第三話 奇襲
「お父さんは気付かないだけだと思うよ」
守と崇の父親の件を父に話すと、嫌がらせの件は自分もわかっているが、うちを観察しているというのはさすがにないだろうと言われてしまった。
休日とはいえ、昼間から居間の食卓でピーナツをつまみにビールを飲んでいる父親の前には古い新聞紙が広げられていて、落花生の殻が山積みになっている。
「子どもの頃の話とはいえ、父さんが悪いのは確かだな。お前たちも被害を被って悪いけど、まあ、許せ」
向かいに座っている私は大きな溜め息をつくと、うちの父親も気楽なものだなと思った。
崇からの話を聞いて以来、さすがに肝が据わっている私でさえ、窓ガラスに顔を押し付けてうちの様子を伺っている守と崇の父親の夢をみてしまったというのに。
「そういえばこの間なんて怖~い手紙がポストに入ってたのよ」
それを聞くと父は怖がるどころか、待った!と叫んでヒントをくれと、まるでクイズ番組の答えを考えるようなノリになった。
「ヒントも何も・・・、『不幸にする』って書いてあったの」
「ああ、そうくるかぁ」
手のひらを額に当てて能天気に残念がる父を見ていると、いまだに父への報復に固執している守と崇の父親が不憫に思えてきた。
人生の大半を無駄にしている。
同じ車両の中によく鳴る携帯の持ち主がいるので耳触りだなと思い、居眠りから目を上げると、斜向かいの席に守の彼女が座っていた。
携帯に夢中になっている彼女をじーっと見ていると、守とは既に親密な関係になっているのだろうかと思った。
どうしても彼らがそういう仲だということを想像できないし、あのように非の打ちどころのない彼女と熱愛中なのに守はなぜ私と一夜を共にしたのだろうかと不思議になった。
ついでに守と抱き合ったことを思い出してしまった私は、再び悔恨の思いに駆られた。
若干歳はいってそうだが、守の父親も彼女のような人が相手なら私のように仲良くするなとは言わないのだろうなと思った。
携帯を耳に当てて何やら話している彼女の方向へ耳を澄ましてみたのだが、全く聞き取れない。
おっとりしていそうなのに意外と早口だし、電車の中で電話をすることを躊躇わない人なのだなという印象を受けた。
地元の駅に着くと、自転車置き場に向った私はカバンの中に鍵が無いことに気が付いた。
いくら探してもないので自転車につけたままの状態なのかと思い、確認してみたのだが、そうではなかった。
「ついてないなー」
ぶつぶつ言いながら鍵が落ちていないか周りを見回していると、背後から探しものですか?という声が聞こえてきた。
驚いてびくっとした私は、その声が守のものだとわかると軽く舌打ちした。
「なんだ、あんたか」
鍵をなくしたの?と呑気な声で聞いてくるので、そうだよ、悪いか!と言った。
すると守は声を弾ませて一緒に探してあげるよ!と言ってきた。
「そうもいかない」
「どうして?」
ポカンとして頭を捻る守に私は冷ややかな視線を送った。
「あんた、これから彼女と会うんじゃないの?」
「ううん。帰るだけだけど」
「そうなの?」
おかしいなとは思ったのだが、結局私はいま守の自転車の後ろに乗っている。
鍵は見つからなかった。
「あんたの彼女ってエルメスのバッグ持ってる?」
守はママチャリをキコキコと漕ぎながらうーんと考えると僕は女の人のバッグの違いとかはわからないからと言った。
イレギュラーに耳に入ってくる車の音や学生たちの声を聞きながら、高校生の頃もこんなふうに守と二人で自転車に乗ったりしたなと思った。
もっとも、漕いでいたのはもっぱら私の方で、スピードを緩めないで坂を下ると守が私にしがみついてキーキーと鳥のような声を出すので相当おかしかった。
家まで目と鼻の先の横断歩道で信号が点滅し始めたので、守は迷わずブレーキをかけた。
ここは止まらず加速だろうがと思っていると、突然背筋がぞくっとした。
誰かに見られているような気がしたのだ。
それも至近距離で。
人に想いを寄せる恋心のようなものではなく、殺意のこもったような刺すような視線だった。
「聞いてる?」
少しの間、魂が離脱していた私だったが、守の間の抜けた声によって呼び戻された。
周りを見回したが、数人の下校途中の学生が笑い転げているだけだ。
「何か言ってた?」
冷や汗を拭いながら震える手で守の腰に強めに捕まると、守は来週は三連休だが私はどこかに行く予定があるのかと訊いてきた。
「別に・・・、家で寝てるか、男と寝てるかどっちかじゃない?」
愛想のない声で言うと、守はつかの間黙ってしまい、再び口を開いた。
「その人ってまた家庭を持ってる人?」
なんとなくカチンときた私は、今度の人は不倫じゃないわよと抗議した。
見飽きた住宅街を走り終えると、家の前に到着した私たちはしばし呆然とした。
「ひどいな・・・」
ほとほと参った。
うちの家を囲んでいる壁にはいまだかつて見たこともないほど広範囲のいたずら書きで埋め尽くされていた。
「華ちゃん・・・」
普段ならばその悪質な行為の犯人を間違いなく守の父親だと思ってしまう私の頭の中には、守の彼女の顔がなぜだか浮かび上がっていた。
近所付き合い、大変ですね。