君に捧ぐレリジェン
__これは、ふたりの人間の話
追記:後書きに解説があります。
よければご覧下さい。
《二〇二二年十月二〇日午前三時十二分》
どうしてこんな私の傍にいてくれるのだろう。
寝息を立てている彼を見下ろす。そう、これまでの位置関係はこんな感じだった。彼はずっと私の後ろを歩いていて、向上を忘れずどこまでも進み続ける私の生き方に惚れていた。単なる恋ではない。だからと言って、薄っぺらい憧れや敬愛でもない。私という存在を盲目的に、宗教的に、己の全てで愛していたのだ。
彼が愛していた私という存在。それを、私が奪ってしまった。
無様。
昨晩、その二文字を体現するかのように取り乱し、全てをやめてしまいたいと彼に縋った。強い私――神を見ていた彼にとって、私が人間に堕落していく様はさぞ見るに堪えなかっただろう。迷いなく私を見つめていた真っ直ぐな瞳が一瞬だけ大きく揺れたのだ。その時の彼の表情が眼球に焼き付いて離れない。
裏切られたような気分だったのだろう。実際、私は嘘を吐いていた。彼の神でいることに悦楽し、自身が信仰するに値する神であるのだと偽り続けていた。その事実を自らの限界と共に明かしたのだ。神だと思っていたものが、ただ神を自称する人間だった。外側がどれだけ強く優れていたとしても、中身がこんなにも空虚で完璧とは程遠い存在では誰も救えない。初めて出会った時から、彼は私に救いを求めていた。それが叶わなくなった今、何故こうして傍にいるのだろうか。
一つだけ言えることは、彼の根本的な信仰は変わっていない。あの瞳は揺れただけだった。理由は分からないけれど、それだけは確かなことだ。
《同日午前七時五十五分》
目を覚ますと、僕の隣で彼女が寝息を立てていた。神様と同じベッドで眠るという異質な状況に戸惑ったが、すぐに昨晩のことを思い出して納得した。
――彼女は、人間になったのだ。
《二〇二二年十月十九日午後十一時三〇分》
彼女が乱れた時、それに共鳴するかのように心が激しく動き出した。刹那、僕は何かに突き動かされるように彼女を抱きしめていた。「彼女を慰めよう」なんて気の利いたことを考る暇なんてなかった。仮にそんな理性があったのなら、彼女のような貴い存在に触れようなんてまず思わないだろう。本能から発せられた抗い難い衝動ゆえの行動だった。
これまでは彼女の完璧な姿を見るだけで十分だった。しかも、毎週土曜日には祈りの機会を与えてもらっていたし、会社でも稀に彼女と接触していた。僕と話す時に見せるゴミを見るような目、邪魔者を追い払うかのような仕草に、嫌悪を一切隠さない声色……これらは僕の存在を彼女が認識しているのだという証拠であり、その事実が僕の心を十二分に満たしてくれていた。だから、それ以上を望むなんてあり得ない。あり得なかったんだ。
顔を埋めて喚き散らす彼女を見下ろす。彼女にとってゴミ同然の僕が、その彼女を見下ろすなんて……本来あってはならないことだ。でも、今夜は違う。資格が与えられた。選ばれた。選ばれたんだ。神様だった、彼女に。
目を細める。なんて光栄なことなのだろう。陶酔が波のように次々と打ち寄せ、歓喜の眩暈を起こす。彼女が隠していた汚点を見られる日が来るなんて、夢にも思わなかった。それも当然か。神は信者に救済を示し続けなければならないという義務を負っているし、信者は神を信じること以外は何も考えないし、考えてはいけないから。神と信者の間に存在するのは純粋な狂気と陶酔的な愛だけ。それこそが至高の関係であり、信者を救済するということに繋がるのだ。
彼女は僕を選んでしまった。僕を信者ではなく一人の人間として愛し、人間に堕落した。その結果として、醜い姿を曝け出すことになったのだ。
神様の堕落。虚しい響きだ。彼女には失望してもしきれないような状況。それなのに僕はうっとりするほどの幸福感に満たされている。彼女に選ばれたことによる優越感からか、はたまた神様が堕落した瞬間に立ち会えたことへの歓喜からか――いや、そんな陳腐な理由ではない。この悦びの正体は、征服、侵略、支配……そういう欲が満たされたことによるものなのだ。そうか、僕はずっと彼女を自分の所有物にしたかったんだ。僕ほどではないけれど、彼女を信仰している人が他にもいたから。神様はどうして僕だけを救ってくれないのだろうという思いが、ずっと胸につっかえていた。だけど、神というものはそういうものなのだと相場が決まっている。神は個人のためではなく、ありとあらゆる人間を救うために君臨しているのだと、最初から諦めていた。神であるから所有できないのであれば、引きずり落として人間にしてしまえばいい。間抜けな僕は、そんな単純なことにも気づけなかった。彼女は一番の信者である僕のために、身をもって教えてくれたんだ。神を自分の物にする方法を。
「私には、もう君しかいない……」
掠れた声で僕を選択し続ける彼女。その脆弱で薄い背中を、更に強い力で抱きしめる。この身体は、僕の匙加減でいつでも壊すことが出来る。彼女はもう僕のものなんだ。なら、これからずっと僕に縋って生きていてくれないかな。その結果、外界から彼女が切り離されようが関係ない。僕はもともと、他人との交流を見て彼女に信仰心を抱いたわけではないから。彼女の信念と、彼女が僕に見せる態度に陶酔したのだ。それに、堕落した今となっては仕事が出来る完璧な姿でいる必要もなくなった。閉鎖された空間で僕だけに救いを求める今の姿の方がもっと魅力的だし。であれば、わざわざ外界に連れていく必要はない。このまま閉じ込めて、救ってあげた方がいいに決まっている。そうだ、今日から僕が神になってあげよう。
「く……ぐるじっ」
僕の背を叩く振動が心地良い。彼女を僕の信者として愛そう。これからも彼女は僕の全てだ。
「僕が君の神になってあげる」
何にも代えがたい、代えようと思うこと自体が烏滸がましい。そんな唯一無二の存在である彼女が選んでくれたのだ。ならば、僕は喜んで彼女の神になろう。人間に堕ちた彼女に救済を施してあげよう。
《二〇二三年四月二〇日》
玄関を開けると彼女が抱きついてくる。よくあるハグの態勢ではなく、膝立ちで僕の脚の付け根に纏わりつくように。最初は一般的なそれと変わらない抱きつき方をしていたが、一週間もしないうちに縋りつく姿勢となった。なんでも、信仰心を余すことなく僕に伝えたいのだそう。そんなことをしなくてもいいんだよと伝えたこともあったが、自分がそうしたいのだと彼女が赤子のような笑みを浮かべたため、認めることにした。本人が望むことは出来るだけ制限したくないと思ったのだ。それに、僕のものになれたことが嬉しくて堪らないと言う彼女の行動を止めるのは気が引ける。
「ねぇ、寂しかったよ」
大きな瞳が上目遣いでこちらを見てくる。媚びるような猫なで声。華奢な指が寄生虫のように僕の脚を這う。彼女の神で居続ける覚悟なんて最初から決まっているというのに……彼女はどうにも不安が拭い切れないようだ。いや、それも仕方の無いことなのかもしれない。彼女自身、僕に見えないところで心に穢れを溜め込んで唐突に堕落の道を選択したのだ。僕もそうなるのではないか……と心配になるのも無理はない。
「一人にしてごめんね」
