scene4『歪んだ平凡な運命(であい)』
やっとボーイ・ミーツ・ガール。
口元を手で覆いながら、路地を行く奇妙な学生の姿があった。
「眠……」
呟きとともに顔から手が離れ、端整な、しかし何の表情も浮かんでいない顔が顕わになる。
欠伸をしていたらしいのだが、眼の端に涙がなければ誰にもそうだったとはわからないだろう。全ての感情の前に中立な彼の無表情からは、眠いのかどうかすら判断がつかない。
「学校まで正確に歩くのは、そう難しいことじゃないな……町の道なら長さや幅は全部覚えているし……問題は、信号と通行人か……いや、信号もタイミングを完璧に調整出来れば、意識がなくてもイケるか……通行人は……気配で避けて……」
眠気覚ましに、眠ったまま登校する術を考えてみる。そもそも眠ったまま歩く、という技術にはなんの疑問も持たないあたり、心在カケルという少年のズレ方を示していると言えた。常識が――【歪ん】でいる。
とはいえ――そんな彼でも、両手で本を広げ、視界を塞ぎながら歩くのは、危険だろうな、とは思った。周りを見ていないことと、周りが見えなくなっていることは、全く違うからだ。
交差点に差し掛かったところで、向かいの路地をふらふらと歩いてくる女子生徒がいた。何かの冊子を熱心に読みながら、何事か呟いている。音読でもしているのだろうか。
歩行者用の信号は赤だが、止まる様子はない。そもそも交差点に差し掛かった事にすら、気づいていないようだった。
直交する車道は青から黄色に変わったところ。左方から来た大型トラックがスピードを上げた。車道に入ろうとする女学生には気づいていないようだ。小説とか、ドラマではありがちな展開だな、とカケルは思った。ありふれた悲劇の兆しが、そこにはあった。
型に倣うならば、こういう時は誰かが「危ない!」と叫びながら女子生徒を突き飛ばしてそいつ自身が轢かれるか、飛びついて一緒に転がり間一髪かわすかする、というのがふさわしい場面なのだろう。しかし、辺りにはどう見ても自分以外いない。そして彼女は交差点の向こうで、彼我の距離から見て、走ったのでは到底間に合わない。普通のやり方では、助けられない。
と、そこまで考えて。
――全く朝からついてないな。
カケルは小さく、ため息をつき――世界が、【歪ん】だ。
◇
甲高いクラクションで女子生徒――詩涌間旋律が我に返った時には、トラックが目の前を通り過ぎる所だった。
文字通りの目の前だ。風が暴れ、思わず目を瞑ると、暗転した世界の中でトラックが生んだ風が顔を撫で――ひっ、と肺から悲鳴にもならない空気が押し出され――驚愕と恐怖によって体が硬直し――思わず抱きしめてしまった台本が、くしゃりと歪み――鞄が肩からずり落ち、腕に引っかかり――遅れて髪が舞い――制服の隙間を温度の低い空気が通り抜け、ひんやりとする感覚が来た。
それらは一瞬の出来事で……しかし突然の事態に頭が追いつかず、トラックが通り過ぎてもしばらく、旋律は動く事が出来なかった。
――びっくり、した……。
ようやくそう思えて、今度は自分の体勢がおかしい事に気づく。
直立しているのに、視界は道路のアスファルトの黒が大半を占めていて、体は妙に重力を感じている。腕にずれ落ちている鞄が、斜め下に向かって垂れ下がっている。実感と経験から導かれた事実が、驚きと疑問になって口からこぼれる。
「あれ? 私、斜めに立ってる……ここら辺に、重力が斜めになってるところ、あったかな……?」
新しく【歪ん】だのかな、と考えたところで、首筋から背中の上辺りがスースーすることに気づく。それは着衣と肌の間に隙間があるからで、更にそれは制服の襟を引っ張られているから。つまり自分は誰かに支えられているんだと思い至ったと同時、
「その……早く立ってくれないか」
「へ?」
抑揚のない低い声とともに、ゆっくりと後ろ向きの力が加わり、ほどなく旋律の体は直立に戻った。よろめきながらも、なんとか自立する。
襟から手が離されてから振り向けば、黒髪の男子生徒が立っていた。
