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辻堂家三代の罪、千代の恵

憐みのゆくえ3 時の迷宮の旅人たち

掲載日:2019/01/31

 タオ、そこは平和を好む魚たちの楽園。今では少しばかり有名なダイビングポイントがある。

 この話は、この辺りで人民軍や海のギャング達が非合法な活動をする姿が、未だなかったころのこと。


 このころ、帝国の戦争は敗色濃く、大平洋・インド洋・大陸の各戦線では、血の海が次々と生み出された。その地獄から逃れるように、日本陸軍の百式戦略偵察機が払暁の海面を飛ぶ。そして、力の尽きた百式は、タオの海に不時着した。


「早く降りろ」

 徐々に機体は沈み始める。コックピットの中には脳震盪を起こしたらしい辻堂泰造。後部座席から飛び出した山形勇助は泰造を引き出すと、そのまま機体を棄てて蒼い海面へ飛び込んた。軽くなった機体はそれ以上沈まない。二人は、しばらくの間浮かび続ける翼に掴まって浮かびつづけた。


 白みかけた陸の方から、朝の漁の時間なのだろうか、漁師達の小舟が近づく。助けにきてくれたのだろう。二人は、今まで浮かんでくれていた機体に別れを告げた。


 彼らが離れた時、見計らったかのように百式は静かに海面の下へゆっくりと沈む。

「あっ、俺の千人針!」

 泰造の愕然とした表情。どうすることもできないまま、石板を中に納めていた布は機体とともに海の深い蒼へ、姿を消した。

_____________________________


 あれから、もうすでに四十余年。時はたってもタオの海は平和なままだ。このあたりは、有名なダイビングポイント。

 そこから少しばかり離れた一角に、蒼く深く眠っているような静かな岩場があった。その一つの岩陰は、あの百式の残骸が眠る場所。


 そこへめがけてスキューバダイビングをする若い二人組の男女。女と思しき方が、海底の岩陰を指して手招きする。その後を、都市したらしい男がぎこちなく続いた。


 海底の朽ち果てた機体。その片隅に小さな石板が鈍く光る。二人が近づくと、それには「祐子、武史」の名前が刻んであった。女はこれだこれだと騒ぐかのようなジェスチャー。それに応じて、男が小さな石板を手にして頷く。


 石版を持った二人は、二人で手をつなぎながら再び浮上する。海面に顔を出した二人は笑顔で向かい合った。

「これで辻堂泰造さんも、私達を信じるでしょうよ」

 女はそういうと、二人はボートの上に上がった。

_____________________________


 彼らがこの場所で潜ることになる一連の出来事の前、彼らは無人の教会堂に入り込んだはずだった。


 その教会堂は、浦和の市街地から離れた雑木林をさらに分け入った地域にあった。すっかり古びて蔦が覆い尽くした観音開きのドア。その様子からすると、もう数年以上は使われていない。

 そこへ向かうには、かつては道であったことをうかがわせる古い轍と、夏草に隠れた舗装を辿るしかなかった。周りの敷地には廃屋が並ぶ。この頃、すでに、不便なこの辺りの地域は住む人もいなかった。


 暑い日差しの下、その廃道を進みゆく夏の制服姿の男女。彼らは権淑香と大石雄二である。

やがて、二人は廃墟となった教会堂後の入り口に至った。すぐに、ドアを開けて入り込むはずが……二人は議論を始める。

 既に入り口の前なのに、二人は内部に進み入ることを忘れたかのよう。


「あなたもためらいがあるのね?」

 淑香は雄二に決断を迫るように問う。淑香の制服は汗をかいているためか、透明に見えた。いや、今は別の衣を着ているように見える。まるで羽衣のような………。


 雄二は確かにためらいがちな答え。

「そんなことはないけど………」

「貴方も戻っていいわ」

「いや、君が求めるなら」

「貴方は不純だわ。私が引き換えに貴方に何かをしてあげられる女に見えるのかしら?」

「いや、単純だよ。君が求めるからだよ」

「そうなの?」


 淑香は雄二の服を正面から掴んだ。雄二は、サラサラと流れるようにばらける淑香の黒髪と、透明に見える衣に見とれる。脳裏に浮かぶのは、『この少女は無防備なんだか、気にしないんだか』という、およそ会話とは無関係で不謹慎な感想。


「貴方は、他に何を私に求めるの? わかりにくいわ。 うーん、人間て、なんてもどかしいのかしら。人間はわざわざ回りくどい複雑な考え方をして、下手な方向へいこうとするのね」

「ずいぶん難しい言い方をするね......たしかに、人間は時として下手な方向へ行くことはある。『下手な考え休むに似たり』ともいうからね。でも、その方法論は、様々な知識や考え方を先祖から積み重ねてきた結果だよ。それは、最適だと考えられる道を選びたいと、人間が常に考えていることの表れだぜ」

「私も、人間の世界に寄り添って働いてきたけど、ものごとは大抵単純よ。演繹的に言えば、全てのなすべきことは啓典の主からの愛から始まるの。人間は啓典の主から愛を注がれているのだから、互いに愛を他へ注げば良いだけよ」


 雄二から見れば、愛がそのように注がれているなら、話は単純であるとは理解できる。しかし......