「ん」
顔を突き出してくる。いつものように、おかえりなさいのキスをしたいのだろう。愛らしい彼女の行動に頭の芯が痺れていくのを感じる。捨てられないように僕の顔色を窺って行動したかと思えば、まるで恋人のような態度で傲慢に甘える。その二面性は僕からの施しが無ければ生きていけないということを痛いほどに証明し、主張していた。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
口づけが終わると、彼女は満足そうにリビングへと向かった。今にも飛んでいってしまうのではないか……と不安になるほどに軽い足取りが喜びを表している。
「かみさまのために作ったんだ」
じゃーんと両腕を広げながら彼女は言った。得意げな顔をして、僕に褒められるのを今か今かと待ち侘びている。
「ありがとう」
希望通りに頭を撫でてやると、彼女は向日葵のように無邪気な笑顔を咲かせて飛び跳ねた。
穢れを知らない無垢な笑み、大袈裟な身振り、食欲が唆られる手作り料理……こうしてみると、半年前とは大違いだ。神様だった彼女は不敵な笑みを浮かべることが多かったし、ジェスチャーなんて見たことがない。ましてや料理なんて作っていなかった。そして――
「どうしたの?」
不思議そうに大きく見開かれた目。最大の違いはこれだ。目つきが変わったとか、メイクが変わったなどという表面的な変化ではない。彼女の眼球そのものの質が変わった。かつては、この世の希望の全てを見境なく吸収したのかと思うほどの輝きがあった。だが、今は僕という一筋の希望のみを映している。……どの変化も美しい。僕への信仰心から彼女が変われば変わるほど、身が焼けそうな悦びを感じる。
「ねー、愛してる」
「僕も愛してるよ」
彼女がテーブルにちらちらと視線を送っている。どうやら食事にしたいらしい。今日は帰りが遅くなってしまったから、いつもよりお腹を空かせているのかもしれない。そう思った僕は、彼女の望み通り椅子に座ってオムライスを自らの口に運んだ。
「美味しい……?」
「美味しいよ」
そう言って微笑む。料理の感想は全て本心だ。彼女は何をしても上手くこなしていたが、それは料理も例外ではないようだ。この前見た時は、スマホで軽く手順を確認しただけで、それ以降は画面を見ることなく感覚で作っていた。きっと彼女の感性には研ぎ澄まされたものがあるのだろう。
「君も食べていいよ」
「うん! いただきます」
許可を得た彼女は心底嬉しそうに僕の隣へと座った。彼女の分のオムライスを掬い、口に入れてやる。
「おいひい!」
ほふほふと湯気を出しながら歓喜の声を上げる彼女。自分で作ったものだからか、僕が作った料理を食べていた時より反応がいい。少しだけ悲しい……いや、それは彼女が人間になる前のことだ。彼女に料理を振舞ったのも一度きりだったし、比較はできない。
次を催促するように彼女の腹が鳴る。それに応えて、もう一度オムライスを口に運んでやる。この不便な食事の仕方は彼女が望んだのだ。自分が僕の所有物であるという事実を感じられる行為の一つなのだそう。彼女は自身が僕の所有物であり信者であるということを、僕以上に理解し大切にしているのだ。僕もこの食事の仕方は嫌いじゃない。美味しそうに頬をおさえる彼女の顔を間近で見られるから。
「先にシャワー浴びてるね」
そう告げると、彼女はテレビから僕に視線を動かした。表情が曇っている。いくら外界との関りを断って一生二人きりで過ごしたいと思っても、現実はそんなに甘くない。彼女は退職したが、僕は生活のために仕事を続けている。だから、僕が働いている間彼女はずっと一人で家にいるのだ。僕は明日も仕事だ。一緒にいられる時間は少ない。それを知っているからこそ、片時も離れたくないと思うのだろう。僕の都合で寂しい思いをさせてしまっている自覚も、罪悪感もある……だが、これだけはどうしても譲れないのだ。神としての体裁を保ち、彼女からの信仰心を得続けるために。
「すぐ呼ぶから、良い子でいてね?」
「……うん」
返事を聞いて風呂場へと足を運ぶ。かれこれ半年間、毎日繰り返していることだ。彼女もずっと一緒にいてくれ――なんて我儘は言わない。分かっているのだ。この件に関しては、僕が一歩も引かないということを。それに、どれだけ近くにいてもあくまで神と信者、所有者と所有物の関係。自らの我儘がどれだけ許されるのか……優秀な彼女なら理解しているはずだ。本当は僕だって片時も離れず一緒にいたい。だって、この時間は僕にとっても憂鬱でしかないから。
服を脱いで思わずため息を吐く。全身を嘘偽りなく映す鏡は、僕の人間の象徴を容赦なく、残酷に告発する。
「こんな姿、見せられるはずがない」
ボディーソープを泡立て、汚点に手をやる。
恥部とはよく言ったもので、まさにこれは僕にとって唯一の恥だ。神は種や概念を創る存在で、個体を作ることはしない。それに加えて人間は同じ種族間でしか交尾をしないから、そこに混じれるものを持つということは自らを同種――信仰すべき神ではなくただの人間なのだと認めることになる。僕は彼女に選ばれた正真正銘の神だ。だから、こんなものは早く手術をして取り除かなければならない。そのためには金を早く貯める必要があるのだが……食費を抑えるか? いや、彼女には美味しいものを食べてもらいたい。本を買うのを控えるか。他には――
ため息を吐く。今日で二度目だ。この時間は本当にいいことがない。早く彼女を呼ぼう。急いでタオルを腰に巻き、浴槽の近くに備え付けられている通話ボタンを押す。
『もしもし?』
「もう来てもいいよ」
『分かった!』
弾けるような声が聞こえたかと思った瞬間、通話が切れる。彼女は眼が眩むほどに純粋だ。だからこそ、安心して「来てもいいよ」なんて余裕ぶっていてられるのだ。僕の方が彼女に救われているような気もする……。あってはならないことだ。早くなんとかしなければ。
「かみさまっ」
扉を開けると、彼女が両腕を広げていた。僕の焦燥や不安、もちろん恥部のことなど何も知らない喜色満面の笑みを浮かべている。
「ちょっと待ってね」
そう言って横にかけてあるタオルを手に取り、自分の肩から指の先を拭く。それから、彼女の服のボタンを一つ一つ丁寧に外す。この時間は僕も彼女も無言だ。服を脱がせてやるこの瞬間は、いつの間にか何にも代えられない神聖な空間となっていた。理由は分からない。……神様なら、分かったのだろうか。
「お背中流しますっ」
「ありがとう」
背中に優しい刺激を受けながら目を瞑る。料理の件もそうだが、彼女には奉仕の制限をしていない。僕が神様に奉仕出来なかった分、彼女には思う存分してほしい。
《二〇一三年四月五日》
入学式当日。未知への高揚感は一切なく、僕の心は落ち着いていた。高校生になっても何も変わらないと思っていたのだ。いつも通り両親に怒られ、周りからは信仰心の欠片もない人間だと冷たい目を向けられる。そして、神様と二人きりで時を過ごす。組が分かれてしまったら授業中は時間を共に出来ないだろうが、それは初めて出会った時から同じだ。幼稚園から中学まで同じだったが、一度だって同じ組になったことはない。神様のことを考えていれば、授業なんてすぐに終わる。だから、それだけで三年が終わると思っていた。
