第771話 クロスステッチの魔女、春を迎える
編み物の練習をしながら、春の訪れを待つ。雪解け水を時折掬って歩いているうちに、気温が上がっていることには気づいていた。よく濾した雪解け水は多くは採れなかったけれど、おそらく、他の年に同じようなことをした時よりは、多く採れているだろう。雪は少しずつ減っていき、夜の間に凍り付いたので、昔を思い出して長靴に荒縄を結んでおくようにした。凍り付いた雪の上をサクサクと歩きながら、時折、霜を踏み割っておく。気の早い白いウサギが、視界の端をひょこひょこと跳んでいくのが見えた気がした。
「紅茶、ギリギリ足りそうね」
「よかったですね、マスター」
「雪解け水は少量だから、大事に使わないと。多分きっと、何年も何十年もかけて貯めていくべきものなのね」
大きくて立派な魔法のいくつかには、あの濾した雪解け水をたっぷりと使う。あの水でよく洗った糸を使う魔法や、あの水に浸した布で使う魔法は、どれもとても難しそうなものだった。いつか使う場面が来た時のために、用意しておく。
——真っ白だった世界に土が見えて、無彩色のセカイに少しずつ色が戻ってくる。それが、春だとこの年になってわかった。今までで一番籠っていなかったから、見えた景色だ。
肌に触れる風は冷たくなくなってきて、穏やかだった。春が来たな、と気づいたのは、目の前に見える景色に、白と黒以外が見えた時だった。それは、木の芽の小さな小さな緑色。まだ少し雪が残っているけれど、確かに春は来ていた。
「じゃあマスター、今日は春のお祝いをしますか?」
「そうね、今ある保存食大体入れて……パンを砕いたパイにしちゃいましょうか」
溜め込んだ保存食の残りと言っても少ないので、例年にやるよりは実の少ないパイになりそうだった。メルチといた時は彼女を春まで養ってそれなりにできたけれど、あれは念のためにと用意をしすぎたから。段々適切な量がわかって来たのであそこまで用意はしないでいたけれど、それで今年は大変なことになりかけた。ううん、加減とか適切な量って難しい。
「じゃあこの、魔法で作ったパンをみんなで毟って小さくしておいてくれる?」
「「「「はあい」」」」
パンをちぎって小さな欠片にし、それらを工夫してパイの皮にした。普段ならちゃんと生地を作るけれど、今回はそれだけの余裕がない。パンは魔法でいくらでも作れるから、そこを気にしなくていいことは強みだった。残った食料を粗方入れて、パンのちぎった物を練りまとめて作った蓋をする。そして、火にかけた。