制服から、同じ学校の生徒だとすぐにわかる。ネクタイの色は彼が同学年だということも示していた。
次に気づいたのは、その顔。真顔、というか無表情。いつまでも支えさせていたので怒らせてしまったのかもしれない、と旋律は思った。
「え、えと……」
とりあえず謝るべきなのか何かほかの言葉を言うべきなのかと、旋律が人より回転の遅いと自負している脳を必死で動かしながら考えていると、男子生徒の瞳が小さく上下する。
「怪我はない、みたいだな」
「え? あ……えと、はい」
トーンの平坦な声。怒っているわけでは、なさそうだった。
それを確認して少し安心した旋律は小さく笑んで、姿勢を直す。
「あの、助けてくれた……んですよね。ありがとうございます!」
丁寧にお辞儀してお礼を言う。
顔を上げると、男子生徒が眉一つ動かさずに旋律をじっと見ていた。
真顔の人間と目が合うのはかなりぞっとするものがあったが、視線を外すのも失礼かと思い、旋律は男子生徒の瞳を見つめ返してみた。
「「………………」」
方や真顔で、もう一方はまじまじと。歩道の真ん中で無言のままお互いを見つめ合う、奇妙な二人がそこにいた。
当然当事者――というより旋律にとってもそれは微妙な間であり、旋律はますます何も言いだせなくなっていた。
代わりに視界にある、無表情な男子生徒の顔から何かを読み取ろうと努力してみることにする。
――なんだか、不思議な男の子だなぁ……。
いわゆる美形という感じではないが、顔立ちは整っていてすっきりとしている。ただ、表情と言えるものが全く浮かんでいないので、規則正しいまばたきがなければ、良くできた人形と間違えてしまうような、どこか人間離れしているというか、奇妙な違和感があった。自分を見つめる瞳の色は深く、目を合わせているだけで吸い込まれてしまいそうな気がした。そして何よりも、全体的に線が細く、儚いイメージを漂わせている。華奢ということではなく、そこに居るのに居ないような、そんな印象だった。
やっぱり怒っているのだろうかと、旋律がまた不安に思いだすには十分なほどの間があいてから、
「本」
「え」
突然の短い呟きに、なんのことかと戸惑う。
合わせていたはずの視線はいつのまにか旋律の胸元、両手で抱きしめたままの冊子に向いていた。
「読みながら歩かない方が、良い」
勧告とも聞こえる、淡々とした注意。
「あ、その……部活の次の演目で良い役が貰えるかもしれなくて、私の好きなお話で、毎日緊張しちゃって、つい……」
旋律はなんとなく、言い訳がましいことを言ってしまう。
「部活」
一瞬え、と聞き返しそうになったが、すぐにそれが疑問なのだと気付く。
「私、演劇部だから……これ、台本なんです」
少し歪んでしまったホッチキス留めの冊子の形を直し、男子生徒に見せる。
男子生徒はしばらくそれをじっと見つめて、
「演じたい役があるのか」
「は、はい……」
「主役なのか」
「はい……主人公の、女の子、なんですけど……」
「配役が決まるまで時間がないのか」
「文化祭の公演だから、そろそろ決めると思い、ます……」
「台詞、覚えてないのか」
「えっと……一応覚えてますけど、まだ、不安で……」
「練習、してないのか」
「し、してますけど……」
男子生徒が無表情に短く質問してくる度に、旋律は自分の語気が弱くなっていくのを感じた。
「どれくらい」
「週に3日部活があって……毎日帰ってからも……あと、休み時間とか……」
「そこまでやってて、自信がないのか。それなら他の役にした方が良いんじゃないか」
そう、淡々と言われて。
「え……」
透き通った彼の瞳が、まるで自分の心の内側を覗いているかのようで、旋律の心は平静を奪われていく。
君には無理だろう――目の前の男子生徒がそう言いたげにも見えて、背筋が寒くなる。心臓が冷たくなって、そこから送り出される血までもが冷たくなって、全身に行き渡っているみたいだった。
台本を抱きしめている手が小さく震え、足は崩れそうになる。