張り出されているクラス表から神様の名前を探す。一組にはない。二組も……ない。三組は…………あった。神様の名前。何万回も見た神聖な名前。次の瞬間、僕は走っていた。周囲からの視線なんて気にならない。廊下を走ったことで後にされるであろう教師からの説教も、神様と一秒でも早く会うためならば甘んじて受け入れよう。幸い、怒られることには慣れている。
扉を開ける。そこには、少し見慣れない制服に身を包んだ神様がいた。
「神様!」
思わず声を上げる。神様が僕の方に視線を向けた。「よく来たね」そう微笑んでもらえるのだと確信していた。中学生になってからは稀に当たりが厳しい時もあったが、基本的には笑顔で応えてくれていたから。だけど、僕を裏切るように神様は怪訝そうな表情を浮かべた。
「君、ここではあまり接触しないでもらえるかな」
大勢に囲まれた神様は、断罪するかのような声色で僕を指さした。
「え……?」
ぐらり。視界が大きく揺れる。理解が出来なかった。だって、僕らは神と信者だ。切っても切れない関係で、傍にいることは当たり前で。……普遍的なもの、で。それなのに、それなのにどうして。
「何こいつ」
取り巻きの誰かが言った。普段なら気にならないはずの雑音。だけど、それが神様の心を代弁しているような気がしてならなかった。
それから、神様に遠ざけられ孤独にのたうち回る高校生活が始まった。神様の志望校に見合う学力を身に着けることに必死だった僕に対し、神様は更に美しく花開いた。初日にクラスを掌握したことなんて序の口で、たったの三か月で全生徒で知らない者はいないと言われるほどの有名人となったのだ。教師から一目置かれているのは勿論、通り過ぎる生徒が必ず頭を下げるようになった。二年が経つ頃には、他校の生徒すらも通学している神様に頭を下げていた。誰もが神様を信仰していたのだ。
だが、神様は一切満足していなかった。放課後は必ず図書室で読書をし、定期テストでは必ず一位をとった。容姿には更に磨きがかかっていて、艶のある黒髪は見るもの全ての心を奪った。
僕という存在が、神様の瞳に映っていない気がした。死より辛い二年間を過ごした。それでも生きていられたのは、毎週土曜日に神様が信仰心を捧げさせてくれたからだ。
「僕の全ては神様のものです」
跪いて祈ると、頭に神様の掌が置かれる。僕が全てを捧げることを肯定する行為だ。束の間の救済の時間。明日からまた孤独になってしまう――そう考えると祈る手に力が入る。神様に見放されたわけではないのに、こんなにも胸が苦しい。ああ、この時間がずっと続けばいいのに。
「……なぜ、僕を遠ざけるのですか?」
理由が分かれば解決できるかもしれない。遠ざける理由がなくなりさえすれば、また一緒にいられる。その一心で問いかけた。だけど、神様は答えない。
「貴女のためなら何でもします。何でも、出来るんです」
神様は応えてくれない。突き放されたような感覚に陥り、慌てて言葉を紡ぐ。
「身の回りのお世話も、周りの人間に規律を教えるのも、くだらない課題だって代わりにやってみせます……だからっ」
僕を見て。そう口にするよりも先に、神様の手が僕の顎を掴んだ。思わず息を吞む。神様の行動に驚いたわけではないし、爪が刺さった痛みが気になったわけでもない。神様の瞳が僕を下賤なゴミとして捉えていたことに衝撃を受けたのだ。沈黙を確認した神様が口を開く。
「信者が神にしなければならないことは、祈りを捧げ普遍の信仰心を示すこと。ただそれだけなの。これ以上、私を愚弄するな」
確かな嫌悪の色。入学式当日に僕に向けた表情と同じだ。
「僕は、神様に嫌われたのではないかと……」
こんなことを安易に口にしてはいけないことくらい分かっている。だけど、高校に入ってからずっと不安だったのだ。顎から手が離れる。わざわざ見上げずとも、神様から僕への嫌悪が消えたことは本能で感じることが出来た。
「信者を救済する。それが私の――神の役目だよ」
神様の言葉はいつだって甘美だ。たった一言二言紡ぐだけで、僕の心を蝕んでいた暗い感情が消え失せる。そうだ。神様が僕から遠ざかって……だからどうしたと言うのだろう。僕には普遍の信仰心がある。同じ学校にいる限り遠くからでも神様の姿を見ることが出来る。なにより、こうして祈る時間がある。それ以上、何を望めるというのだろう。僕はなんて愚かなんだ。くだらない感情に吞まれていたせいで、二年もの月日を無為にしてしまった。これからは一秒たりとも無駄に出来ない。心からの信仰を、一生をかけて捧げ続けなければ。
この時、僕は誓ったのだ。過剰な行為で神様の地位を汚すのではなく、信仰心と祈りを欠かさない敬虔な信者でいよう――と。
「……み……、か……ま…………かみさま!」
彼女の声ではっと我に返る。
「背中、流し終わったよ……?」
不安そうに僕を見つめる彼女。彼女はまだ未熟だ。神に嫌われることを恐れている。信仰する限り、神が信者を見捨てることなどありはしないのに。
「ありがとう。少し昔のことを思い出していたんだ」
「思い出?」
「うん。とても神聖な思い出」
彼女にもいつか知ってもらおう。僕には神様がいたってことや、信仰心を忘れなければずっと救われるということを。こうして尽くさなくても、僕は傍にいるってことを。
「次は私だねっ」
そう言うと彼女は僕の前に移動した。
「くすぐったいかもしれないけど、じっとしてね」
ボディータオルなんて下賤なものは使わない。首から下へ、撫でるように全身を泡で包んでいく。彼女が堕落して半年。以前より少しだけ肉付きが良くなった。神様が自己管理を徹底してスレンダーな体型を維持していたからか、運動や食管理をしていなくても一気に太るということはないらしい。今は標準体型といったところだろうか。
女性器に手を伸ばす。
「ん……」
恥ずかしそうに顔を背ける彼女。恥じることなんて全くないのに。生殖器は人間である証拠だ。神でいたい僕にとっては汚点でも、人間となった彼女にとっては誇るべきものだろう。……とはいえ、普段は布で覆われている部分だ。緊張するのも無理はない。人間はそういった類のものは穢れていると周囲から教わって育つのだ。僕が同じ立場でも同じように恥じただろう。
「足を上げて」
「うん」
足の裏を撫でると、彼女は擽ったそうに身体を捩った。
「我慢してね」
「う、ん」
指と指の隙間まで丁寧に洗う。彼女には身も心もきれいな状態を保ってほしいのだ。
「かみさまの身体も洗おーか?」
「僕は自分で洗うからいいよ。先に温まっていて」
そう言うと、彼女は頷いて浴槽に身を沈めた。僕もすぐにボディータオルで身体を洗い、彼女の待つ浴槽へ入る。
「タイマーセットする!」
「ありがとう」
これは僕が教えたことだ。浴槽に浸かるのは三〜五分が理想とされている。長風呂になって、万が一のぼせてしまったら大変だ。僕は丈夫だけど、彼女の身体は脆い。細心の注意が必要なのだ。
「かまさまっ」
不意に彼女が正面から抱きついてくる。彼女が愛おしい。信者として、かつての神様として、脆い人間として……あらゆる理由で彼女を愛している。男女のそれではなく、神聖な関係にのみ生じるもの。この感情こそが僕を神たらしめる要因で、神である資格なのだ。
