scene1『月夜の誤邂逅』
次話投稿……これで出来ているのかしら。
とりあえずワードで書いたものを編集して上げているのですが、ルビとか傍点が振り直しで泣けます。
同じ空間、登場人物の出る場面を1シーンとして区切っているので、長さは安定しないと思いますが、ご容赦ください。
美術館の警備は、まばらだった。予告状はきちんと出したはずだが、おそらく人手が足りなかったのだろうと【怪盗】の少年は推測した。いつものことだ。彼女と同じ日に仕事をしているのだ、文句を言っても仕方がない。それに仮に彼女と仕事が被らなかったとしても、彼女に割かれるのと同程度の警備が自分にも割かれるとは思えなかった。
もちろん、ただ仕事をする分には、警備は薄い方が良い。
【怪盗】の少年は今、警備にあたっている警察官の一人に変装して、巡回のフリをしながら堂々と歩いていた。格好だけ揃えた簡素な変装だが、すれ違う別の警察官に声をかけられることはない。挙動に不審なところがない自信もあるが、恐らく自分の【歪み】が効いているのだろう。
皮肉な話だ、と彼は内心苦笑する。
――それを否定するために、僕はこんなことをしているのに。
内心独りごちてから、気を取り直してターゲットへとゆっくり近づいていく。
彼にとって最後のターゲットとなるのは、先日来日して以来ずっと話題になっている、年代物の宝玉だ。この世界において、【歪み】の少ないものは価値が高い。直径わずか5センチメートルほどではあるが、美しい球形をしたそれは、ガラスケースに囲まれて、赤い台座の上に展示されていた。客が近づけないよう、手を伸ばしても届かないよう、1.5メートルほどの間を空けて囲いが作られている。事前に調べた限りでは、ガラスケースに手を触れるだけで警報が鳴り響き、台座から動かそうとすれば美術館中の窓と出入り口がシャッターで閉鎖されるようになっている筈だ。
――まぁ、閉じこめられても。僕には関係ないのだけれど。
彼にとって問題なのは……出来るだけ目立たなければいけないという縛りを自らに課していることだ。とはいえ警備もこの人数では、何をやったところでそれほど目立ちようもない。自分の最後の仕事環境としては、いささか物足りない気もするが、逆に諦めがついて良いかもしれない。さてどうするか――などと思っていた時。
「失礼、ちょっとお訊ねしたいのだが」
背後から、そう声をかけられた。
◇
奇妙な格好といえば、そうなのかもしれない。過去の正常な世界を懐かしむように放送されている、昔のテレビドラマなどでそういうイメージを見かけることはよくあるが、実際に、しかも女性がそれを着ているのを見るのは初めてだった。
茶色を基調とした、チェック柄のベレー帽とマントに身を包み、パイプを口にくわえた少女。整った顔立ちだが、その目つきは鋭く力があり、帽子から腰元まで流れ落ちる黒髪は毛先まで艶やかで、全身に知的で凛とした雰囲気を纏っていた。
「私は、織目紗麓。【探偵】だ」
と。そう自己紹介されて納得してしまうほどに、少女――織目紗麓の格好は、世間一般に言う、猫探しや家庭調査をするタイプではないそれのイメージそのままだった。
「世界政府平和維持同盟直属、対極度歪能力犯罪部極東方面担当班、通称【消音装置】……まぁ、メンバーは【チーム】と呼んでいるが……要するに、世界政府直属の警察の協力組織から来た協力者だ。この地域の【怪盗】事件の担当として派遣された。ここの責任者とお会いしたい」
年上であろう警察官相手に、嘗められない為にだろうか……落ち着いた喋り方で身分を説明しながらも、その【探偵】と名乗る少女の眼光は、人を射抜こうとするかのようにギラついている。
「はぁ、【探偵】のお嬢さん、ね……。困ったなぁ、どこから入ってきたんだい? 丁寧に自己紹介してもらったところ悪いんだけど、今僕たちは、まさにその【怪盗】の為に警戒態勢を敷いているんだよ。一介の警察官である僕には、お嬢さんの言っていることが本当かどうか確かめられないから、警部の所まで連れて行く訳にはいかないんだよね。全く、外の奴らは何をしているんだか……」
