第854話 クロスステッチの魔女、麓の街から旅立つ
小さな宿の部屋で一泊してから、私は気持ちよくその街を出ることができた。食べるものも飲むものも補充できたし、思いがけずいいレシピと香辛料まで手に入った。いい滞在だったと思う。
「魔女様、よかったらまた来てください」
「ええ。いつかきっと、またこの宿に来ると思うわ」
手を振ってくれた少年も、次に会った時にはきっと背が伸びているだろう。髭でも生えているのかもしれない。次にこの街に来た時のために、私は宿屋が看板に掲げた『三日月に遠吠えする狼』の絵を覚えておくことにした。
「確かに、魔女が他の街より多いわね……」
「皆さん飛ばれる際は、魔都の方を目指していますね」
そして確かに、頼みごとをする人間の声や、それに答える魔女もいた。私は反対に向かって歩いているからか、首飾りを見た人間も少し迷った様子の後、声をかけるのはやめていた。
「あ、あのっ、魔女様とお見受けいたします……!」
「魔都に頼み事をするなら、あちらに行く魔女へ頼みなさいな。私は帰り」
「失礼しましたっ!」
きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回す人に一度声をかけられただけで、幸い、他にややこしいことにはならなかった。その人も、私が反対を指さすと、すぐにペコペコしながら走って行ってしまった。
「あんなに必死に、何を頼みたいのかしら……まあ、魔女は人間のために生きてるわけでなし。近くに魔女が住んでない人とかかしら?」
「そうかもしれませんね。マスター、ちゃんとお断りができてよかったです」
「頼まれても、またあっちに行ってここまで蜻蛉返りはちょっとね……」
ちなみに、魔都でガッツリ長居する気の魔女なんかは断ることが多いそうだ。すぐに戻らないといけなくなる依頼に対して、それを受けるかの裁量は魔女にある。なんだかんだ言って受けてくれる魔女もいれば、絶対に引き受けない魔女もいると、宿屋の人は言っていた。人を呪う物や助ける物、依頼内容も色々なのだとか。仲介する組合を作ろうにも、人間も魔女もフラフラしてて結局組織として成立しなかった、とも聞いた。
「行く時にこちらから来てたら、私も何か受けてたのかもしれないわね」
「でも主様、そしたらあんなにのんびりできなかったよー?」
「そうねえ、だから今回はこれでよかったのかも。さ、行くわよー」
街の外で、皆が定位置に着いたのを確認してから地面を蹴る。いつものように箒は浮き上がって、私はその街を離れて遠くへと飛んでいった。我が家の方角へ。