「僕は、愛を注がれているなんて感じないぞ」

「なるほどね。人間には愛がどこから来るかを見ることができないから、そう言うのね。それならば、人間にとってわかりやすく言えば、やってもらいたいことをやってあげろ、ということになるわね」


 こういわれて、雄二は黙る。彼が今までやってきたこと、今からやろうとしていること、それらが頭の中でグルグル回り始めた。彼にとって理解できることは、ただ一つ。目の前に淑香がいることだけ。


「貴方は、素直に行動しようとしていないわ。その戒めとして、今からしばらく貴方は私から心が離れなくなるわ」

「僕は、初めからそうなっているよ」

「えっ?」


 一瞬の驚愕。しかし、淑香は気を取り直して言い直す。

「つまり、貴方の身も心も、よ。」

「僕には願ったり叶ったり、だなあ。」


 淑香は、この少年の言葉に戸惑った。確かに先程から雄二は惚けたまま。彼は、今まで見てきた人間では経験したことのないほどに、阿呆に見える。


 淑香は、気を取り直し、蔦をかき分けて扉を開ける。彼女が、雄二を中へ案内し、扉が閉まると蔦は再び絡み合い、扉はまた閉ざされた。

 二人は廃墟の中を奥へ。左手にある鐘楼の窓から光が差し込む。淑香は螺旋階段を登り始めた。

「手摺には触らないほうがいいわよ。」


 淑香の後をついて、雄二も登っていく。途中で、先ほど光が差し込んだ光窓にたどり着いた。そこから外を見ると、周囲に広がる畑と雑木林。其処彼処に菜の花が咲き乱れる。この辺りにそんな風景があったのだろうか。

 淑香はまだ階段を上っていく。まるで悪夢に出てくるラビリンスに迷い込んだよう。いつのまにか、階段はトンネルを抜けて土手へ上がる道となった。ここで淑香を見失えば戻ってこられなくなる、そのように虫が知らせる。


「父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」

 雄二の脳裏にはっきりと浮かんだ言葉。虫の知らせでは、二人の目的は、これから行くところで、辻堂泰造という男に、罪を犯した事実を深く心に刻ませることだという。

 その男の心に、咎をどれほど深く自覚させることができるか。その出来によって、彼の罪を当代に留まらせることができるかどうか、三代、四代まで影響を及ぼして問われ続けることになるかどうか、それらが決まるという。


 しかしながら、雄二はそんな心象も忘れ、淑香に追いつくために懸命に土手の道を上る。やっと上がり切ると、体に感じたのは冷えて湿った風。眼下には、朝霧の中に瓦屋根の木造の家並みが見えた。

 雄二が住んでいる大宮駅の東側もごちゃごちゃしているが、ここの街並みはさらに複雑で迷路のようにみえる。細い道が入り組み、どこも袋小路や路地裏ばかり。

 一応、日本のどこかだと思えたのは、漢字や日本語のひらがなの看板があったから。ただし、それらは、違和感のあるものばかり。「屋炭(やみす)」「川深(はがかふ」「屋麦蕎(やばそ)」や「屋木栃(やぎちと)」など、まるで中国語の古い看板を見ているような感覚だった。


 淑香は道順をよく知っているのだろうか、どんどん進んでいく。その後を、雄二も懸命に追う。しばらく街中をすすむと、淑香はある家の前でとどまった。


「ここに入ってみましょう。」

「ここって、何処?。」

「深川よ」


 雄二は、ここが数十年も昔の昭和十九年四月の下町であると悟った。

「ここは、昔なのか?」

「そういうことになるわ。正確には過去の記憶。歴史の記憶。歴史の中、昔にあった記憶とでも言おうかしら。だから、記憶をいじる、いや、現実には歴史を強調して記憶させることになるのよ」

「誰の?」

「辻堂夫妻の夫の方よ」

「えっ。とすると、辻堂詩音さんのお父さん?」

「母方のおじいさんね。それから、精確にいうと、辻堂詩音さんのお父さんを知る人は、いないわね」

「田山宏さんとか?」

「彼は戸籍上の父だけど血が繋がっていない。彼は、彼女が母親から虐待を受けた中学生の時に、身元引き受け人になった他人よ」

「えっ? だから、普通の父親より若いのか?」

「でも、今そのことは関係ないわ。繰り返すけど、過去に介入するのだから、慎重に。これからやることは、辻堂泰造さんの過去の中でこだわりのあることを探し当てること、それをきっかけにして彼に罪を自覚させるのよ。それが許しを宣することにつながるのよ。うまくやりましょうね」


 雄二はわけがわからないという顔をする。彼はしばらく考えてから、淑香の肩を叩く。

「ねえ、こだわりのあること、罪を自覚させることって何なの? 俺は何も言われていないよ」

「私は貴方に伝えたのに!?」

「いつ?」

「ここへ来る途中で心に浮かんだはずよ。罪の自覚というのが、咎となった事実を心に深く刻み祈り続けることだって......私についてこられなければ帰れなくなることも、ね」


 淑香は少し怖い顔をする。彼女の顔を見つめながら、首をかしげる雄二。

「虫の知らせ?」

「そうともいうわね」

「言葉で語ってくれないかなぁ?」

「言葉では伝えられないから、初めから心象で伝えたのに…」

「せめて、『言葉だけでは伝えきれないから』といってほしいな。言葉を使いきれないのかな?」


 雄二は何も考えずに、心に浮かんだ言葉をそのまま口にする。途端に、淑香は雄二を睨む。

「貴方、私のことをバカにしているの?」

「いやいや、そ、そんなことはないです。可愛いですよ」


 雄二の答えはフォローになってはいない。本人は、決して淑香を馬鹿にしているつもりはない。だが、同時に『目の前の女子高生はあまり賢くないのだな』と勝手な思い込みによる同情を寄せた。淑香もまた、そんな雄二の心の中の言葉を知ると、『浅はかな思いを持つ男だ』と考えるのだった。


 さて、路地裏の一軒の中を、二人は恐る恐る覗き込んだ。そこは「辻堂」という表札が掲げられた家。どうやら辻堂夫妻の家らしい。

 この日、辻堂家は、山形勇助という客を送り出すところだった。


「勇助。貴様も俺も落第生だったから、行くところがないといわれていたっけな。でも、良かったよ。お前も再び将校になれて、もう来月にはプノンペン、そしてミャンマーだな。」

「そうだな。そういえば、泰造、お前の泰造という名前は、ミャンマーの隣国タイの国家を造りあげるという意味にちなんだのか」

「今となってはそう言えるのかもしれないな」

「俺たちは、三中まではそのあと同じ師範学校に行くはずだったな。教育を志したのだが、まさか同じ船で前線に行かされるとはな」

「うむ」

「泰造、お前は戦闘機乗りから再教育されたんだろ? これからは偵察機付きの通信将校、兼整備担当将校だな?」

「そうだ。以前は修武台というところにいたんだ。俺はエンジン分解も含めて機械整備が得意なんだが、第五司令部じゃあろくにせいびできる奴がいないらしくて、俺はそこへ行かされるんだとさ。それも司令部付の偵察機の整備と通信を担当するらしいぜ。飛行機といったって、。もう乗れる戦闘機はおろか、練習機も無くなったと言うから、俺の後輩達も大変な思いをしているらしい」