優しく彼女の身体に手を回す。たった一人の大切な信者を、間違っても壊してしまわないように。
「死にたいの」
僕の背にぽつり、暗闇の中で彼女が吐いた。その言葉に合わせて胸が高鳴る。今日は発作が起きたようだ。
堕落したあの日から、彼女は月に一回くらいの頻度で死を望むようになっていた。彼女への信仰が世界の全てだった僕とは違い、彼女の信仰は現世に留まるための手段であり自らが死なないための言い訳。堕落したあの日から彼女は本質的な充実感を満たせていない。そんな人生に意味を感じられないらしい。普段は僕を希望として無邪気に縋っているものの、こうして厭世的な思考をするあたり、根本的にはあの日から変化していないのだろう。僕には全く理解のできない感情だ。手段だろうが言い訳だろうが、こうして信仰すべき神がいて、人間としての最低限の営みが出来ているのならそれでいいじゃないか――と、思ってしまう。
だが、彼女はこのまま僕に縋っていたくないのだと言う。昔のように自立して、僕を先導したいのだと訴え続ける。過去の自分を今の己に押し付けた結果、理想と現実のギャップに耐えきれなくなって彼女は死を望むのだ。その考えは堕落したままではいつか僕に愛想を尽かされてしまうという強迫観念から成るのだろう。彼女の落魄した姿を見ることが僕にとって最大の癒しであり幸福だと、何度も伝えているのに。
僕の背中に縋りついて「救ってくれ」と喚くのを合図に、至福の時が訪れる。本当は、このまま振り返って滅茶苦茶にしたい。いくら僕が貧弱といえども、相手は女だ。男と女では圧倒的な力の差がある。まず、縋りつく彼女を手錠で拘束する。突然のことに恐怖を感じて抵抗するだろうから、きっと手首に跡が残るだろうな。口にハンカチを詰め込むなんて野暮なことはしない。生命の叫びは神聖なものだから。そして怯える彼女に言うんだ。僕が救ってあげる――と。最初から苦痛を与えるつもりはない。順序は大切にしたいんだ。絹のように美しい肌に刃物で薄く切りつけていく。白い肌だから赤色がよく映えるだろう。少量とはいえ、折角の血液を垂れ流していては勿体ないな。丁寧に優しく舐め取ってあげよう。舌で存分に転がして味わいたい。…………想像するだけでどうにかなってしまいそうだ。
ぜひ現実にしたいところだが、実際はそうはいかない。僕は彼女を愛していて、それと同時に所有しているのだ。彼女にはなるべく生きた状態で傍にいてほしい。死んでしまっては趣がないじゃないか。それに、まだ彼女から救ってくれと頼まれていない。
「愛してるよ」
今の僕にできることは、悲しみを嘆く彼女に純粋な愛を注ぐことだけだ。
「本当に?」
「うん」
「ずっと?」
「愛してるさ、ずっと」
何度も行われる愛の確認。
回数を重ねれば重ねるほど、泥沼のように沈んでいく。溺愛。そんな二文字では表現できないほど、僕らは互いを必要としている。
「君はそのままでいいんだ」
無力で、臆病で、どこまでも救えない――そんな彼女が、なによりも愛おしい。彼女の瞳から零れる其れを、眼球ごと掬いとってしまいたい。ぽっかり空いてしまった眼窩には僕の唾液を注いであげよう。僕の体液で満たしてしまえば、彼女は完全に僕しか見えなくなる。昔の自分への執着や葛藤を断ち切れるに違いない。
「好きなだけ泣いていいんだよ」
だけど、本気でそうしようとは思わない。甘えてくれるのは勿論、理想の自分への未練を断ち切れずに苦しむ彼女のことが愛おしいから。完璧で人間味のなかった彼女がこんなに些細でくだらないことに苦しんでいる……それだけで僕の心は満たされるんだ。もっと苦痛に顔を歪めて、堕落した無様な姿を曝け出してほしい。彼女の方から僕に侵食されたいと懇願するほどに。
「私、もう無理」
こんな状況でも、彼女は嘘を吐く。直接的な言葉を使わず、僕に縋っているのだと、救いを求めているのだと言う。僕に全てを捧げる覚悟もないくせに。信仰を未だに手段だと捉えている今の彼女では、救済の代償として内臓の半分を差し出すのが精一杯だろう。死ねと命じても実行できない。いくら本人が死を望んでいても、だ。彼女は本能に抗えるほど精神が崩壊しているわけではない。だからきっと「怖くて死ねなかったけれど心から信仰はしている」なと必死に弁明するのだろう。真の信仰は恐怖すらも安易に消し去るというのに。彼女は本物の信仰を知らないのだ。仕方のないことだ。これまで僕が手本のような信者でいたとは言え、崇められる側は意識したことはなかっただろうから。
手のかかる信者。だけど、それでいい。不出来な人間はかわいらしいから。
「僕がついてるよ」
耳元で囁く。理想に向かって這い上がらなくていいのだ。このまま堕ちて、いつか僕に全てを捧げてくれればいい。その時が来たら彼女を救ってあげるのだ。
――この時は、そう思っていた。
《二〇二三年五月三日》
初めて違和感を抱いたのは二日前だ。
彼女が僕に捧げる視線が、“神”である僕に救いを求める腕が、僕を縛り付けるようなものに思えてならない。そのどれもが僕の存在意義を証明するものだと歓喜に打ち震えていたのに。
「ねぇ」
袖をぐいっと引っ張る彼女。視線をやると、心配そうな瞳と目が合う。その表情には何の嫌みもない。ただ盲目的に僕を信仰する信者の姿があった。いっそ、含みのある表情の方がよかったのかもしれない――そんな考えが過ぎって咄嗟に首をかぶり振る。何を考えているんだ、僕は。神が信者に求めていいことじゃないだろ。
「ごめん、ちょっと疲れちゃったみたいだから部屋で休んでるね」
そう言い残して寝室へと向かう。これ以上あの場にいたら、取り消せないような何かを言ってしまう気がして怖かった。それに、純粋な彼女の顔を見続けるのが辛かった。
僕はどうしてしまったのだろうか。
自問する。分からない。全てが順調だったはずなのに。仕事の疲れか? ……いや、彼女と関係のないことで僕が乱れることはない。最近は大きなミスもしていないし、職場の人付き合いにもこれといった異常はない。
何も変わっていない。
何も間違っていないはずなのに。
「大丈夫?」
気づくと隣に彼女が座っていた。
「はい、お水だよ」
「…………ありがとう。ごめんね」
笑おうとして、自分の心が痛いほどに乾燥していると気付く。少しでも無理をすれば、僕という存在が砕け散ってしまいそうだ。
ため息が漏れる。こんな姿、彼女に見せたくなかった。僕は彼女の信仰すべき神でいなくてはならないのに。
「怖かった」
言葉と一緒に彼女の頭部が肩に乗せられる。
「君が遠くに行ってしまう気がして」
愛おしいはずなのに、鉛のように重く感じる。
「ねぇ」
シャンプーの香りが気持ち悪い。
「ずっと、私の神様で居てくれる?」
僕の膝に置かれた手に、ぎゅっと力が入る。身体が震えた。これは、僕が本物の神であるかどうかの確認だ。
頷け。頷け頷け頷け、頷くのだ。彼女の神で居続けることを誓わなくちゃいけない。それが、彼女から僕に与えられた祝福なのだから。早く肯定しろ。いつもやってきたことのはずだろ? なんで、なんでこんなに簡単なことが出来ないんだ。お願いだから口を開いてくれ……!
