#1
日曜日の午後2時。雨。
薄暗いアパートの一室に、ベッドを沈ませる出次健太の姿があった。一人で暮らすには十分な広さに、まだ目新しさが残る家具や家電が部屋の空間を埋めている。きれいな内装ではあるが、物が多くお世辞にも整った部屋とは言えない。
ここ金沢は雨や雪で、しばしば太陽が顔を潜めている。健太が金沢で過ごす最初の冬本番が目前に迫った十一月も、相変わらずの空模様だった。この曇天の灰色と健太の身体中から滲み出る倦怠感が同調していた。
横たわる健太の手には当たり前のようにスマホがあり、またネットの海を漂流することに勤しんでいる。彼は自身を依存症だ、と確信しているほど少しの時間があればスマホを握る。手元の数センチの厚の鉄板から得られる情報が、彼の知る外の世界の全てであった
健太はただ流れる言葉をほとんど咀嚼せずに飲み込んでいる。明日になれば、きっとそのほとんどを忘れてしまうが、中には胸に粘っこくとどまる記事がある。『人気動画配信者 4億円の住居を購入する。』、『現役大学生実業家 年商10億円』SNSが発達した今日、インフルエンサーと呼称される人たちはとても身近な存在のように感じる。
健太の知る世界は、知人のインスタグラムを見るような身近な日常と、著名人が発信する庶民とはかけ離れた華美な日常とで成り立っている。両者は互いに距離を持って存在しているはずであるが、スマホの小さな画面に共存しているせいで、隣り合わせのものに感じてしまう。そして、自身の価値を測る、物差しになっている。もちろんそれは、華美な日常を世界に発信できるものが強者で、それ以外は弱者だ。傲慢な王が庶民に向けて、自身の贅の限りを誇示しているみたいに、現代ではSNSがその舞台になっている。
特に健太と同じような年齢の若者が、世間の注目を引く活躍をすると直視することができなかった。ネットの広大な世界でも、世間の注目を引くほどの輝きを放つ人がいる中で、薄暗いこの部屋でその光を浴びるだけの自分が、いかに脆弱な存在なのかを痛感する。ネットを通じて誰の日常も簡単に覗き見できるこのシステムが、副産物として健太の心に劣等感を生み出していた。
健太は厳密に何を持って成功者と呼ぶべきかを知らないが、華美な日常を見境もなく世間に発信できる人たちのことを指すのだろうと安易な考察をしてみた。凡人の日常と成功者の日常が密接に隣り合ってしまったがために、自分は他の人とは違う、世間の注目を浴びる側に行けるのだ、と今でも思っている。ずっと心地の良い夢ばかり見ていてもいいと思っている。
情報を一気飲みした疲労感に気づきスマホの電源を落とすと、ディスプレイに反射する自分と目が合った。その目に宿る光量は少ない。ばつが悪そうに慌てて逸らした目線に広がる部屋には、雑多に物が散乱して、決して狭くはないこのスペースに、より一層の圧迫感を与えていた。この部屋にある多くが、健太が一度は挑戦したものの、身の丈に合わず諦めてしまったものたちだ。
前半のページだけ付箋が貼られており、ほんの少しだけ勉強した形跡がある、高難易度の資格試験の参考書。息巻いて勉強に励もうとしたものの、あまりにも合格の見込みがなくやめてしまった。
また、収益化を目指し、動画投稿するために用意したスマホスタンド、その動画のネタになればと考えた料理本もほとんど手付かずで新品同様の紙質を保っていた。特に料理動画は材料の準備から撮影、編集まで手順が多く、今まで一度もやる気が起きていない。
健太のYouTubeチャンネルには3本の動画が投稿されているが、更新が3ヶ月前で止まっている。最後にアップロードしたのは『鳥のフンを食らった後なら、余裕で宝くじ1等当たるんじゃね?』とタイトルがついた動画だ。天気の良い休日に起きた不幸な出来ごことであった。珍しく晴空で気持ちのいい休日で、オシャレに疎い健太が気に入っていたカーディガンを着ていたが、不幸が直撃した。処分せざるを得ないほどに、鳥のフンで汚れてしまったカーディガンを見て、むしろ動画のネタにでもしないとやるせ無いくらいの気持ちで動画投稿者に成り切った。自分なりに動画のオチもついて、良い動画に仕上がったと淡い期待を持って投稿したが、誰にも認識されずにネットの海の底の沈殿物になっている。それ以降、動画投稿に期待をすることはしなかった。
