第973話 クロスステッチの魔女、一晩を過ごす
みんなに追加の綿を紡いでもらっている間も、雨は降っていた。通り雨にしては長いあたり、上の方で風が止んだか、弱まるかしたのだろうか。そんな風に思っている間にも、少しずつ雲は動いていたらしい。雨は段々と、私達の頭の上を通り過ぎて行った。
「雨は止みましたが……夜ですね、マスター」
「そうねえ、もう真っ暗だわ。雨雲が去ったのに、空がこれっぽっちも明るくならないほど遅いだなんて」
「パン食べるー?」
「食べようかしら。バター、まだあったわよね?」
最後の問いについては、《ドール》たちが答えを言うのを待つより、自分で探す方が早そうだった。カバンの中から引っ張り出したバターの壺は、旅に出る前にたっぷり入れておいたつもりなのに、思ったより減っている。
「今日はちょっとだけにしておこう……」
「どこかの村で買えないんですか? 牛は、そりゃあいないかもしれませんが……」
山間の村で牛はいない。岩場も多いから、そもそも食べる草の育ちが悪い。ヤギ以外の家畜は、あまりこの辺りでは一般的ではなかった。
「ヤギだと、チーズにする方が多い気がするのよね……まあ、チーズ買って載せるでもいっか」
白いパンならそのままでも、甘くて美味しい。でも何か載せると、さらにおいしい。明日の朝は焼くだけにしよう、と考えながら、私は魔法で出したパンを魔法で出した火で炙った。
「贅沢って慣れると怖いなあ」
「よくわかりませんが、今のマスターは魔女ではありませんか。相応の暮らしをするのは、悪いことではないと思いますよ」
ルイスの言葉に「それはそうかもだけど」と言いながら、少しのバターを塗って食べた。干し肉も少し齧る。山の恵みでいいのが採れたら食事の足しにしよう、とは思った。
なくても生きてはいけるけれど、あんまり味気ないのは嫌になっている自分がいる。白いパンが食べられるだけでも、というか豆パン以外が食べられるならなんでも、ありがたかったはずなのに。
「魔女に相応の暮らし、か。そう言われてみたら、そうなのかもね」
私はそう呟きながら、食後のお茶を啜った。魔女は身分の高い女が多いから、生活の基準も上だ。美しく装うことはもはや暗黙の義務だし、清貧は一定の尊敬を集めるとしても、最低限というものがある。その最低限さえ、人間だった頃の私には遠かった。綺麗に整えられた家に住み、服を多く持ち、《ドール》を養い、毎日白いパンを食べる。
木の上に寝ながら、私は私を忘れないためにこうしているのかもしれない、とぼんやり思った。