【怪盗】の少年は、面倒くさい子が来たなぁといった感じの若い警察官、といったような話し方で対応した。自己紹介が必要ということは、この少女は本当に【探偵】であろうとなかろうと、ここの警官たちとは面識がないということだ。ならば、適度に突き放した話し方が無難だろうという判断である。ご丁寧に、悪態のおまけ付きである辺り、芸が細かい。
「ふむ……【チーム】からの連絡は行っていないようだな。なら信じろと言っても無理か。だが、お巡りさん。ことは一刻を争う。【怪盗】はかなりのやり手だと聞いている……私の協力は、それなりに役に立つはずだ」
「う~ん、そう言われてもなぁ……」
お巡りさん、とはまた子供っぽい表現をしたものだと【怪盗】の少年は思いつつ、難しい顔をするフリをしながら、【探偵】の少女を観察する。
ぱっと見の外見ではわからないが、ロングコートにはどうやら、内ポケットに拳銃を隠しているようだ。同時に、腰の後ろにナイフを装着しているらしい。何の情報ももたらされていない警察官として、疑うようなことを言ったが、この少女はどうやら本物らしいと判断する。そして【探偵】といっても捜査だけでなく、戦闘方面でも役に立つのだろう、訓練された人間の、独特の姿勢の良さも見て取れた。今は攻撃の意志を見せていないが、いざとなれば彼女は百戦錬磨の兵士のごとく動けるだろう。
と、一通り観察したところで、対応を考える。あまり間が長くなるのも不自然だ。
「それじゃあ、」
「ところで、一つ聞いても良いだろうか」
口を開きかけた所を、【探偵】の少女に遮られる。右手に持っていたパイプをすぅ、と深く吸い、目が細められる。先ほどから煙が出ているようには見えないし、火をつけた様子もない。無煙タバコを使っているのだろうか――パイプで吸うようなタバコに無煙のものがあるかどうか、【怪盗】の少年は知らなかったが――そうして一呼吸置く【探偵】少女の双眸は、真っ直ぐ【怪盗】の眼を射抜いている。少しの変化も見逃さないように。
「ん……どうしたんだい、急に。何を、聞きたいのかな?」
「【怪盗】は、もう来ているのか?」
不自然な、質問だった。いや、それは質問と言うより、確認と言った方が良い言い方だ。変装を見抜かれたのだろうか。まさか、と思う。自分の【歪み】を除いても、不自然なところは無いはずだ。だが、こちらにも確信が無い以上、動揺を見せる訳にもいかない。
「変な質問をするね……? 来ていたら、もっと大騒ぎになっていると思うけど」
「いや、そうとも限らない。【怪盗】と名乗る以上、変装による侵入の可能性は常に疑ってしかるべきだ。うまく潜入されているとすれば、騒ぎにはなっていないことにも頷ける。そうは思わないかね?」
尊大な物言いが、堂に入っている。ますます本物っぽいな、と【怪盗】の少年は思った。
「あぁ、確かにね。ただそうなると、僕に聞かれても困るなぁ」
「何故? いや、答える必要はない。私はね、こう思うのだよ。それは至極簡単で、シンプルなアイデアなんだが。つまり……」
そこで一旦パイプを吸って、吐き出しながら。【探偵】は、切り札を切る。
「貴方が【怪盗】なのではないか――、とな」
それはブラフなのか、確信に基づくものなのか。
目を細めながら、問う。
「……どうして、そう思ったのかな?」
「私の武装と、姿勢を確認したからだ」
気付いていたのか。極力目は動かさないように気を付けたはずなのだが。
「そんなこと言われても、警官だからね……不審者のボディーチェックぐらいするさ」
「そうかな? あぁ、ちなみにそこに置いてある宝石は偽物だぞ。他の警備員もそれは承知だ」
「……っ」
なっ――と、一瞬でも内心で驚いてしまったことを、【怪盗】が後悔した時には遅かった。
「ふむ、反応した、な。残念ながら私は疑り深い性格でね……。人と接する時は常に観察を怠らないようにしているからか、人より目が良くなってしまってな。動揺するのを隠そうとする動きくらい、簡単にわかってしまうのさ」
なるほど、と【怪盗】は納得した。先ほどからの噛みつくような視線は、本当にこちらの全ての行動を見逃さないためにあったわけだ。それも【歪み】のある自分の視線をも、見逃さないレベルで、だ。驚くべき観察眼だと言える。観察するつもりが、観察されていた。
――これが、【探偵】…!