どれもこれも、中途半端に終わっている。淡い希望を抱いて中途半端に始めてしまったものがほとんどだ。始めた頃は無知由来の自信から簡単に結果を出すことができると思い込んでしまっているが、現実はどれも甘くない。少し壁にぶつかり、多少の努力が必要になるとわかると簡単に諦めてしまう。勘違い者が勘違いに気づくのだ。夢を見ているのは目の前のやるべきことから逃げているだけだと、薄々気づいていた。健太はそんな己を嫌ったが、改善する方法も気力もなかった。
日曜日とはいえ、こんな昼間からベッドに横たわりだらだらスマホを眺めている自分なんて、世間の誰かに認識してもらえるほどの人生ではない、と開き直ったが、自然と気持ちが沈んでいく。また時間を浪費してしまったという脱力感が湧いてくるが、その先の感情は何も起きない。
雨音だけが、時間のみ一様に進むこの部屋にやけに響く。健太の意識はもう現実には向いていない。嫌なものを視線から外すために目を瞑る。横になっている、この世界から、目を逸すために。
この世界では健太の一挙手一投足に世間が注目する。生きることの意味を身言い出し、価値のある日々を過ごす。己の業を果たし、莫大な収入を手にしている。仕事に向き合う一面から、休日でさえも、自身の趣味や友人との交流に勤しみ、足早に過ぎ去る毎日が華やいでいる。どこにも怠惰がのぞかせる隙はない。外国産の高級車を愛車とし、雨の日も風の日もお構いなしに快適に外出する。
不自然すぎるくらい洗礼された日常は、彼のSNSアカウントを彩らせ、その他大勢の弱者にその力を誇示している。健太が強者側に昇格した世界。
しかしこの世界の住人は彼以外誰も姿を表さない。プロフィール画面のフォロワー数や年収がただ数字としてあるだけで、数字にそれ以上の意味を持たない。そして、ユーザーインタ―フェース以外の風景は常に霧のようなモヤがかかっていて、全てがぬけの殻である。数字以外の全てのものが、その存在価値を失い、核を根っこから引き抜かれている。一言で言えば具体性がない世界だ。
それでも健太に不満はなかった。いや、正確に言えばあちらの世界の不満さに比べれば幸せで満ち溢れていた、と言う方が正しい。それでも、ここですぎる時間は何も生まず、蓄積された時間や経験が財産になることはない。しばらくして余すことなく虚無に変換される。少しでも休憩すると、後ろから迫ってくる虚無が世界全体を包み込む。全ての枠組みは不明瞭になり、暗く冷たい空間に変わっていく。そして、原理や道理が適応されるわかりやすい世界へと送り飛ばされるのだ。シンプルで複雑な誰もがよく知る世界に。
ぼんやりとした意識が明瞭になる。同時に五感が起き上がる。目の前の世界が解像度を取り戻した。健太はベッドの枕元に置いてあるスマホの画面をつけると午後4時と大きく表示され、いつの間にか寝ていたことに気がついた。何も変わらないこの部屋の景色をベッドから眺めていると、何もせずに今日を終える自分を誰かに責め立てられる気がしてならなかった。ほんの少しの後悔や罪悪感が芽生えてきたものの、それ以上のことを考えることから逃げる。
ただ時間を浪費する訳にはいかないと、感情が落ち着きなく右往左往していると不意に今日は何も食べていないことに気がついた。脳も身体も、たいして使用していないくせにエネルギー補給だけは一丁前にしたくなる人間の燃費の悪さに不便さを感じたが、用事を与えてくれたことに少し感謝もした。
のそのそとベッドから体を起こす。まるで体の一部がベッドにべったりと張り付いていたかのような感覚が体に残る。何か食べるものを、と期待して冷蔵庫を開けたが、そこに健太の欲している物は何もなかった。一人暮らしを始めた去年の春先は、しばしば食料を揃えて手料理を拵えたが、今やほとんどが冷凍食品やスーパー惣菜に頼っている。何も計画性がなく、その日その時で、食べたいもの、食べられるものを調達していたため、いつも冷蔵庫の中はすっきりしていた。物が多いこの部屋とは対照的に。
健太は今からスーパーに行くしかないと察した。最寄りのスーパーは歩いて数分のところにあるが冬本番を直前に控える寒空の雨の中、ただ食欲を満たすために傘を差して外に出ることは、ものすごく億劫に感じられた。ただ、今はそれ以外の用事を考えられない。仕方なく、上下スウェットの楽な服装に少し厚手のアウターを羽織り、この部屋のドアを開ける。息が詰まりそうなほど重たい空気が流れるこの部屋は、不気味なほどに居心地が良かった。
