保育園で椅子の上に給食を置き、正座して食べさせるなど、虐待を疑わせる行為で育った人の雑文
先日、ニュースで『保育園で椅子の上に給食を置き、正座して食べさせるなど、虐待を疑わせる行為』というのを見て、「あれは虐待だったのか」と衝撃を受けました。
私が園児だった頃、もう30年以上前ですが同じことをされていたのです。
私は、好き嫌いも食物アレルギーも無いので基本的にはなんでも食べられるのですが、飲み込むのが下手でいつまでも噛んで飲み込むタイミングが掴めない子供でした。
今もそうなのですが、恐らくはADHDの集中力の関係と、チック症が関わっているからでは?と自己分析しています。
ご飯は絶対に残してはならず、食べ終わるまで動けないルールだったので、保育園では昼ごはんを食べ終わった後午睡の前の絵本タイムの間も一人ハブられて、ご飯を食べていて、絵本が終わって皆が遊戯室(体育館みたいな広い部屋)に移動していなくなってしまっても、一人でご飯を食べていて、皆が午睡している間も、一人でご飯食べていました。
振り返ってあの時間帯は何時から何時くらいだったのか調べると、12時半くらいから3時前くらいだったそうです。
一応午睡時間には間に合って食べ終わっていた記憶があるのですが、3時からおやつタイムがあり、私はこのおやつも苦戦していました。
周りの子供が食べ終わって遊び始めると教室で食べることができなくなり、物置みたいな場所に移動して一人でおしゃぶり昆布みたいな奴とかずっと噛んでいた思い出があります。
保育園の思い出は、この物置部屋で親が迎えに来るまで一人でおしゃぶり昆布やお魚アーモンド食べていた記憶しかない。
のちに「小学校に入学した時に一番嬉しいことはなんですか?」と聞かれた質問に、「給食残せること」と答えたらしい。
あの時代はそれが当たり前だったので、虐待だと全く気が付かなかったが、やっぱりあれは虐待だったのか、と気がついて、もう時効だろうしどうすることもでき無さそうなので、あの日の無念をぶちまける思いでこれをかいている。
それで、検索してみると、『給食指導がトラウマになり食事が嫌いになる大人が増加』なるブログなどの記事を見つけるに至る。
あの日、あの空間では一人だったのだが、日本全国では沢山同じ状況の人間がいたのだとわかった。
同時に、これらを問題であると声を上げていた人たちがいたからこそ虐待だと言われだしたのだろうが、今の時代でも同じ出来事が起きているのは恐怖である。
ご飯を残さず食べないといけないルールで育った人はどうなったのだろうか。
私の場合は、某アニメでフクロウの女の子が「美味しいものを食べてこその人生なのです!」と言っていたが、「あ、そう……」と食べることにまず興味がわかず、「その饅頭ドリンクにして飲めるようにしてくれればそっちでいいんだが」と思うのであった。
しかし、味覚や空腹感は一人前にあるので、食事は本当に苦痛でしか無い。
用意をされればもったいないので食べるが、料理の大変さは理解しているので申し訳なくなる。
作ってくれてありがとうという気持ちを表現したいのに、それが出来ないのは本当に申し訳ない気持ちで辛い。
学生時代一人暮らしをしていた、食事はシリアルと野菜ジュースの裏の栄養表示の文面を信じてそれだけで過ごしていたら、同級生に「そんな生活していたら死ぬぞ」と毎日ごはんを作りに来てもらえた時があり、めちゃくちゃ感謝していたのに余り伝えられてなかった気がする。
実際にあの生活は無理があった、あの時の血液検査は今はできないが、恐らくアルブミンあたりが絶対
足りなくて低栄養状態だったはず。
それだけ追い詰められて食事の重要性に気付いていても、一人でいると食事を抜いてしまう。
複数でいる時も、食べるスピードが遅く、周りが食べ終わっても食べているので、一緒に食べる人を待たせてしまい申し訳ない気持ちになって、はやく食べなきゃと焦りチック症が加速する。結局味を楽しむ余裕もなくなる。
そんな食関係で悦びを得られることはもう無いと諦める私ですが、その反動なのか、食事を美味しそうに食べる人が好きで、自分の代わりにいっぱい食べてくれて幸せそうにしているのを見ると共感意識で満足することに気がつく。
自分が唯一食関係で幸せを感じる方法だったりする。
自分は食べないで、隣で美味しそうに食べてくれる人がいたらいいなぁと思う。
美味しいからと一口分けてくれた時、初めて自分も食べることが嬉しくなったことを覚えている。