「ま、種明かしをしてしまえば、実は同じことを既に何人かに試していてね。お前だけが明らかに不審な動きを見せた。それから導ける真実は一つ。つまり……」
【探偵】とのこの対決は、はっきりと自分の敗北だと【怪盗】の少年は思った。明らかに不審な動きだなどと言われたが、自分の変装が誰かに見破られたのは、これが初めてのことだった。予期せぬ敵との遭遇で、油断もあった。
悔しいとは思うが、素直に相手に敬意を払うべきだと思い、その答えを言わせてやることにした。相手の見せ場を待つのも、【怪盗】の作法である。
「お前の正体は……っ」
【探偵】の少女が、ゆっくりと右手を掲げる。
――あぁそうだ、君の勝ちだ。さぁ、答えを言うがいい。
「【怪盗メインディッシュ】だ!!」
静かな館内に、凛とした声が響く。キメ顔というのだろうか……不敵な笑みを浮かべ、誇らしげに。袖でピシッと音を立てながら、右手でこちらを指す立ち姿は、あまりに美しく。
それを受けた【怪盗】は。
「違います」
即答で。真顔で。淡々とした声で。
そう、否定した。
◇
「「………………」」
場には沈黙が訪れる。【探偵】の少女は自信満々な笑みを称えたまま固まっていたが、しばらくしてやっと、
「……は?」
と疑問の音を吐き出した。【怪盗】の少年はこの段階でとても残念な気分になっていたが、一応彼にも意地があるというか、間違われたままでは悲しいので、言葉を重ねる。
「今この場には既に警官に変装した【怪盗】が潜んでいて、それがここにいる僕である。そこまでは合っているんだが……」
既に変装する意味もない。彼本来の、抑揚のない、平淡な声でそれらの言葉を紡ぐと、【怪盗】の少年は警官の服を脱ぎ捨て、同時にどこからか取り出した漆黒のマントを大きく翻した。そしてマントが動きを落ち着かせた時には、本来の漆黒の衣装に身を包み、能面のマスクを付けた【怪盗】の姿に戻っていた。
「僕は【怪盗X】だ。【怪盗メインディッシュ】じゃ、ない」
そう訂正しながら、【X】は右手を軽く水平に一振りし、マントの袖から今日の分の予告状を出すと、【探偵】に見えるようにかざす。
「今日ここに予告状を出した【怪盗】はこの通り【X】……つまり僕で、【メインディッシュ】は今夜、隣町にある某企業のビルに予告状を出していたはず」
【X】の話を真剣な面持ちで聞いていた【探偵】の少女はようやく、聴覚からの情報を脳で理解するのに成功したらしく、無理して冷静を保っているような顔に冷や汗を一筋垂らし、
「ちょ、ちょっと待ってくれ、【X】……だと? この街には【メインディッシュ】だけでなく、もう一人【怪盗】がいたのか?」
それはあんまりじゃないだろうかと、【X】は思った。少しでも期待した自分が馬鹿だったと、思わずにはいられない。考えてみれば、世界政府直属の大物が、わざわざ【メインディッシュ】ではなく自分の所に来るわけがなかったのだ。そもそも、彼女の所属する【消音装置】とやらには、【X】という存在すら認知されていなかったらしい。いや、彼女がここにいるということは、認知自体はされているのか……しかし、大して重要視されていないのは事実だろう。
自分が6年あまりやってきたことは、一体何だったのか……。自分の【歪み】の強力さ、それに対する自分の抗いの無意味さを思い、笑いすらこみ上げてきた。
くっ、くっ、と声にならない無味な笑いをこぼす【X】に、【探偵】の少女は先ほどとは別の冷や汗を垂らし、
「お、おい……大丈夫か? 【探偵】が【怪盗】に言うのも変かも知れないが……悪かったよ。もう覚えたから、そう気を落とすな」
肩を震わせる【X】に、何故か【探偵】の少女が謝る。
もちろん、彼女にしてみれば知らなかったから間違えた、ただそれだけのことだ。落ち込まれる方が意外だったろう。
ただ彼にとっては、それが――この【世界】に生きる誰もが生まれた時から抱えていて、多かれ少なかれ抗い続けている、他人に触れられたくない――【歪み】、そのものだった。ただ、それだけのことだ。
「別に僕のことは覚えてくれなくていい。どうせ今日が、最後の仕事だから」
「何……? どういうことだ」
「言った通りだ。僕は……【怪盗X】は、今夜をもって引退する。そしてこの街の【怪盗】は、【メインディッシュ】一人になる。もっとも世間では最初から、僕なんていないかのような扱いだったけど」
仮面でくぐもった声は、低く。そこにある感情までは、【探偵】の少女には伝わらなかった。
「そうか」