初冬のほんのり冷たい風が、寝起きの火照った身体の体温を下げる。そして、しきりに降り注ぐ雨の煩わしさ強調する。雨さえ降らなかったら、まだ自転車で遠くに出かけることもできるのに、と実現なし得ない抗弁もつゆ知らず、雨が健太のズボンの裾を濡らした。こんな時に車があったらな、と物思いにふけるが実現しないことを思うと余計に気持ちが沈む。著名人が乗りこなしている高級な自家用車で、天候も関係なしに快適に移動してみたいものだ。この数メートルの距離を移動することにさえ不便さを感じる金沢の天候に、嫌悪感が募る。しかし、ここに移り住むと決めたのは健太自身であるが故、感情の向かう先がわからず負の気持ちが増大する。
雨雪が多いとは、なんとなく聞いていた気もするが、移り住む前は雨よりも雪のことにばかりに意識してしまっていたために、年中通して日照時間が短かいことは予想外であった。だけどもあと1年はここで過ごさないといけないと思うと、また心に影を落とした。
俯いて歩いていると赤く灯された信号機に遅れて気がついた。スーパーまで道のりで唯一の横断歩道だ。細い道から合流する車のための信号であるため、健太の歩いている大通り沿いはあまり止まることのない信号だが、ここでも止まってしまうのかと、自分は何て不幸な人間なのだと勝手に落ち込む。最近些細なことで落ち込むようになってしまっていた。
外出したことを少し後悔しながら信号を待っていると、正面から一人の女性が健太と同じように信号待ちをしていた。部屋に閉じこもっていると感じない、他人の視線に敏感に反応してしまう。ただ、その女性が健太のことを気にもかけてはいないだろう。視線を落とし丸まっていた健太の背筋がピンとする。その女性は横断歩道を挟んだ少し遠くの距離から見てもはっきりとわかる端正な顔立ちと目を惹きつける美しい黒髪が特徴的だった。このスーパーの先に芸大があるので、そこの学生だろうか。しかし、健太の中では芸大生と言うのはもっと奇抜で華美な想像があった。そのイメージとは似つかない。
無意識に視線を向けていたが、ジロジロ見ているの知られるのはまずいと思い再び俯く。あんなにも綺麗な女性が恋人でだったら、この曇天の下でも、もう少し晴れやかな気分になれたのかなと思いつつ、信号が青に変わったので、ゆっくり歩き始める。長らく、私生活で女性と対面で会話をした記憶がない。無駄に挙動不審になっていたが、そんな健太を世間の誰もみてはいない。何事もなかったように必要以上に呼吸を整え、信号が青になり横断歩道を進む。
二人が交差点の真ん中ですれ違う。つい横目でその視線を女性に送ってしまう。息を止めていないと高鳴った鼓動の音が聞こえてしまうと思うほど、その姿は美しかった。
スーパーに到着し傘を畳むと、パラパラと雨粒が地面を濡らす。それと同時に健太の気持ちも少し軽くなった。数分の道のりが、今日は随分と遠く感じられる。きっとこの雨のせいだろう。
健太は店内に入ると一直線に惣菜が置いてある場所に向かった。できる限り周りの目線があるところに居たくなかった。閉鎖された空間に籠っているせいか、そんなことまで考えるようになってしまった。
まだ夕暮れ時ではあるが、日曜日のせいなのか、品揃えが少ない。まあ、いつもこの店は良くないが。どこか淋しさを感じる惣菜たちの顔を物色し何品か手に取ったところで、冷蔵庫の中がもっと寂しいことを思い出した。せっかくスーパーに来たのだからできるだけ買っておこうと、また突拍子もなく思いつき、惣菜を手にレトルト食品が置いてあるコーナーに向かう。おかずを準備するのが面倒な健太にとって、即席で食卓を彩ることができるレトルト食品は重宝している。
好みの辛口カレーのレトルト3個と惣菜を一緒に両手に抱え、レジに向かおうとしたとき、背後から、「あ、出次くんじゃん」と声が聞こえた。雨で下がった体温が一気に上がるのを感じ、全身の毛穴から汗のような何かが滲み出る。
声が聞こえてしまったがために、振り替えざるをえなかった。健太の背後には同じ研究室の同期である三笠が突っ立っていた。
最悪だ。せっかくの休日に会いたくない人に会ってしまった。抱えていた倦怠感が瞬時に疲労感に変換される。
「明日の研究報告会の発表スライド、もうまとめた?」
健太は陰った気分を笑顔で覆い隠した。
「一応は。でも特に進捗がないから、報告できる結果なんてないけど。」
おそらく、三笠から見れば、表情と声色が釣り合ってなかっただろうな、と健太の口角が不自然に釣り上がる。視線は前を向いているが、相手の顔を見ることができない。
逸らし続けていた現実が、目の前に覆い被さった。