「俺たちは、第一線に出てこその士官学校卒だからな。その中でも、やっぱり貴様は優秀なんだな」

「いや、俺は五十七期の落第生だったぜ。他の同期たちは先に散っていった。俺は置いてきぼりにされ、今でもトイレ掃除さえもまともにできない」

「ははは、俺もそうさ」

「ははは、では、いくか」

 そう語り交わしながら、三人が玄関の引き戸から出て来た。


 辻堂という若者の傍らには妊婦らしき若い妻が立つ。しかし、それはどうみても辻堂夫妻の今の妻ではなく、別の若い女、祐子だった。

「泰造さん、千人針をお持ちになって。この石板は、私とこの子の名前を書いて祈りを込めたものよ。この石板をこの中に縫いこんでおきますね」


「勇助、貴様の千人針はどうした?」

「俺はもうここに巻いてあるのさ」

 勇助はおどけるように自分の腹と胸を指差している。それをみて、祐子は気を引き締めるように静かに言葉を引き取った。

「私はここでお待ちするのね。銃後の守りはお任せくださいね」

 こうして、彼らはそれぞれ行く者、残る者がそれぞれの道へと別れ行くのだった。


 そんな旅立ちと別れの風景を、淑香と雄二は二階の屋根の上から覗きながら、顔を見合わせる。

「泰造さんのこだわりのあるものは、わかったわね。」

_____________________________


 淑香と雄二は再び、不思議なトンネルに戻る。長く歩み続けた末に、二人は硝煙と熱い空気を感じ始めた。


「俺たちは元のところへ戻ってきたのかな。蒸し暑いよね」

「暑さというより、湿度のために表皮から水分が蒸散しないのね。水分がただダラダラ流れるだけで、体温を低下させられないのね」


 しばらくゆくと、次第に雨音が強く響く。雷雨なのだろうか。気付くと二人は、どこかの建物の地下通路にいた。二人は手探りで薄暗がりの中を進むのだが、まだ外は見えない。さらに進むと目の前は上へ続く梯子。雄二は淑香に遅れないようにと、急いで登る。

 ところが、上にはなぜか留まっている淑香がいた。雄二は思わず淑香の臀部を右手で押す。淑香は悲鳴をあげた。

「貴方、何をしたの?。」

「ごめん、おしりが頭の上にあったから、ちょっと手で押してあげたんだよ」

「そんなことではなくて、…その…打撃ではないけれど、衝撃を与えないで!」

「衝撃? ただ触っただけだよ。下から見ても黒髪が綺麗だから、そればかり考えていて、思わず君を支えてあげようかなと思って………」

「そんなことを考えて私のお尻に触れるから、このわけのわからない器官が過剰に応答するのよ」

「僕がエッチだっていうのかよ」

「なによ、それ」

「え、しらないの?」

「もうそんなことはいいわよ......貴方が一緒でなければ、こんな水の袋のような身体組織を使って移動なんてしないのに」


 人間的な悪態をつく淑香をおいて、雄二が先へ。そして、彼は淑香がとどまっていた理由を悟る。そこにあったのは、蓋のように出口を塞ぐ分厚い板だった。

 厚い板を外すと、そこはガランとした空間。同時に、外の雨音が聞こえる。雨の響き方から察するに、彼らが顔を出したのは、無人の大きな伽藍だった。


「なんだ、簡単に開けられたじゃないか」

「うるさいわね」

「へえ、ガランとした奥内空間かな?」

「ここはミャンマーのセントメアリー寺院のカテドラルね。今は、もうミサが終わっているから、誰もいないはずよ。でも、もうすぐ勇助と若いミャンマーの娘が来るわ」


 淑香は、ここで先日彼らが観察した山形勇助と、ミャンマーの娘を迎えるらしい。

「その二人に、何をするつもりだよ」

「そうね。此処で、私は、若い二人それぞれに、啓典の主からの預言と祝福を伝えるのよ」

「じゃあ、俺はどうすればいいんだよ」


 淑香は、しばらく黙り込む。雄二から見ると、彼女が上を向いたままで目をつぶった姿は、不思議な光景だった。誰かに何かを言われているのか。それとも何かを調べているのか。

 突然、淑香は目覚めたように雄二を見る。その後は、黙ったまま雄二のつま先から頭まで、品定めするように視線を動かした。


「貴方は、ここで小間使いをしてくれるかしら?」

「なんだ、その小間使いって?」

「そうねえ、いわば、学校の用務員さんね」

「え? 高校生の俺がそんなことをするの?」

「いいじゃない。若くって働き者の用務員さん。私の理想だわ」

「何言っているんだよ。俺は一生懸命に勉強している高校生だよ」

「でも、確か、英語はいつも五点か六点の赤点だったでしょ…赤点の追試も赤点で、単語1つにつき百回書く宿題で勘弁してもらって…ところがそれも全部スペルが間違っていて…」

「う、うるさい......誰からそんなことを聞いたんだよ」

「さあね。あ、二人が来たわよ、さあ、案内して差し上げて!」

「ちぇ、覚えていろよ」

 雄二はしぶしぶ、入り口へ向かった。


 雨がようやく止む。すこしたった頃にやってきたのは、淑香の言う通り、ルインというミャンマーの娘と、先日雄二が観察した山形勇助。二人は神妙な顔をして雄二を伺い見、自己紹介をした。