「そんな……」
それは嫌だと言いたいのに、言えなかった。
旋律は自分でも分かっていた。引っ込み思案で、恥ずかしがりで、何の取り柄もなくて人前に出るのさえ苦手な自分がヒロイン役を演じようだなんて、所詮無理なのだと。
逃げ出してしまいたい、と思った。一体どうして、さっき出会ったばかりの男子に自分が追い詰められなければならないのだろう。やめてよ、と。叫びそうになった。青ざめた顔で、下唇を浅く噛んで、旋律は男子の顔を覗く。すると表情は無のまま、瞳だけがあちこち動いていることに気づいた。まるで……自分の言葉を後悔しているように。
それに気付いたとき、あぁそうか、と旋律に悟りのようなものが芽生えた。
この人は、旋律が不安そうにしているから、それなら他の役を狙ってみればと、親切で言っただけなのだ。勝手に追い詰められているのは、自分を追い詰めていたのは、旋律自身だった。自信がないから、不安だから、人に話しただけで、心が揺らぐのだ。
旋律は一度目を閉じた。深呼吸して、自分がやってきたこと、自分の気持ちを確かめる。
それでも――無理かもしれなくても、やってみたいと叫ぶ自分が、確かに心の中に居た。
そう。自分は今回の脚本の元になった話、そのヒロインに強い思い入れがある。そのために努力して、その成果を部のみんなにぶつけたいと、舞台の上で演じてみたいと、強く思っている。なら、それを伝えれば良い。不安がることなんて何一つなかったのだ。きっと伝わる――彼ならわかってくれる。何故かそう思った。
「それは出来ません。自信は、あるって言ったら嘘ですけど……でも、変えたくない。だって、私はこのお話が大好きで――」
瞼の裏に、思い浮かぶ情景を。唄うように、口から零れるままに。
込めるのは――伝えたい、その一心。
「ずっと、主人公に憧れていたんですから。だから、出来るところまで頑張りたいんです」
目を開き、男子生徒の目をまっすぐ見つめる。
自分の思いは、伝わったのだろうか。
男子生徒の反応は早かった。
「そうか」
そっけない返事。
旋律はあ、と目を伏せた。
「それなら、大丈夫なんじゃないか。演劇のことは分からないけど、多分、きっと」
「え?」
顔を上げれば、旋律の視線から逃げるように、目をそらす。
その表情にはなんの変化もなかったが――雰囲気がどこか、優しくなったような気がした。
「それだけ意気込んでいるなら、きっと出来るさ。だから自信を持つといい、と思う。台本なんて読むから、不安になる……んじゃないか、と。危ないし。大事な時期なんだろ」
男子生徒は言葉を探すように、目をちらちら動かしながら、そう言った。それはどこかたどたどしくて、人と話すのが苦手なのだろうと、旋律は思った。自分と同じだ、と。彼の言葉はシンプルだったが、鼓膜を心地よく響かせ、旋律に静かに染み込んでいく。そしてそれは体の内側で熱を帯びて、旋律の胸をじんわりと温めた。
同時に気付く。彼は最初から、それを言いたかったのだ、と。
彼にしてみれば、助けた相手に本を読むのは危ないからやめろと注意するだけでも良いはずなのに、旋律があんまり熱心に台本にかじりついているから、遠回しに言おうとしてくれたのだろう。
そう思ったら、旋律は自分でも気付かないうちに笑みを浮かべていた。
「うん……あなたの言うとおりだね。気を付けます」
話の内容は頭に染み付いている。旋律は丁寧に表面の皺をのばしてから、台本を鞄に大事そうにしまった。
それを見届けると、男子生徒は向きを変えて歩き出した。
旋律も軽い足取りで横に並ぶ。
「ありがとう」
自然に出た言葉だった。
隣を歩く男子生徒はちら、と目だけで旋律を見てから、
「どうして」
と無感動に言った。
何故そこで疑問なのか一瞬考えそうになったが、素直に答えることにした。
「助けてくれたこともですけど……あなたのお陰で、なんだか大丈夫って気がしてきたんです。もし駄目でも、精一杯やろうって。なんていうか……、勇気を、もらったんです」
