようにも見えた。
アンテナがかすかに揺れ、湯面に浮かぶ小波が、それをやさしく包み込んでいく。
「羞恥、という感情は……定義が困難です。ただ……尾宅夫様が、困っているのは……わかります」
それを聞いて、彼は湯船の中でひとつ、深くため息をついた。
「……もう、おまえが何考えてんのか、ほんとにわかんねぇな」
けれどその声には、どこか安らぎのようなものが滲んでいた。