「コーユースケユースケ。」

「マールインルイン。」


 雄二が二人を礼拝堂の中へと案内する。すると、告解室近くに来て、ルインが急に勇助に向き直った。

「急なことですけど、私、今日此処で告解しなければならないことを思い出しました」

 雄二も驚いたが、これは淑香が何かをしたのだろうと察した。他方、勇助は突然のことに戸惑いを隠さない。

「私は待っているよ……でも、得難い機会のようだから、私も告解をしようかな……」

 勇助もまた、淑香から何かをされたのかもしれない。雄二は、そう考えた。


 雄二は、まずルインを告解室へ案内する。向かい合わせに座ったルインに淑香が告げたことは、未来の幸せな結婚とその相手。突然のことにルインは驚き顔を紅潮させて、告解室から出てきた。


 雄二はその様子を確認すると、今度は勇助を告解室へ案内する。緊張しつつ神妙な顔をして淑香の前に座った勇助。少しの間をおいて淑香が口にしたのは、勇助に対する厳かな預言だった。


「私はマザー権淑香です。勇助さんというのかしら。お二人とも、よくいらっしゃいましたね......では、お話すべきことがありますので、よく聞きなさい......貴方とルインは結婚することになるでしょう」

 勇助の驚きの声。それは、離れたところにいる雄二にも聞こえる。彼の脳裏にも、なぜか淑香の声が響いた。


「ルインは、啓典の主に深く愛された娘です。それ故に、彼女には短いが非常に濃く祝福された時が与えられるでしょう。即ち、彼女は貴方を深く愛し、貴方との間に子供を得ます。女は、子を与えられて大いに祝福を得るからです。貴方もまた、彼女と子を深く愛するでしょう。

 ここで、忘れてはならないことを告げます......貴方を含む日本人は、この惑星規模の大戦を引き起こしました。このミャンマーの地ばかりでなく、各地で罪を犯し、それによって今も自らの同胞を含む多数の人間を犠牲にしつづけています。今後、その罪は、子孫の三代、四代までも問われるでしょう。

 ただし、貴方にはこのようにして啓典の主が愛する娘が与えられます。それは、貴方もまた啓典の主に覚えられているからであり、啓典の主が愛した彼女が貴方の代わりに犠牲となるためです。貴方は彼女の命を犠牲にして子供を得ます。彼女の記憶と手許に与えられた子供は、いわばあなたが行った罪の記憶になるでしょう。

 その子供は、貴方の咎を思い出させるように、貴方の傍らで啓典の主の前にすくすく成長します。そして、いつしか、啓典の言葉を絶えず口にするよう育つでしょう。それもまた、貴方に絶えず貴方の咎を思い出させるためです。

 このようにして、貴方は絶えず心にあなたの罪を心に刻み続けるでしょう。ただし、もし、これらの言葉を軽んじれば、貴方ばかりでなくあなたの子もあなたの孫も、他の日本人たちと同様に、貴方の罪を問われ続けることになります」


 淑香の言葉が終わる。告解室から、勇助が目を虚ろにさせて出てきた。彼が自分を取り戻したのは、彼の目の前に待っていたルインに気づいた時だった。その途端、彼は顔を紅潮させた。

 

 二人は恥ずかしそうに時々互いを見つめつつ、雨上がりの夜の帳へ消えていく。その姿を見送ると、雄二は眠気を覚えて寝込んでしまった。

 

 いつの間にか、雄二は淑香に引っ張られるようにして地下の道を歩いていた。

「さあ、次のところへ行くわよ。」

___________________


 サイゴンは、ヤンゴンやプノンペンに比較して過ごしやすい。未だ三月になったばかりで雨季になっていないはずだった。やや暑さは緩むものの、やはりときおりのスコールは来る。


 このごろ、辻堂泰造は味方の高級士官たちの輸送任務で多忙を極めた。そのせいか、毎夜疲れ切ったままで床に就く。彼は、疲れのせいか、このごろ毎晩、ある夢を繰り返し見る。今夜も、サイゴンの航空基地から無言のまま帰り、そんな予感を持ったまま床に就いた。

 外はスコールなのだろう、子守歌のように大きな雨音が響く。泰造は、疲れ切ったため彼はたちまち深い眠りへと沈んでいった。


 幻聴のような声が聞こえる。毎夜彼に語り掛け悩ます声。それは、十七歳ほどの若い男、つまり雄二の声だった。雄二は、泰造の夢の中に入り込んで、過去に彼が関わった捕虜の英国人将校を演じる。栄養失調の捕虜がか細い声で必死で頼み込むかつての姿が、泰造の脳裏にはっきり映し出された。


「マニラに送致しないでくれ。ここで、一生懸命働くから」

 幻の中で泰造は、短く一言だけ発する。答えではなく淡々とした命令。

「さっさと、輸送機へ搭乗しろ」


「許してくれ」

「許す? なんだそれは?」

 英国人将校は訴えた。

「今、マニラに行けば、船で送られることになる。それでは私の命がなくなると分かっているんだ」

「…」

「お願いだ、頼む」

「…」

「私は…見殺しにされる」


 ようやく泰造は口を聞いた。

「ならば死ね! 俺はそんなことに関知しない」

 幻聴の中の泰造はそう切り捨てる。泰造は自分のその言葉に驚いて目覚めた。いつもと同じだった。


 泰造は寝台から起き上がる。水を飲むためだ。ヤカンのある食堂へ、豆電球のついた細い廊下を歩いて行った。窓の外はまだ雨が降っている。

 泰造は窓際の椅子で座り込んだ。起きていても、考えるのは今夜のあの悪夢。このまま寝ればままた始まってしまう。昨夜もあった。その前も......。この半年もの間、毎晩繰り返されてきた。


