第972話 クロスステッチの魔女、糸を染める準備をする
雨はしばらく降っていても、真っ暗な雲の色を薄くする様子が見えなかった。体感としては、多分、今は夕方くらいだろう。
「んーっ……何か甘いものが欲しくなってきた。まだ少しくらい、あったはずだけど……」
魔法の刺繍を一区切りつけた私は、伸びをしてからカバンの中をごそごそと漁り始めた。まだお菓子のひとつやふたつくらいは、カバンにあるはずだ。
「主様ー、主様ー、ついでに綿もっと頂戴!」
「もうすぐ、もらった綿の塊が全部、糸になりますの」
「喜んでいただける出来栄えかと」
そう言って三人が差し出してきた糸は、嬉しそうに言うだけあって、とても細く、よく撚られていた。これで魔法を作りたい、という欲が湧いてくる。
「すごくよくできているわね! これでどんな魔法を作ろうかしら……小鍋、小鍋」
「お菓子はいいんですか?」
「後でいいわよ、後で!」
私はお菓子を探すのを中断して、染色用の銀の小鍋を探すことにした。雨はまだ降り続いているから、雨水が使えるものを作るのもいいかもしれない。
「マスター、次は綿を僕にもください。僕も、マスターにすぐ使っていただけるような糸を作りたいです」
「まあ、ルイスも? 嬉しいことを言ってくれるわね」
少し拗ねたというか、対抗心でも持ったのかもしれない。健全に糸の出来栄えを競ってくれるくらいなら、私としては歓迎だった。大きな綿の塊があったので、これをみんなに任せることにする。その間に魔銀製の、染色小鍋は無事に見つかった。
私の小鍋は、使い込んでやや煤けた銀色に取っ手がついただけの単純なものだ。お師匠様やお姉様の鍋とかになると、色々と装飾が――魔法の効果のない、本当にただの装飾――彫り込まれている。とはいえ、そういう物は一気に高価になるし、何よりそのお金があったら、私は糸や染料を買いたかった。お師匠様がお金を出してくださるということで、見習い用の鍋を卒業した日のことはまだ覚えている。
『こんな魔銀の中でも一番安い鍋なんて、あんた、魔女ならもう少し洒落っ気を覚えなさいよ……』
『その分あれとかこれとか、素材を買ってもらえたらなー、と思ってまして』
『まあ買ってあげるけど……こっちじゃダメ?』
『飾りを壊しそうなので嫌です』
雨を鍋に受けながら、そんなやりとりを思い出す。結局これで事足りているし、やるなら鍋そのものを買い替えるのではなく、なんとかしてこの鍋に飾りを足したかった。方法の心当たりは、まったくないのだけれど。