ただ目の前にいる、自分の捕えるべき相手が、今日を境に姿を隠すということは、
「つまり今が……貴様を捕まえる最初で最後の機会だということだな?」
警察にも捕まらず、【チーム】にもその存在を捉えられていないということは、この【怪盗X】がそれだけの腕を持っているということに他ならない。ここで逃がせば、おそらく足はつかないだろう。
「どうせ辞めるのならば、おとなしくお縄につくのはどうだ?」
そう言いながら、【探偵】は右手で腰のナイフの柄を握り、いつでも引き抜けるように構えをとる。それは明確な、攻撃の意志の表れだった。
一人で来たのは失敗だった――と、【探偵】、織目紗麓は内心舌打ちする。【チーム】の他のメンバーを信頼している訳ではないが、相手がどんな【歪み】であれ、囲むことさえできていれば制圧はそれだけ容易になる。
自分しかいなければ、ここで組み伏せるしかない。外にいる警察たちのことなど、紗麓はハナからアテにしていなかった。
「生憎僕は臆病でね。それは出来ない」
【探偵】の構えを見てとった【X】が、一歩間合いを空ける――いや、空けようと片足を動かしたその瞬間。
既に【探偵】の少女は、懐に飛び込んで来ていた。
◇
「―― っ」
居合いの如く引き抜かれた無骨なナイフが、自らを裂く軌道を取るのを、【X】は残った片足を軸に体を無理矢理ひねることで回避する。そのまま倒れ込む体の勢いを利用して、手を突いて転がるように身を翻し、間合いを取る。そこにすかさず追いすがってきた【探偵】が、ナイフを踊らせるように繰り出しながら、【X】を追い詰めるのを、バク転で躱す。ナイフを逆手に、逆刃に握っているところを見るに、殺すつもりはないのだろうが――【探偵】は【X】に、一撃も喰らう訳にはいかないと思わせる殺気を放っている。
「【怪盗】などやっているような奴が、臆病などと、よく言う。わざわざ予告状まで出して、マスコミをたきつけ警察を挑発して……まるでただの、目立ちたがりじゃないか」
【探偵】のナイフによる高速の斬撃を紙一重で避けつつ後退しながら、【X】も答える。
「そう、目立つハズなんだ、本当なら。現に【メインディッシュ】の方は、毎度大騒ぎだ。でも僕は、そうじゃない……そうはならなかった。何を盗んでも、せいぜい地域新聞の空きを埋める程度さ」
「まるで目立つのが目的そのものだと、言わんばかりだ、なっ」
「その通りだ。そうでもなければ、【怪盗】なんて割に合わない仕事、誰がやるか」
【X】が斬撃の合間に繰り出した、不意打ち気味の手刀による反撃を、【探偵】は左手でたやすく受け止める。死角からの回し蹴りも、持ち上げた脚で応じた。
「何を言うかと思えば、下らない……ただ目立ちたくてやっているだなどと、その辺にいるチンピラ同然ではないか」
「妙な言い方をする。君が【怪盗】に何を期待しているのかは知らないけど……古来【怪盗】をやろうなんて輩は、多かれ少なかれ、ただの目立ちたがり屋ばかりだ。所詮は犯罪者。現実にはロマンも何もない。下らなくて当然だろう」
「!」
動揺したのか、【探偵】が少し大振りになった隙に、【X】は後ろに大きく跳躍して間合いを取った。【探偵】は一旦立ち止まり、息を整える。
「自らを蔑むなど、訳のわからない奴だな。貴様にはプライドはないのか?」
「プライド、ね。犯罪行為を誇りに思えるような奴は、人間じゃない。僕は一度だって、この仕事に誇りを抱いたことはない」
淡々と、鼻で嗤うかのようなその言葉に、【探偵】――紗麓は、反応せずにはいられなかった。自分が今まで対決し、捕えてきた相手は誰も皆、少なからず自分にプライドを持っていた。逆説的ではあるが……そんな誇りある、いわば絶対悪である犯罪者を憎み、自分の正義と対等な敵として捕まえることが、紗麓の【探偵】としての自信――プライドに繋がっていたのだ。
だが目の前の【敵】は、そんな悪は下らないと切り捨てる。それはつまり、それらを捕えることで自尊心を満足させている紗麓自身を下らないと評されたに等しい。
紗麓が相手に下らなくない悪であることを期待しているという指摘は――まさに、図星だった。【怪盗】という、自分の捕まえるべき相手にそれを自覚させられた事実は、彼女の自尊心を大きく揺れ動かした。
「ならばなぜ、貴様は【怪盗】などやっている?!」
激昂して紗麓が構えたのは、ナイフではなく、コートから取り出した拳銃。美術館内だからと、使うつもりの無かったそれを、【X】に向ける。中に入っているのは非殺傷のショック弾頭だが……その威力は、当たればただの怪我では済まないものだ。