 フッとため息をついたとき、泰造はまだ悪夢の中にいることに気づくいた。雨音にまぎれて、夢とは別の若い男の声が聞こえる。この部屋には誰もいないはずなのに……。


「彼は昨年の九月十日に能登丸で亡くなったぞ」

 泰造は思わず反論した。

「俺にそんなことがわかるか。俺はただ彼らをマニラに送っただけだ」


 締めきっているはずの窓の外から若い女、淑香が室内に入り込む。彼女は白い羽衣のような布を翻して泰造の近くへ降り立った。

「そうかしら。ならばあの時、何故送致を遅らせなかったの?」

「上からの命令だ。そんなことはできなかったさ」

「上からの命令はそうね。でも、工夫できなかったのかしら? 護送の時期を遅らせることもできたのではないの?」

「上からの命令に、いちいち考えて行動しろというのかよ」

「一考の価値はあったはず......啓典の主からの風を感じないの?......それをないがしろにしたの? 彼はシリアの残された民だったのよ」

 淑香の低い声に、泰造は一瞬息をのむ。


「え? だが、そんなことはわからなかった」

「そうね、気づきが与えられているのに、気付くべきことに気付かなかった、というべきね。与えられた良心をないがしろにしたからよ......本来なら、あなたに任せられた仕事なら、その権限内で遅らせることもできたはずね」

「そんなことに、気付けというのか? 冗談じゃないよ!」

 泰造の声に怒りが混じる。淑香は淡々と続けた。

「そうあるべきね.......あなた方は愛すなわち慈悲を忘れてしまったのかしら? 愛を注がれていないのかしら? いや、私を遣わした方は、あなた方に確かに愛を注ぎ、赦しを与え、復活の命までも約束した。すでに慈愛の秩序はあなた方のところに来ていたはず。それなのに、これは何事でしょうか。愛を、福音を分かち合う神を知らないという人間たちは、今のように野獣よりも恐ろしい者になるのよ。このままでは、貴方は数えられていないその他の人間に成り下がってしまう。むしろ、あなた方は神を知っている者のはずではないの?」


 泰造はかろうじて聞いた話を理解した。だが、無理難題、難癖をつけられているという戸惑いと怒りは消えない。

「だがな、おねえちゃんよ! 今日本は戦争をしているのだぞ。俺だけがやっているわけではないのに、俺だけが責められるのか」

「『おねえちゃん』? その言い方は良くないのだけど......とにかく、救われるはずの貴方だから、問われているのよ。この戦争で、指導者と彼らに雷同した帝国民は全て罪を犯した。このことにより、貴方達を含む帝国民全体の一人一人の罪が子孫に三代四代まで問われる。それは、今後も帝国民すべてを奴隷に陥らせる罠となり呪いとなるわ」


 低いままの淑香の声。泰造は及び腰になってつまづき、食卓をひっくり返す。

「俺は……何もしていない。ただ、護送しただけだ」

「何故に? 誰の名によって? 何のために?」

「知らないよ! 俺はそんなことは知らない」

「そう、そう言って意識を有しているはずの貴方や知識ある者たちは、皆、見ていながら悟ろうはしなかった。そして、多くの帝国民も雷同した。それによってこの戦争が始められた。それらのことは、今までもこれからも帝国民全体を奴隷に陥らせる罠となり呪いとなるのよ」


 泰造は、淑香を見つめる。

「そうなのか......でも、なぜわざわざ俺のところへ?」

「あなた方だけは恵みを得ているからよ。それゆえ、あなた方は、三代四代まで罪を問われることはないはずなのよ」


 泰造がホッとした顔を見せる。だが淑香は険しい顔で続ける。

「ただし、貴方にはここで言っておくわ。貴方は彼を拒んだわね。だから、貴方の孫の代に、啓典の主は貴方を拒む。それでもあなたは啓典の主を恋焦がれ続け、あなたは無力感を覚えることになる」

「俺の孫の代に? 武史の子供ということか? それが俺のせいなのか?」


 一瞬、淑香は黙る。それは、泰造の脳裏に浮かんだ妻子の姿に気づいたからだった。それは、空襲の下で無抵抗な姿で焼け死んだ深川区の母子だった。


 淑香は少しばかり瞑目し、再び目を開く。

「貴方の孫の代には、必ず速やかな助け手が用意されるわ。それは、貴方の友人、山形勇助の子供とその仲間たちね。貴方の孫は、彼らの助けに拠って試練を乗り越えて希望へと至るはずよ」

「山形勇助、彼の子供......そういえば、身重のルインはサイゴンの海軍病院に移送された。勇助はヤンゴンに戻されることになっている」

「ヤンゴンに戻される?」


 淑香は泰造を睨んだ。泰造は心に浮かんだ不安を口にする。

「勇助に何かが起きるというのか?」

「今はまだね。しかし、貴方は知っているはずよね、彼が戻されるミャンマー戦線が危ないことを。それでも山形を送っていくのかしら?」


 そう言って淑香は、勇助を置いて窓から外へ消えていった。

「俺は……俺はどうすればいいんだ?」

 泰造はその自分の言葉でまた目覚めた。夢だった。



 その日の朝も、泰造はいつもどおりサイゴン基地の整備所へ出た。彼を待っているのは、百式の手入れ。一回の飛行ごとにエンジンや過給器、通信機など全ての付属機器を分解して整備する。整備後に控えているのは、その日の夕刻に実施する基地上空や周辺を哨戒飛行。


 その夕方の哨戒飛行の際のこと、百式の通信機が微かな反応を示した。それは、泰造の組み込んだ受信機で、その受信感度は増幅回路によって三十倍。そこへ普段の通信とは異なる暗号通信が入る。

 聞こえてきた通信は、普段日本陸軍が使う規定とは異なったもの。馴染みのない軍人なら連合国の通信と思ったかもしれない。しかし、それはかつての南機関が作ったミャンマー式通信コード。知らぬ者には暗号であっても、馴染みのある泰造は反射的にコウンの通信だと悟る。それは、この日ミャンマーへ山形勇助を派遣することに反対するコウンの個人的な通信だった。


「今、ミャンマーは、国中全てが日本軍を敵としようとしている。なぜ今になって勇助を送ってくるのか。」

 通信はミャンマー国内の不穏な空気を知らせる。


 司令部の上官は、継父の信造。勇助をミャンマーへ派遣する人事を決めたのは彼である。

(彼を何とか説得しなければ)