「っ」
僕の必死の願いが届いたのか、口が開いた。よかった。これで言える。彼女に、彼女に見放されずに済む――――
「…………駄目だったんだ。僕じゃ」
自分の思考の異変に気づいた時には、手遅れだった。我に返った時には意図しない言葉が落ちていて。目を背けていた現実が、緩やかに頬を伝った。
《二〇二三年九月十二日》
以前よりずっと細くなった首に手を添える。ぴくっと反応する姿を愛おしいと思う反面、本当の彼女とはまるで違う素振りに苛立ちを覚えた。
「早く元に戻ってくれよ」
彼女と目が合う。かつての気高さもなければ純粋さも消え失せている濁水のような瞳は、一体何を映しているのだろうか。きっと、ろくでもないものを映しているに違いない。だって、彼女は“偽物”だから。僕が神を演じたせいで作り出してしまった、仮の姿。真の彼女は、こいつのせいで出てこられないのだ。
「なぁ、頼むよ」
そう言うと僕の手に偽物の手が添えられる。彼女の応答なんて、求めていないのに。
「駄目だったんだ。神様は、君じゃなきゃ……!」
僕は光になんてなれなかった。誰かを救う資格なんて最初からなかったんだ。いくら僕が神を自称し演じようとも、全てが偽りでしかない。継ぎ接ぎの神が信者を心の底から陶酔させることなんて出来やしない。これは僕の素質の問題というより、彼女にしか為せないことだったのだ。だってそうだろう? どうしたって神は一柱で、世代交代なんてふざけたものは存在しない。神が自らの代わりを指名してもそれは変えられない規則であり、摂理なのだ。
突然、手の甲に焼けるような痛みが走る。視線をやると偽物が爪を立てて抵抗していた。いつの間にか力を込めてしまっていたらしい。ほらみろ、僕は自らの感情の昂りさえコントロール出来ない。これが、これこそが僕が人間であるという絶対的な証拠だ。人間はいつだって衝動的で身勝手で――なにより献身的だ。
「うぐっ……」
「苦しいふりなんて、しないでくれ」
本当に苦痛を感じていれば僕の望みを叶えているはずだ。偽物に隠れているとはいえ、彼女は神様だ。その気になれば涼しい顔で何だってこなすことが出来る。僕のようなただの人間には、たとえ全てのDNAを書き換えても出来ない芸当すらも。
「僕は本当にずっと、ずっと苦しんでるんだよ……!」
この茶番を今すぐにでも終えられるのに。自身の信者が苦しみに悶えているというのに。彼女は人間のふりをやめずに僕を弄び続ける。
引っ掻かれている手がまだ熱い。本気で引っ掻いたのか皮膚が深く抉れている。きっと、後で酷い激痛に苛まれることだろう。涙が滲む。どうして僕がこんな仕打ちを受けなければならないのだ。僕の精神は崩壊寸前だ。彼女が本来の姿に戻らないことへの悲しみや焦燥は勿論。苦しいふりをして乱れる偽物を見ていると、このまま窒息死させてしまおうかと考えるほどの嫌悪感と同時に、今にも破裂しそうな高揚感が脳を侵食する。快楽と不快が混ざってカオスを生み出しているせいで、どちらの感情が正しいのか判別することすら出来ない。
「――――あ”」
虫が潰れたような声を出したと思った瞬間、偽物はかくんと糸が切れたように失神した。
◇
ずっと求めていた。
信仰心を捧げるべき相手を。
この方になら救われたいと思える、神様を。
《二〇〇二年七月六日》
「子どもにとって親は絶対なの。だから大人しく言うことを聞きなさい。恩返しだって、その都度その都度必ずしなくちゃいけないんだからね」
「はい、分かりました」
返事をして視線を落とす。いつもはこの後に“母様”と言っていたのだが、五歳になる頃には目の前の人間をそう呼ぶのが億劫で仕方なかった。
己の異質さには物心ついた時から気づいていた。友人や親戚は当たり前のように生みの親を崇めている。多少の反抗はしているようだが、未だかつて親を崇拝したくないと叫ぶ人を見たことがない。どれほど不当な扱いを受けていても皆、口を揃えて「親が一番好き」だの「恩返し」だの言って人生を捧げ続けている。五歳という年齢が盲目なわけではない。テレビに映る芸能人からも、親への信仰心がひしひしと伝わってくる。信仰すべき親を欲とプライドに塗れた人間だと吐き捨て崇拝しない僕は異端だ。信仰している振りもしないせいで、周囲からは白い目を向けられる日々の中で生きている。
当たり前だが、実際に親を神だと呼んでいる人間はいない。神や宗教という言葉は、“尊敬”や“感謝”という単語で飾りつけられている。僕くらいの年頃の子は、好意という形で。
僕だって信仰心を捧げたいさ。異端でいることに特別感なんてない。だけど、世間の言う神を崇めることはしたくないのだ。そもそも、親だって僕に愛情を抱いてない。僕が賢すぎると気味悪がり、あからさまに遠ざけてきた。ことある事に「少し頭がいいからって調子に乗るな」と訳の分からないことを言われてきた。僕は「親だから」という理由だけで信仰心を抱けるほど単純ではない。だから、宗教のようにその身を捧げて信仰すべきだと思える本物の神様を求めているのだ。
神様でもない相手からこんな説教をされるのは、もううんざりだ。信仰心を持たない僕の言動は、親にとって全てが不快なものだろう。きっと、これからも怒られ続けてしまう。もう耐えられない……! そんな思いが限界に達した僕は家を飛び出した。普通にしていたってどうせ怒られるのだ。ならば、家出くらい大きな問題を起こした方がいい。その間だけは僕も親から解放されて心が休まるし、一人で行動することに慣れていけば自らの自立心を育てられる。まさに一石二鳥だ。だけど、夜風が肌に刺さった時少しだけ家を出たことを後悔てしまった。今ならまだバレずに戻れる……そんな甘い考えを吹き飛ばすように無理矢理走った。息が切れても、転んでも、出来るだけ走り続けた。
気づけば幼稚園に来ていた。距離はそんなに遠くないが、五歳にしてはかなり走った方だ。
「幼稚園に来たって何もすることないな……」
当然の事ながら正門は施錠されているため、入ることは出来ない。それに、帰っているとは思うが、万が一先生に見つかってしまえば呆気なく捕まるだろう。これでも己の無力さくらいは分かっているつもりだ。
「こんばんは」
声がして思わず顔を上げる。いつの間にか僕の隣に女の子がいた。同い歳くらいだろうか……。
「幼稚園に入るのでしょう?」
彼女が僕と同種だということは大人びた話し方から分かった。いや、僕よりずっとしっかりしているかもしれない。彼女からは何か異質なものを感じる。
「でも、鍵がかかってるから入れないよ」
施錠されているのは確認済みだ。
「おいで」
微笑を浮かべたかと思うと、彼女は歩き出した。「ま、待ってよ」と慌てて後を追う。
「ここから入れるよ」
裏門の横にある草むら。もしかして、穴を掘ったのだろうか。……でも、何のために? 幼稚園なんて、嫌でも連れていかれるところなのに。
「こっちだよ」
少し遠くなった声にはっとする。見ると、彼女は既に幼稚園に入っていた。草むらに手を入れる。予想通り穴が空いていた。頭をぶつけないよう慎重に身体を潜らせる。幼稚園に入らない方が面倒事を避けられる。そんなことは分かりきっているのに……。何故だろう、彼女についていかなければならないと思ったのだ。
「良い子だね」
満足そうに彼女が言う。なんだか照れくさくて顔を背ける。誰かに褒められることがなかったからだろうか。妙に気恥ずかしい。
「ブランコに座ろう。暗いから気をつけて」
「分かった」
彼女の言ったように、この空間は夜の闇に包まれている。月は大きな雲に隠されていて、当分は明るくならないだろう。……まるで僕の行く末のようだ。
「君、とても賢いんだね」
ブランコに腰掛けたのとほぼ同時くらいに、静かな声で彼女が言った。
「君こそ。……凄く大人びてる」
親より大人びていると感じるのは、僕が親を信仰していないからだろうか。
「私達、似た者同士なんだね」
「…………そんなことないよ」
ずっと心の内にあった本物の言葉をポツリポツリと紡ぎ出す。理由は分からないが、彼女になら話してもいいと思ったのだ。
「親を信仰出来ないんだ。……あ、信仰っていうのは恩返しとか尊敬、好意とかのことなんだけど。本来なら普通に抱けるはずの感情が、僕には欠けているんだ」
嫌われてしまうだろうか。言い終わった時、そんな不安が僕の心をじんわりと蝕んだ。初めて出会ったのに、僕はもう彼女に嫌われることを恐れている。これまでは誰に何と言われても気にならなかったのに。
「身体が冷えてしまうよ」
突然、彼女は羽織っていたカーディガンを僕の肩に掛けてくれた。彼女の体温がまだ残っていて、少し温かい。
「親を信仰できないのなら、私を信仰すればいいよ」
胸が静かに高鳴る。ようやく、ようやく見つけたのだ。自身が信仰し全てを捧げるべき神様を。雲が流れて、顔を出した月明かりに照らされる。彼女の陶器のような肌がより一層際立って見えた。僕の表情を肯定と捉えてくれたらしい。彼女は優しく笑った後、視線を上へ向けた。