「なりふり構っていられなかった。自分の【歪み】に抗うために……目的を果たすためには……、たとえ非難されることだとしても、この方法が一番早いと思った」
「貴様の……目的だと?」
「それを君に教える義理はない。僕は【怪盗】で、君はそれを追う【探偵】だからな。でも、君も多分僕と同じだ。君も、随分と【歪んで】いるみたいだから」
「何を……勝手に私を貴様のような犯罪者と一緒にするな! 私の【歪み】は……私だけのものだ!」
引き金が、引かれる。銃声と、ガラスが割れる音。紗麓の銃から放たれた弾丸は……窓を割っただけだった。間には、何もなく、誰もいない。
「なっ――」
驚愕した。相手がすでに目の前にいないことに、銃を撃つまで気付かなかった。瞬きや火花の閃光で相手を見失う紗麓ではない。だがいつ移動したのか、全くわからなかった。
「そうだ――」
その低音で無感情な声が背後から聞こえたとき――心臓を鷲づかみにされる感覚というものを、紗麓は生まれて初めて味わった。
敵が背後にいることも。言葉をかけられるまで、自分がそれに気付かなかったことにも。
背筋が、凍る。
紗麓は……その【歪み】ゆえ、戦闘の際は敵のあらゆる行動、【歪み】を疑ってかかる。そして、そのどの状況にも対応できるよう訓練を重ねてきたし、実戦もこなしてきた。
銃を撃つ前、【X】は確かに自分の3メートルほど前方にいた。背後に回られる可能性は、地形、油断、あらゆる可能性を考慮しても、ゼロだった。超スピードや超能力、催眠術の類はこの【歪んだ】世界にはありふれている。だから、例えそれらの【歪み】を持つ相手だったとしても、対応は出来ていたはずだった。だが、敵は自分の知るあらゆるパターンに当てはまらない何かによって、銃を撃つ一瞬の間に背後に回ったことになる。しかも、自分に気配すら悟らせずに。
紗麓には、想像もつかなかった。見た事も聞いた事もない【歪み】。その正体。
そうして自分を殺せたはずの【怪盗】は、微塵も殺気を見せることなく、言葉を続ける。
「そう。君の【歪み】は、君のものだ。それは僕にも、絶対に盗めない。【歪み】は一つとして同じものはなく、他人と【歪み】は分かち合えない。それなのに人間は、世界が【歪】み、全ての人間がそれぞれの【歪み】を抱えるようになった今でも、社会を築き続けている。人は、人であろうとする……だから、僕は」
背後をとっておいて、【X】は攻撃もせずに何事か呟いている。声が低すぎるのと仮面でくぐもっているので、良く聞こえないが。自分を相手にしておきながら……否、相手にされていないのだ。
「世界だと、社会だと……」
自分が敵にとってその程度の相手にすぎないと思われていることが、紗麓には許せなかった。
「そんなこと、知るかっ!」
不意打ちには不意打ちを。ノーモーションの後ろ蹴りを、気配のする方向へ鋭く放つ。……だがそれも、空振りに終わる。
気付けば【X】は、まるで初めからそこにいたかのように、紗麓が割ったものとは離れた所にある窓に手をかけていた。
「なっ……貴様、逃げるのかっ!」
「あぁ、そうだ。これ以上君とは戦わない。銃が出てきては、さすがに怖いからな。ターゲットはいただいたことだし、な」
【怪盗】が指先で摘んだ宝石を掲げてみせると、紗麓は目を瞠り、思わずコートをまさぐった。
「馬鹿な、いつの間に!」
「自分で持っているとは、随分とベタじゃないか」
からかうような台詞に、紗麓の顔がかっと熱くなる。
「貴様っ!」
「おっと、怖い怖い。じゃ、そろそろ退散するよ」
「ふざけ、」
「ふざけてなんかいない。僕は【怪盗】だ。変装がばれたら、さっさと逃げるに限る……あぁそうだ、未成年の喫煙は法律違反だよ」
紗麓が銃を構えた時には、【怪盗】の姿は消えていた。まるで初めからいなかったかのように、微塵の痕跡も残さず。
「クソ、【怪盗】……【X】め」
後に残され、なんとなくはぐらかされたような気分になった紗麓は、銃をコートの内側にしまい、そう悪態をついた。
「これは、ハッカパイプだ……」
その後、銃声に駆け付けた警官たちに色々と説明をしなければならず、【探偵】は今日の恨みをいつか必ず晴らしてみせると、そう心に誓ったのだった。
こんな雰囲気でやっていきます。戦闘シーン、盛り上がっているかしら。というか雰囲気でしか書いていないので、設定に関する直せるか分からないレベルの鋭いツッコミは「検討させていただきます」とし、とりあえずゴールまで突っ走る方針です。
ここが厨二:探偵。無骨なナイフ。拳銃。