 それ以外に、この事態に対処する方法はなかった。


「父上、その段になっての再度のお願いです。撤退しつつある今になって勇助だけがミャンマーへ行かされるのは、取りやめできませんか」

「彼は優秀な陸軍情報将校だ。友軍の撤退のために働き、必ずお国のために死ねるだろう」

「しかし、なぜ彼だけを………」

「貴様、上官、いや、父に向かって意見するのか」

「彼は生きていてこそ役に立ちます。どうか………」

「生きて役に立つ?。あいつはミャンマーの小娘に心を許していたじゃないか。あういう衒いはせいぜい死なせて役に立たせるしかない」

 泰造は、行き詰まりを感じる。これ以上の議論によって、今密かにサイゴンに潜ませている勇助の身重の妻を目立たせてはならなかった。


 その夜のうちに、泰造は勇助を海軍病院の補助施設にいるルインの元へ連れて行く。ルインはもう直ぐ臨月であった。

「ユースケ、お腹の赤ちゃんが今日もお腹を蹴ったのよ」

「男の子かな、元気がいいな」

「男の子?。それなら、名前は汰欣(タゴン)ね」

「もう名前を考えたのか?」

「私も男の子のような気がしたのよ。だから、男の子の名前だけ考えていたの」

「そうかあ、これで安心だな」


 勇助は、自らに言い聞かせるように低い声でゆっくりと話しを終える。少しばかりの沈黙の後、彼はためらいつつも意を決したように早口で語った。

「ルイン、俺はミャンマーへ戻ることになった。」


 ルインは何をいっているの?という表情をした。次第にこわばった顔からは、全てを悟ったかのような目から涙がおちる。

「軍の上の人たちの指示ね?」

 だから断れない。だから逃げられない。無口なままの勇助は視線を下にしたまま黙る。ルインはそれに我慢ならない風に勇助の手を揺すった。


 横にいた泰造は、早く切り上げさせようと、口を挟んだ。

「彼が行けば、多くの情報が分析できる。そうすれば多くの仲間が救われるんだ」

 その言葉に、勇助はゆっくり泰造の方を振り向く。いつもと変わらぬ表情だったが、何かを言いたそうな目。ルインは泰造が今まで見たことのないような眼で泰造を睨んだ。


「なぜなの」

 彼女はそれしか言わなかった。



 サイゴンの空軍基地に戻ると、泰造は格納庫から司令部付きの百式を引き出す。以前なら、サイゴンの空港からプノンペンを経由してでミャンマーへ送り届けた。だが今は、制空権はない。勇助を落下傘で送り込むしか手段はなかった。


「泰造、俺一人だけのために飛行機を用意してくれて、すまなかったな」

「いや………」

 泰造は口が重かった。死ににいくことがわかっているはずの勇助は、涼しい顔をする。



 間も無くヤンゴン上空だった。

「では! 妻をよろしく」

 そう言って勇助は三月の暗闇の地上へ落ちていった。

___________________


 勇助を送り届けてから、数日後、軍の通信から帝都が大規模爆撃に見舞われたという知らせが届いていた。

「帝都が?」


 泰造が恐れていたことが現実となった。本土から遠いこの地でも既に敗色は濃い。なんとなく予想していたこととはいえ、ショックなことである。しかも、続報の電文には泰造にとって身近な地名が出た。


「被害地域は押上以南の深川、木場一帯の帝都下町地域。復旧作業にあたる軍および警視庁によれば、被害地域はほぼ全滅。死傷者、行方不明者多数。生産拠点は全て……。」

 呆然となった泰造の顔には、明かりに照らされた電文の文字が泳ぐ。


「深川、俺の家、我妻祐子、我が子武史」

 泰造は悪夢を繰り返し思い出すように、独り言を繰り返す。

「深川、俺の家、祐子、武史 ……。いや、きっと大丈夫だ」

 泰造にわかることは何もない。あえて没頭したことは、前線と司令部、また航空第五師団などとの情報交換業務。彼にできることは、何もなかった。



 勇助を送り届けた後、泰造はルインのところへ行く気持ちにはなれなかった。なぜなの、と短く呟いた後は黙ってしまったルイン。彼女が、心も口も閉ざしていることは容易に想像できる。

 会いに行かなくともルインのひと言は、泰造に問いかけ続ける。実際には語られていないが、泰造にとっては現実だった。

「なぜ、勇助をミャンマーへ送ってしまったの? 何故、何故?」

「許さない、絶対に許さない」


 その夜、泰造は夢を見る。その夢を同時にルインも見た。

 ルインの目の前に、厚い布に包まれた赤児を抱いた青白い女が立った。勇助が日本に残してきた女。その女は、そっと寄り添う白衣の男女に付き添われて踵を返す。


 その女に、ルインは思わず声を掛けた。

「勇助は行ってしまったわ。もうここにはいないわよ」

 その女は立ち止まってルインの方を振り向く。

「 勇助さん? ああ、彼もここに居たのね」

「そう、もう、彼は生きて戻ってこないわ」

 ルインが声を振り絞る。しかし、その女はルインに微笑みかけた。

「彼は未だ死んでいないわ。それに貴女には息子さんもいるじゃないの」

「でも、貴女の勇助は、行ってしまったのよ!」

「私の? 」

 その女は困ったように微笑んだ。


「勇助さんは、私のではなくて、貴女の愛する人ね。でも、私の愛する人のために、これからのことを見ていてください」


 その女は、そういうと、そのまま二、三歩進み、ある男の前に立った。彼は、あの泰造だった。ルインは、これは何事だろうと考えつつ見守った。


「泰造さん、貴方に武史を見せにきました。」

 女の青い顔と姿に、泰造は目を見張る。

「祐子、ここへ来られたのか? どうやって?」

「特別にこの淑香さんたちに連れてきてもらったの」

 横にはあの白い羽衣を着た女と男が立っている。あの雨の夜の男女たちだった。


 泰造は身を起こして祐子の抱く赤子をみた。よく眠っている様子。泰造が抱いても武史は目を覚まさなかった。ふとみると、赤子の下腹に鋭い木片が刺さっている。


「なぜ刺さったままにしておくんだ!。ダメじゃないか」

 泰造は思わずその木片を抜くと、下腹の傷痕から血が流れた。


「いえ、もういいのよ。私たちは、お召しになった方のところへいくのですから......そこでは、また再び立ち上がる日を待ちながら、ゆっくりと休ませてもらうことになっているのです」