「素敵な夜空ね」
「うん…………奇麗だね、本当に」
彼女の横顔が、とは言えなかった。羞恥心のせいではない。あまりの美しさに、それ以上の言葉を紡げなかったのだ――。
目を覚ますと、隣では偽物がだらしなく口元を開けて眠っていた。相変わらず気高さの欠片も無い寝顔だと舌打ちする。
喉が渇いた……水でも飲もう。重たい身体を引き摺るようにしてキッチンへと向かう。偽物を起こしたくないため照明はつけない。それに、暗闇は嫌いじゃない。水道水を汲んで椅子に座る。砂嵐でも見ていようと考えてテレビをつけるが、どうやらまだそんな時間ではないらしい。知らないドラマが映った。
あれからどのくらいの時間が経っただろう。偽物は一向に本来の姿を取り戻さない。どんなに痛めつけても、優しくしても、祈りを捧げても、彼女は応えてはくれない。僕が神様になりきれなかったせいだろうか。それとも、僕の信仰を疑っているのだろうか。理由も分からず右往左往する日々を送っているのに、相変わらず天啓もなければ慈悲もない。もう万策尽きてしまった。僕はこれからどうすればいいのだろうか。何が、できるのだろうか。
「――死んだんですよ」
テレビからそんな声が聞こえた。詳しくは分からないが、泣き叫ぶ女に男が放った言葉のようだ。あらかじめ決められた台詞。僕のために存在する言葉ではない。それなのに、どうにも自分に向けて発せられたメッセージようにしか思えない。
本物の彼女は、
神様は、
死んでいたのだ。
がたがたっと大きな音を立てて椅子から立ち上がる。僕は大きな勘違いをしていたのだ。ずっと、神様が堕落して偽物の中に隠れてしまったのだと思っていた。呼び戻すことに成功すればまた信仰を捧げられるのだと、導いてもらえるのだと……勝手に思い込んでいた。
だけど、違ったんだ。僕が取り戻そうとしていた神様はとっくの昔に死んでいた。たとえ皮膚が爛れるほど焦がれ、臓物を吐き出すほどに渇望していたとしても、神様に再会することは叶わないのだ。
「なら、これからどうすればいいんだ……?」
世界から取り残されたような孤独感に逃れる間もなく吞み込まれる。もう道を示してくれた神様はいない。僕の問いかけに答えてくれる神様は、いない。なら、これから僕は、何に縋って生きていけばいいのだろうか。いや、縋れるものはない。人生の全てだった唯一の神様を失ったのだから。
「――受け入れて、次に進むしかないんです」
哀れな僕のために、神様が祝福、天啓を、授けてくれた。
「どう、して」
神様は死んだ。死んだ者は神であろうが例外なく世界に干渉できないはずだ。なら、この天啓は誰からのもだ。一体――
「新しい……神……?」
他の神の仕業だ。僕を哀れに思い、信者として迎え入れてくれた証としての最初の祝福。でも、どこから見ているんだ? 僕が接触しているのは彼女だけなのに。
違う。
彼女だ。神様が死んで、ただの抜け殻となった彼女に、新しい神が宿ったのだ。
胸が高鳴った。今度こそ、僕は、僕だけの神様を手に入れられる。一刻も早く手に入れなければならない。はやる気持ちを抑えながら地下へと向かう。彼女は眠っているだろうか。いや、神様なら起きている。だって、僕が神様を求めているのだから。
地下室の扉を開ける。ああ、やはり神様がこちらを見ていた。ほら、やっぱり起きている。あまりの嬉しさに駆け寄って両肩に手を添えた。
「あなたが僕の神様ですか?」
頷いてもらえることを求めていた。だが、神様は何も答えてはくれない。それどころか、神様が宿る前の彼女のままだ。……もしや、まだ完全に彼女の身体に馴染めていないのではないだろうか。それか、幼い神様が宿ったのか。どちらにせよ、この器を完成させておく必要があるな。
優しく頭を撫でる。反射で怯える――なんてことはなかった。新しい神様が、彼女に宿っている証拠だ。大丈夫、これならすぐに馴染める。それに、かつて神だった器ならば新しい神様を受け入れることなんて容易い。
「今日から君は、僕だけの神様になるんだよ」
当初は偽物だったこともあり、早く神様を呼び戻そうと少しだけ手荒にしてしまった部分があった。だけど、これからは違う。頭からつま先……なんて表面上のものだけではなく、体液や吐瀉物、排泄物から細胞の一つまで、懇切丁寧に扱うさ。だって彼女は、薄情にも僕を置いて死んだあの神とは違う。僕以外の人間からの信仰を受け入れず、ただただ僕のためだけに存在してくれる神様。正真正銘、僕だけの神様なのだから。
「なぁ、そうだろう? ……君は、僕の神様だ」
彼女は呆けたまま何の反応も見せない。新しい神様はまだ未熟で、それ故に見る者の視細胞が融解するほどに純白で一切の穢れがないのだ。だから、己が神様になるのだという自覚もなければ、僕の問いかけに頷く方法すらも知らない。
僕は「失礼するね」と一言断りを入れた後、優しく頭部に手を添えた。そして、そのままコンクリートに打ち付ける。
「肯定を示す時はね、こうして頷くんだよ」
もう一度打ち付ける。二回では足りないだろうか。念の為、三回打ち付ける。すると、鮮やかな祝福が飛び散った。完璧ではないとはいえ、流石は僕の神様だ。義務を全うしている僕のために慈悲深くも賛辞を送ってくれたのだろう。そう、これは神様から信者に与えられた義務だ。少々手間ではあるが、無垢な神様のためならば喜んで全てを教えるつもりさ。
「任せてよ。僕が必ず、立派な神様にしてあげるからね」
こういう時にも頷いてほしいな。と告げ、もう一度だけ調整を施した。
柔らかな肌を感じながら、外界のことを考える。どれくらいの時間が経ったのだろう。…………いや、そんなことはどうでもいい。僕には神様がいるのだから。神様が僕の頭を撫でる。膝枕をされているからか、手つきがより優しさで満ちている気がする。
神が死んだのだと知ったあの日から、新しい神様の器を調整し続ける日々を送った。そしてようやく完璧な神様へと成長し、僕が全てを捧げるに相応しい存在となったのだ。昨日で最後の調整を終え、今日をもって目的は果たされたのだ。まさに理想の神様。かつての神とは比べ物にならない出来栄えだ。
神様が僕の方へと視線を落とした。瞳には僕の恍惚とした表情が受け入れられている。これこそが神様からの祝福であり、僕が寵愛を受けていることの証明。僕という一人の人間が、神様である彼女に認められたのだ。彼女は僕の、僕だけの神様。その唯一の神様から愛を一身に受けられるなんて……僕は本当に幸せ者だ。仄暗い天井を仰ぐ。気持ちの良い成分が、ゆっくり脳髄へと浸透していく。
「――っは」
突然身体が震え、力が抜ける。気がつけば息を切らしていて、覚えのない疲労が溜まっていた。
「何が、起こった……?」
尿が漏れる――そんな感覚が抗い難い快楽となって押し寄せてきたのだ。例えるなら、極限まで排泄を我慢していたのが解放されたような……。戸惑いを隠しきれていない僕に、神様は唇を重ねた。理解のできない行動に脳が停止しかけたが、幸いにもなんとか現状を把握することができた。今日は神様の誕生を祝うための儀式を行うと決めていたのだ。儀式では互いの唾液を絡め合うことにしようと話したのだ。だけど、僕の口内が乾燥していたせいで上手く唾液を舌で転がせていないらしい。
「んんっ!?」
なんとしても儀式を成功させなければならない。その一心で神様の舌が口内を隅々まで犯し始める。嬉しいことのはずなのに、気づけば彼女の肩を掴んでいた。
「ちょ、ちょっと待って……ぐっ」
線のような体躯からは信じられないほどの力で捻じ伏せられ、僕の抵抗は虚しく散る。儀式への絶対的な執念。それだけが神様を突き動かしている。いや、それでいいのだ。神様は自らのするべきことのみに忠実であり、信者の意見など一々気にする必要はない……。おかしいのは僕の方だ。彼女に全てを捧げる覚悟なんて、とうの昔に出来ていたはずなのに。どうして、どうしてこんな――
「んあっ」
彼女の舌が歯茎をなぞった瞬間、身体が痙攣を起こした。これが、これが、絶頂なのか。生物の交わりと同類の快楽だと、性的な経験をしたことがなくても本能が理解していた。それと同時に、何度も排泄したような快楽が僕を襲う。下半身がぐしゃぐしゃに溶けているような感覚。一体どんな風になっているのだろうかという疑問が脳裏を掠めたが、確認する勇気もなければ余裕もない。こ、このままでは本当に頭がおかしくなってしまう。左右の頬を舐めた後、舌が上顎に当たる。
「あぁあっ!」
刹那――びくんと身体が大きく跳ねた。目の前がチカチカと点滅する。
それは、駄目だ。
震える手で神様の身体を揺する。立場を弁えていない生意気な行動だということは痛いほど分かっていた。だけど、だけど、これはだめ、だめなやつだ。
彼女の舌がゆっくりと上顎をなぞる。
「んっや、やめ……!」
何かが来る。せり上がってくる。嫌だ。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!
