波乱の出発前日
それからの一週間は持ち物やドレスの準備、ゾルダーク国の礼儀作法の確認、気をつけるべき貴族や他国の王家についての学習など、元王女であるランディエルの力を存分に借りて進めていった。
そんな慌ただしい日々が瞬く間に過ぎ去り、気が付けばもうゾルダークへ出発する前日となっていた。今日はゆっくりできる最後の一日かしらなどと考えながら、ミューはまだ暑さの残る夕食後の時間に、自室のバルコニーに出て夏の雰囲気を楽しんでいた。
コンコンコン、とノックの音が聞こえる。はい、ただいまと声を掛けゆっくりとドアを開けると、アレイディアがそこにいた。
この一週間でだいぶお互いの存在や呼び方に慣れて、アレイディアだけでなく優しいコーラル家の全員とすっかり仲良く過ごせるようになった。アレイディアも以前の硬い感じが少し和らぎ、今も穏やかな笑顔でグラスを持って部屋に現れた。
「お義兄様、どうされたの、こんな時間に?」
「ああ、いよいよ明日出発だからね。その前に一杯ご馳走しようと思って。入ってもいい?」
「まあ、ありがとう!何か特別な一杯なのかしら?」
ミューはアレイディアの右手にあったグラスをそっと受け取る。部屋の光にかざすと、薔薇を溶かし込んだような美しい赤がグラスの中で揺れている。
「これは我が家で大事な仕事をする前に必ず飲む果実酒なんだ。うちの領地の、小さいけれど素晴らしい土地で採れたもので作っていて、これは何年か寝かしてあったものだよ。とても美味しいんだ。」
眩しいものを見るかのように目を細めてアレイディアが自分のグラスを見つめている。大切にしているのだなとミューにもその心が伝わる。じんわりと心が温かくなっていく。
「大切なものをありがとう、お義兄様の大切なものを私も大切に想うわ。」
アレイディアはゆっくり瞬きをする。
「ああ、ありがとう、ミュー。」
アレイディアの言葉にグラスに触れたミューの唇が動きを止めた。
「お義兄様、その呼び方は」
「これが君の名前なのか?」
アレイディアが近くのテーブルに自分のグラスをそっと置いた。
「お義兄様?」
「アレイディアだ、ミュー。」
ミューはグラスを握りしめて後ろに退がる。アレイディアが一歩近づく。
「なぜそう思うのです?」
「そう呼ばれるのを嫌がったから。」
もう一歩近づく。
「だとしてもやめてくださいとお願いを」
「ミュー。」
アレイディアがグラスを握りしめるミューの手を握りしめた。手の熱さにミューの心が震える。
「何を・・・」
「ここからの二週間、俺は君を全力で守る。もちろん任務優先だが、あいつとの約束だからじゃない。俺の意志で君を守ると知っていてくれ。」
アレイディアの褐色の瞳が求めているものを、ミューは全力で知らなかったことにするしかない。
「私には何もわからないわ、お義兄様。酔っているのね、もう休んで。」
目を背ける。少しの間があって、すっと手が離れた。
「酔ってる。でもこれが始まりだから。覚悟しておいて。」
アレイディアはそう言い残して静かに部屋を去っていった。
残された二つのグラスを前に、ミューは暫くの間、ただそこに立っていることしかできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
バタン、とミューの部屋のドアを後ろ手に閉める。アレイディアはその場で静かに深呼吸を繰り返した。
彼女は動揺していた。いや、動揺させた。やはりミューというのが彼女の名前なのか?どちらにしろもう俺は仕掛けてしまった。普段純朴な青年、熱い正義感を持つ青年としての姿を公のものとしているが、本来の俺は違う。そうでなければこの仕事は務まらないし、人を思うように絡め取って動かすのも任務には欠かせないスキルだ。
(彼女を、ミューを?)
自分の罠の中に、手の内に絡め取ってしまいたいという欲望が、もう限界を超えつつある。出会いの日からこの一週間で、もう手放せない人になっている。
(あの銀髪の美形が問題だが)
自分の部屋に戻りながら戦略を立てる。任務も彼女も手を抜かない。俺の大切なものを大切と思ってくれる彼女だからこそ、どうしても欲しい。
アレイディアはわざと置いてきたあのグラスを思い出しながら、部屋に戻った。