「お前には傷はないのか?」

「無傷ではなかったわ。多くの咎が私にあったわ。でも、もういいのよ」


 ここで、泰造は何かに気づいたようだった。

「武史は息をしていない」

「そう、私もよ………ここにいる私と武史は単なる影。貴方の心に語りかけているの。でも、もうさよならね」

「ま、待ってくれ。何があったんだ?。どうしたんだ」

 ふとまわりがあかるくなり、辺りには誰もいなかった。泰造は木片を握りしめたまま呆然としていた。


  三週間後、泰造のもとに祐子と武史が発見されたという一報があった。

___________________


 既に四月、サイゴンは雨季になる直前の最も暑い季節になった。ルインのいる部屋の外には、強い日差しと熱気が満ちる。窓の外からは、熱気のようなゆるい風が吹き込んできた。

 その風の先には、精魂尽き果てたルインが眠る。その横に眠るのは今朝生まれたばかりの男の子。


 夕刻になり、赤ん坊はぐずり出した。ルインは疲れ切った体を起こして赤ん坊を抱え、乳を含ませる。ルインにとっては幸せを感じるひとときだった。

「汰欣(タゴン)や。お父さんは帰って来ないねえ」



 同じころだった。泰造は何げなく愛機百式の格納倉庫へむかうところ。そこで彼が目にしたのは、完全に閉めたはずの格納庫の扉の隙間。


 白い布をまとった若い男が、百式の操縦席を覗き込んでいる。

「だ、誰だ?」

「名乗っておきなさいということなので、自己紹介をしておきますね。僕は、大石雄二といいます......シー。静かに」

「貴様、軍人ではないな?」

 泰造が問いただす。しかし、若い男は答えず、操縦席の中を指さした。

「先程から通信が途切れ途切れに入ってきていますよ。あなた方の周波数帯ではないですし、言葉ではない記号を伝えていますね。でも、これは緊急連絡ではないですか?」

「これは、我が軍最高機密だぞ。貴様、何故それを知っている?」


 操縦室の通信機は普段とは異なる諜報モードに既に調整済みだった。その通信はかつての南機関が作ったミャンマー式通信コードに基づくもの。以前は、コウンから何度も通信を受けたこともあった。今では勇助と泰造しか知らぬ暗号である。

 暗号の内容は「英軍グルカ兵がミャンマー国内へ侵入を開始し、日本軍が既に撤退しつつあること、勇助が取り残されていること、我々が日本軍の廃棄した滑走路を英軍向けとして整備しているから、明後日未明三時に空港へ勇助を必ず取りに来い」という一報だった。

 しかし、妻や息子を奪われた泰造には、仲の良かったコウンの通信も頭に入ってこなかった。


「何をためらっているのですか?」

 その声の方を振り向いたが、もう大石雄二という若者はいなかった。


 その夜、泰造は暗闇に紛れてルインの部屋を訪ねた。コウンの連絡をルインに伝えるためである。既に遅い時間であり、蚊取り線香の煙が立ち上る部屋で、ルインは赤ん坊とともにベッドの中。彼女は夢を見ているのであろうか、譫言のように勇助の名前を度々呼んだ。


「勇助は行ってしまったわ」

「もうここにはいない」

「もう、彼は生きて戻ってこないわ」


 彼女の言葉は、妻子を失った現実を泰造に突き付ける。同時に、彼自身が彼女の最愛の家族を失わせたことを思いださせた。


 泰造の気配に、ルインは目覚める。ルインは驚いて起き上がり、少々はだけながらも赤ん坊を抱えた。その姿に、泰造は思わず涙を流す。

「彼が生きている。しかし、彼は敵の中にあってルインに匿われている」

 ルインはその言葉にすぐに反応した。

「やっぱり」


 勇助を死地に送りこんだのは泰造。その事実だけでも、ルインの前に立っていることは辛い。それに加えて、今までに戦友たちを死に追いやり、妻までも死なせたのに、彼自身や高級将校たちがまだおめおめと生きている事実。それが彼を昼も夜も苛む。

 泰造は、この日まで耐えるように黙し続けた。ついには、絶え間ない呻きが骨まで朽ち果てさせる。今の泰造は、ただ心の中で誰かを呼びもとめ、嘆き叫ぶような祈りのみで歩んでいるだけだった。


「俺のしたことは………」

「もういいの」

 ルインは言った。

「貴方の奥様に会ったわ」


 泰造はその言葉に驚く。祐子は泰造に会いに来てくれた。そのことをルインは知っていた。

「貴方は一人になってしまったのね」

「私はヤンゴンへ必ず彼を迎えに行く。この命に代えても」

 しかし、あくまで隠密行動だったため、いつ行くとは言えなかった。また、帰って来られる保証はなかった。

___________________


 その日、泰造は、五月のスコールの中に百式を飛び立たせた。燃料タンクには満タンのガソリン。それにもかかわらず、百式はあっという間に雲を抜けて高高度に達する。


 コウンの通信によれば、ヤンゴンの空港は英軍グルカ兵が襲い来たものの、ミャンマー側が先に占領しているという。既に滑走路が再建されているが、まだ防空陣地もなく、照明もないという報告だった。

「北極星を背にしてそのまま着陸し、滑走路の端部でユースケを乗せる。チャンスは一回のみ」


 タイの上空で悪天候の雲の上に出た。ヤンゴンに達して北極星を確認すると、再び雲の下へ。悪天候の中、泰造は操縦士の勘を頼りにまっすぐに降下する。

 ヤンゴン空港上空へ差し掛かると、対空陣地はまだできていなかった。やはり、英軍の対空兵器は機能していないことが見て取れる。泰造はエンジンを極力抑え、翼のフラップをいっぱいに広げて百式を静かに着陸させた。