「――――――――っぁ」
声にならない悲鳴を上げたと同時に、じんわりと股間が温かくなる。ぼ、僕……漏らしたのか……? 心地の良い感覚が全身を包み込む。このままでもいいかもしれない――そう思うと同時に僕の意識は途絶えた。
《二〇二〇年六月二十七日》
毎週土曜日に行われる祈祷の時間は、社会人になっても変わらず存在した。勿論、祈祷を行うのは神様の部屋。大学生までは実家暮らしだったから、一人暮らしのアパートは少し狭く感じる。だが、新卒の社員にもかかわらずリーダーのように頼りにされている神様のことだ。どんどん昇進して、あっという間に一軒家でも建てるのだろう。……ああ、当然のことだがこの部屋に文句はない。神様がいる空間はたとえゴミ袋の中でも神聖だ。神様の近くで息をする。たったそれだけで、社会に揉まれてぼろ雑巾のようになった精神が浄化される。
「君は敬虔な信者だね」
普段は静寂に包まれているのだが、その日は珍しく神様自らの手によって破られた。願ってもなかった突然の褒め言葉に驚き、思わず顔を上げる。神様は微笑を浮かべていた。
「熱心な信者は数名いるけれど、肌を見せると必ず欲情するの」
「なっ……!」
衝撃だった。神に欲情? そんな無礼なことをする輩が、この世に存在しているのか。いいや、存在していいはずがない。神に性欲を抱くということは自らの手で穢す行為。万死に値するほどの重罪だ。というより、神に欲情なんて出来るのか。立場というか、我々人間とは別の存在で、そんな対象にはなりえないはずだ。異常性癖と片付けてしまいたいが、信者の全員が同じ性癖を持っているとは考えにくい。
……というより、他の信者は神様に対して猿のように醜く発情したのか? 腹の底からマグマのように怒りが沸き上がる。僕の信仰していない神に対して性欲を抱くのはどうだっていい。信じられない話だが、まだゴシップネタとして楽しめる。だけど僕の神様を穢すことは断じて許せない。
誰だ。僕の神様に無礼を働いた人間は。こんな時、他の信者を把握していないことが悔やまれる。同じ会社にいるだろうか。神様に下賤な視線を向けている輩は何人か心当たりがある。手あたり次第問い質すか? いや、それだと神様に対してよくない噂が立ちそうだ。それに神様自身が既に罰を与えている可能性だってある。もしも罰が下されているのなら、僕が出しゃばってはいけない。あくまで一人の信者でしかない僕が神様が下した処分を上回って罰を与えてはならないだろう。
あれやこれやと考えていると、神様がくすりと笑った。
「君は本当に可愛い信者だよ。こうして私が裸体で接していても、一切動じない」
今日は君を試すために服を脱いでみたの。と、まるで人生の種明かしをするかのように神様は言った。
何故これが試練になるのだろう。確かに、人間と姿は同じかもしれない。だが、それは見かけだけだ。人間離れした完璧な容姿。実際に欲情しようとするには神聖なものすぎて、ハードルはかなり高いだろう。それに、こうして神様から“欲情”という言葉を与えられるまで、そんな感情を抱くことさえ考えつかなかった。……他の信者はこの神聖な身体に欲情したのだ。何度考えても理解が出来ない。
「ふふ、面白い顔。だから君は敬虔な信者なのよ」
どうやら神様のお気に召したようだ。理由なんてどうでもいい。神様が喜んでいるのならそれでいいのだ。ただの信者でしかない僕が喜びを与えられること自体、奇跡のようなものだから。
「君は、君だけはずっと、敬虔な信者のままでいてね」
神様からの願いはいつも本当に些細なものだ。僕は毎日救われているのに、神様が望むのは取るに足らないことばかり。
「勿論です」
僕がその言いつけを破ることは天地がひっくり返ったとしてもないだろう。そう断言できるほど、僕は神様を信仰しているのだ。いや、この件に関しては常人であれば誰でも守れることなのだが……。
「約束だよ。でもね、たとえ約束を守らなくても君のことは見放さないよ」
「なぜ、ですか」
試練を乗り越えられなかった他の信者にも、そんな風に赦しを与えたのだろう。行き過ぎた慈悲はかえって神としての体裁を保てないのではないのか。言うまでもなく、神との約束を破るのは重罪だ。適切な罰を下すことだって立派な神の役割なのに……それを偽善的に放棄しているのではないだろうか。
僕の問いかけには答えず、神様は目を細めたままだ。その表情からは一切のエゴを感じない。
……心の狭い僕には到底理解できない境地に神様はいるのだ。
ただの人間が神様のすることについてあれこれ考えるのはやめよう。神様は間違えないし、何があっても僕は神様を信仰し続ける。それだけで十分だ。
◇
寸でのところで届かなかった。神様の決断だからと納得しようとした時間が足を引っ張ったのだ。だって、仕方ないじゃないか。いくら僕が教えたことじゃないとは言え、神様が決めたことをすぐに否定できるわけがない。簡単に否定でき逆らえるとすれば、それは信仰していないのだ。僕は神様を心から信仰していた。だから、すぐに己がとるべき行動を決められなかった。
耳を劈くような破裂音が僕を責めてたてる。それが逃れられない現実であることを、誰かの醜い悲鳴が証明した。
「ああ……あぁあ」
膝から崩れ落ちる。自己嫌悪、絶望、後悔、懺悔……そんな感情が言葉に出来ないほど強烈なものになって渦巻いている。気が狂いそうだ。いや、いっそ狂えたのならどんなに楽だろう。どうして、どうしてだ? たった今神様がいなくなったというのに、どうして僕は正常な感覚を残したままでいるんだ。張り裂けそうな苦痛を全神経で感じているのに、どうして生きていられるんだ。
一度死んだと思っていた神様は生きていた。初めからずっと、変わってなどいなかった。救いようのないほど愚かで間抜けな僕はそれに気づけなかった。しかも、それだけでは飽き足らず敬虔な信者だった自身を見失い、神様への信仰心すらも大きく歪めた。…………約束まで、破ってしまった。ここから飛び降りるべきなのは僕の方だ。なのにどうして、神様が。僕の罪を肩代わりしてくださったのか? いいや、そんなことはこれまで一度だってなかった。なら、どうして__
『――――――――』
ノイズが走り、思わず頭を抑える。
いや、違う。これは……ノイズじゃない。
神様が最期に残した、声だ。
飛び降りる数秒前……僕が手を伸ばすか迷っている時に聞いた言葉。
そうだ。神様は永劫の救済と、真っ赤な祝福を授けてくれた。僕は見捨てられていない。僕は、神様を失っていないのだ。
「信者としての資格を失った僕を、あなたは赦してくれるのですか……?」
頬を緩める。だけど、すぐに口が震えて弱さが露呈した。
神様と過すことが出来たこの部屋。きっと、これからは一人で暮らすことになるのだろう。神様に毎日祈りを捧げて、そこら辺の凡人となんら変わりない生活を送るのだ。親を信仰している彼らはとっくの昔に独り立ちをしている。僕にもその瞬間が訪れた。ただ、それだけのこと。神様は僕に祈りと信仰心しか望まなかった。離れていても十分に出来る造作のないこと。僕が独り立ちした時、簡単に会えなくなっても苦むことがないよう取り計らってくれたのだろう。
だけど僕は違う。
ずっと、願っていたこと。ずっと、口にするまでもなく叶えてくれていたこと。
僕は、
僕はね。
◇
《二〇二二年十月二〇日午前三時十二分》
どうしてこんな私の傍にいてくれるのだろう。
寝息を立てている彼を見下ろす。そう、これまでの位置関係はこんな感じだった。彼はずっと私の後ろを歩いていて、向上を忘れずどこまでも進み続ける私の生き方に惚れていた。単なる恋ではない。だからと言って、薄っぺらい憧れや敬愛でもない。私という存在を盲目的に、宗教的に、己の全てで愛していたのだ。
彼が愛していた私という存在。それを、私が奪ってしまった。