とてつもなく恥ずかしいことを言っている気がすると思いながらそう告げると、男子生徒は無言で旋律の顔を横目に眺めた。
意外そう、で合っているのだろうかと、旋律は思った。
「勇気……は、知らないけど。助けたっていうほどのことでもないから、別に良い」
ぶっきらぼうに、そう言われて。それが少しだけ、早口だったから。
「……ぷっ、」
旋律は思わず、小さく吹き出した。
「どうしたんだ」
男子生徒は旋律を不思議そうに……は見えないが、そういう雰囲気で見つめる。
「だって、お礼ぐらい照れずに聞いてくれれば良いのに」
あはは、と笑いながら答える。
「……いや、照れてない、別に」
否定するのも早口だったから、旋律はますます笑ってしまった。男子生徒はばつが悪いのか、若干目を細めながら、
「変な奴だ、君は」
と、旋律には心外過ぎる一言を言った。
「えぇっ、どう考えてもあなたの方が変ですよ……」
「それはない」
「いや、あるよ?!」
表情一つ変えずに言い切る男子生徒を、やっぱり変な人だと思いながら、旋律は笑った。男の子との会話でこんなに楽しい気分になったのは、彼女にとっては初めてのことだった。心臓の鼓動はずっと高鳴っている。初めは怯えに近い感情だったが、今は――旋律にもよく、分からない。だからだろうか、普段では絶対に聞けないことも、口をついた。
「あ、そうだ、名前……。私、1―Aの詩涌間旋律です。あの、あなたのお名前、もしよかったら……」
「C組、心在カケル」
それは相変わらず、淡々とした返事だったが……ちゃんと答えてくれたことが、旋律には嬉しかった。
◇
それからは会話もなかったが、気分が弾んでいた旋律にとっては、歩く時間もあっという間で。気付けば、昇降口に着いていた。
「それじゃ……」
カケルの声が、さっきまでよりもそっけなく聞こえて、旋律の浮ついた気分は一気に寂寥感へと変わる。
A組とC組。クラスが違えば、下駄箱も離れている。
それは教室も同じで、別れてしまえばもう、会う機会も少ない。
それは寂しいな、と旋律は思った。
カケルが自分のクラスの列に入りかけたとき、その上着の裾がひらりと舞う様がとても儚げに見えて、
「し、心在君、あのっ……!」
一歩下がったカケルが、その人形のような目を旋律に向ける。
思わず声をかけてしまったが、旋律は続ける言葉を何も考えていなかった。
よくよく思い返せば、知り合ったばかりの異性とどう接すれば良いのかなんて、これといってそういった経験のない旋律にはわからなかった。そもそもが人見知りなので、一度テンションが普通に戻ると、会話すらままならない。
「………………」
カケルはじっと待っている。それが余計に、旋律を慌てさせる。
「あ、えと、その……」
お昼一緒に。放課後、もし良かったら。ぐるぐると台詞が脳裏を巡り、
「さっきは本当、ありがとう……」
結局、出てきたのはそれだけだった。
自分を変えたいと思うのは、いつもこういう時だ。さっきは出来たのに。恥ずかしさと後悔に、下唇を浅く噛む。
「あぁ……これからは、気を付けて」
頷き、カケルは今度こそ下駄箱の向こうに入り、見えなくなる。
それは余りにもあっけない別れで。
今まで一緒に歩いてきたのに、それが嘘だったかのように、名残もなく。まるで彼が消えてしまったかのように、旋律には思えた。
そんな訳はない、今すぐ覗けば当然いるはずだ。それを確かようとしたその時、
「詩涌間さん、おはよ~」
昇降口に入ってきたクラスメイトの女子に、声をかけられた。
「あ、うん……おはよう」
「どしたの? 下駄箱、こっちだよ」
C組の列を覗こうとしていた旋律を訝るように、その女子は言う。
「え? う、うん。分かってる、大丈夫」
「そう? 詩涌間さん、ちょっと天然ぽいとこあるし……」
「ひ、ひどい……」
「冗談冗談。ほら、行こ?」
「う、うん……」
振り返る際、目の端にその空間を捉えながら、待っていてくれたクラスメイトに旋律は駆け寄った。
カケルの姿は、既になかった。
ここが厨二:トラック。