 滑走路の端部に達して機体を転回させて止める。豪雨の中、そこへ密林から二人の人影が走ってきた。

「スピットファイア戦闘機一個編隊がこちらに向かってきている。逃げ切れ」

 コウンは勇助を機内へ押し込み、泰造に声をかけた。

「我が友よ。ありがとう」


 泰造と勇助は、顔を向けたコウンにそう声をかけ、再び飛び出す。雨の中、警報が響き渡り始めた。やはり、気づかれていた。

 左から、発砲音が聞こえてくる。しかし、機関砲ではなく、ただの歩兵の自動小銃らしかった。泰造は勇助がまだ風防を閉じきれていないにもかかわらず、百式を飛び立たせる。百式は飛び立って暫くは雨に打たれながらも真っ直ぐに巡航。次第に雲は晴れた。


 タイ国境に差し掛かると、右手に戦闘機の群れが見えた。

「あれはやはりスピットファイアだな。逃げ切れるか?。」


「ああ、あいつらの航続距離は短い。この機体を持ち帰る気もないから、南の海へ達することができれば充分だな。」

 しかし、少しばかり、飛び立つタイミングが遅かった。数機の編隊は百式の速度を凌駕しており、百式はじりじりと距離を詰められる。時折エンジン部を狙うように、スピットファイアの20ミリが機体をかすめた。


 泰造は、勇助に言い放った。

「どうせ、俺の子孫なんてもういない。子供が生まれたお前はここで落下傘で降りろ。俺はあいつらを巻く。どうせ俺は………。」

「何を言っている。逃げきるんだ」


「そう、逃げ切るのです」

 いつの間に乗り込んでいたのか、泰造の肩の後ろから若い男女が語りかける。勇助はというと、すっかり眠りこけていた。


「貴様たちは、俺の子孫は救われるとかなんとか言っていたよな。だが、俺の家族はみんな死んでしまったぞ」

「貴方は私たちの言葉を信じていないのかしら?」

「いや、信じているさ、俺の命は勇助のためのもの。その勇助の子供達が俺の子供だ」

「貴方の体から出た子供が貴方の子孫となり、三代目が勇助やその子供達に救われるのです。貴方自身も逃げ切らなければなりません

」

 そう言われた泰造が思わず反論しようとして振り返ったが、そこには誰もいなかった。気づくと、追撃機は数機のみになり、機関砲の命中しかねない距離まで近づいていた。そう思った瞬間、百式はさらに上昇を始めた。

「付いて来られるか?」

 高高度に達すると、次にはマイナスGをかけたまま急降下を続け、また上昇を繰り返した。泰造はそれによって燃料の消耗を意図したのだが、英軍機はエンジンの不調を起こし、全ての敵機がついてこられなかった。


「もう、大丈夫だ」

 しかし、さすがの百式も、いつの間にか右エンジンを撃ち抜かれていた。

「勇助、大丈夫か?」

「ああ」

「もう、この機体は持たない。燃料はもうほとんどなくなっている。この辺りでそろそろ不時着させよう」

 そういうと、泰造は、高高度から百式を滑空させながら高度を落としていく。


「待てよ。もう敵機はいないんだろ。戻れないのか?。おい、泰造!」

 後の声は聞こえない。すでに高度は数メートルであった。

___________________


 大石雄二は再び地上への隘路を戻るところ。ここは、淑香と共に辿ってのみ帰れる道である。


「貴方、あの出口を出たら、もう、問題なく戻れるわ」

 長い梯子を降りる行程の途中で、淑香は下を指差して叫ぶ。淑香より先に降りている雄二は立ち止り、首を横に振った。

「いや、このまま貴女についていくべきだ、と虫の知らせが教えてくれている」

「そんな知らせはないはずよ。別の何かと混同しているわ」


 ついていくべきだというのは、確かに虫の知らせではなかった。たぶん執着心なのかもしれない。しかし、淑香の教える通りに従うべきだということも、頭ではわかる。たぶん、雄二は一人で普段の生活に帰るべきなのだろう。しかし、それでは淑香を失ってしまうという確信があった。


「あなたが執着する限り、私はもう自由に動けないのよ。わかっているの? それとも、御使(みつか)いに心を奪われたというの? お願いだから、私のことは忘れて......私自身がこの体に縛られていると、正常な判断と活動ができなくなるし、貴方も人生がめちゃめちゃになるわよ」

「『戒めとしてこれからしばらく貴方は私から心が離れなくなる』と宣言したのは、君じゃないか?」

「でも、その前からこの状態じゃなかったかしら。ねぇ、私のことは、もう忘れていいのだから」


 しかし、雄二は態度を変えない。淑香は、彼を睨んでから降りる速度を上げた。立ち止まって足下ばかりを見ていた雄二は、何事かと上を振り向く。同時に、淑香のフレキシブルなシューズが雄二の手を踏みつける。雄二が進めなくなっているにもかかわらず、淑香は強引に降りてきた。雄二が慌てて手を引くと、淑香の身体は雄二の肩を跨ぐ形で滑り落ちた。


 淑香の長い髪が雄二の鼻をくすぐる。淑香は業を煮やして雷を落とした。が、雄二は飄々と言ってのける。


「僕たちが見てきた人間はいずれも動じなかった。泰造さんも、勇助さんも、それにこちらの世界の民生だって......なぜなら、捨て身だったからさ。それが突破力だった。もう、僕は何があっても動じないよ」

「少し誤解があるわ。貴方の勇気と強さは、初めからそなわっていたものなの。だから、そのことは今学んだことではないはずよ。なぜなら、貴方にはいつも、世の終わりまで共にいてくださる方があるから、その強さがくるの。私が原因ではないわ。だから、私に執着することは、論理的ではないわ」

「そうなのか? でも、僕はもう君しか見えない」

「もう! 知らないわよ」


 淑香は雄二の執念にほとほと困り果てながら、元の教会の玄関へとたどり着いた。

「仕方ないわ、とりあえず現代にもどって、現代のタオの海へ行きましょ」

 少し傾きかけた夏日の中を、二人は戻っていった。

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