無様。
昨晩、その二文字を体現するかのように取り乱し、全てをやめてしまいたいと彼に縋った。強い私――神を見ていた彼にとって、私が人間に堕落していく様はさぞ見るに堪えなかっただろう。迷いなく私を見つめていた真っ直ぐな瞳が一瞬だけ大きく揺れたのだ。その時の彼の表情が眼球に焼き付いて離れない。
裏切られたような気分だったのだろう。実際、私は嘘を吐いていた。彼の神でいることに悦楽し、自身が信仰するに値する神であるのだと偽り続けていた。その事実を自らの限界と共に明かしたのだ。神だと思っていたものが、ただ神を自称する人間だった。外側がどれだけ強く優れていたとしても、中身がこんなにも空虚で完璧とは程遠い存在では誰も救えない。初めて出会った時から、彼は私に救いを求めていた。それが叶わなくなった今、何故こうして傍にいるのだろうか。
一つだけ言えることは、彼の根本的な信仰は変わっていない。あの瞳は揺れただけだった。理由は分からないけれど、それだけは確かなことだ。
ただ、彼は私の神様になってくれるのだと嘯いた。剥き出しの狂信を一切隠そうとせず。私を貶める意図があったのではない。どうにかして正体不明の気持ちを落ち着かせようと考えた末に、口を衝いて出たようだった。
彼が羨ましい。制約に縛られて苦しみながら生きる私より、制約に縛られていることに喜びさえ感じて神を崇め続ける彼の方が、まさに光の道と形容するに相応しい人生を歩んでいるのだから。
彼は狡い。信者という光に最も近い身分にいながら、私を所有するために神だと詐称する穢れた人間だ。たとえ不可抗力だったとしても、赦せない。憎いの。彼の神なんかやっていなければ、私だって幸せになれていたはずなのに。彼が本当の神になれるのであれば、今からでも幸せになれていたのに。
横になって、彼の背に触れる。健気に救済を求めている彼の背中は私よりずっと広くて逞しい。
「私が幸せを奪ったことに、君はいつ気づくかな」
仕返しだ。私がこのまま縋れば、偽りとはいえ彼も一時的に神としての苦痛を味わえるだろう。その期間、私も信者としての束の間の幸せを味わってやるのだ。
……分かっている。これは単なる八つ当たりに過ぎない。だからすぐに返す。すぐに返すから。少しでいいの、ただの弱い人間になった私の我儘を聞いてよ。神の私と人間の私が葛藤している状況に、もう疲れてしまったの。
「大丈夫。私は君の神様だよ」
逃げたりしない。また、必ず戻るよ。
微睡みの中で、彼と己を怨む。そしてこれから訪れるであろう未来を――自らの決断を憾んだ。
よければ、ブックマークや高評価、レビューや感想をお願いします!とても励みになります。
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《あとがき》
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
本作では、宗教と人間の思い込みが大きなテーマになっています。宗教を題材にしたのは「どんな人が宗教に(過激に)ハマるのだろうか」と考えたことがきっかけです。
その答えとして生まれたのが彼と彼女でした。
あとがきでは、そんな二人についてこだわった表現のポイントを織り交ぜながら浅く、そして深く語りたいと思います。
私の平たいあとがきでは伝えきれない歪さや温かさもあります。むしろ、伝えきれない部分の方が多いと思います。ですから、あくまで物語の全容を軽く把握するような気持ちで参考程度に読んでいただけると幸いです。
物語について。
この物語は、敬虔な信者から穢れてしまった“彼”が再び美しい信仰心を取り戻す話です。彼は神様を信仰することを幸せだと考えているので、幸せを取り戻す話だと言い換えることもできます。ここでいう穢れとは、彼が彼女を人間として愛したことや、神様への信仰心を濁らせたり約束を破ったりしたことを意味します。
メタ的に捉えると、彼は生まれてからずっと自分が心の底から求めている幸せを勘違いして生きています。そのことから、この物語は「勘違いした幸せを失い、その幸せを試行錯誤して本当の幸せに近い形となって取り戻す話」とも言えるのです。
また、物語が進むにつれて彼の潜在的な欲求が、彼女対する愛と混ざって歪に姿を現していく話でもあります。
本当の幸せと勘違いした幸せについて。
彼は賢さが祟って、少なくとも五歳からは両親の愛を十分に受けることが出来ませんでした。異質的に賢いことを自覚している状況で、自分と近しい、それ以上の存在である彼女に出会いました。彼は彼女を神として崇めるよりも潜在的に、親からの愛を、彼女からの愛を求めていました。見捨てられることへの不安や、ぞんざいに扱われても受け入れてしまう危うさは“愛されたい”と願う賢さの裏に隠れていた幼心からです。彼は純粋な信仰心であると思いたいがあまり、気づきませんでしたが。
信仰心が全くなかったと言えば噓になります。彼は純粋な神と信者の関係であろうと神経質なまでに努力していましたから。その証拠に祈りを欠かさなかったことは勿論、彼が神を演じていた時に身体の一部を恥ずかしがっていたり、神を純粋に信仰している時は敬語だったり絶対に“彼女”と呼ばなかったりするところは徹底しています。
本能的な防衛について。
彼女が堕落した時、彼にとって親(信仰対象)は一人の人間となったのです。彼は不安や急激なストレスにより、彼女を所有することが幸せなのだと結論づけます。また、彼はストレスがかかると暴力的な思考をしたり、実際に暴力を振るったりしています。自分がこれ以上深く物事を考えないよう、本能的な防衛がはたらいているのです。
本能的な防衛と言えば、彼が神であろうとしている時は神であった彼女を思い出すことを避けていたり、徹底的に甘やかしています。それは自らが完全な神になろうとしていることは勿論ですが、神を失った悲しさに気づかないようにしていることが潜在的に強く反映されています。
性的な描写がありますが、それはストレスの暴走や本能的な防衛の究極的なバグであり、彼が神であるはずの彼女を心から信仰できていない証拠でもあります。
彼の結末について。
最後、彼は初期の純粋な信仰心を取り戻しました。とはいえ、彼女を一度人間として愛した過程を経ているため質は違いますが。純粋な信仰心の中に、彼女自身に対しての愛が混ざっている……そんな状態でしょうか。また、最後まで潜在的に求めていた親からの愛には気づきませんでしたが、それに近しいものには気づいています。彼の生死については濁したつもりはありません。ですので、あなたが受け取ったままの結末で間違っていないと思います。
彼女の彼に対する態度が矛盾する理由について。
彼のことを人間として愛する自分と、信者として愛する自分がいるからです。また、彼女は神と人間の自分の間で揺れています。威厳のある神になろうと彼に冷たく当たったり、一人の女性として縋ったりするのはそういったことが理由です。
彼が信者でいることを徹底していたように、彼女も神でいることに力を注いでいます。入学式から彼を遠ざけたのは、神としての能力を高めることに注力するためです。
彼女の最期の一言について。
こちらも特に真実を濁すつもりはなく、分かりやすく書いております。最期に残した言葉だと気づかずとも、その言葉が重要なものだということは伝わっているはずです。それが彼女の意志であり、葛藤の答えです。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
あとがきを書いてみて改めて思いましたが、やっぱり薄い解説となってしまいました。この作品の熱量は、情感は本文から受け取れるものが全てです。あとがきについては物語を補佐する情報程度に受け止めてもらえると幸いです。