新玉 4
宇迦之御魂神の御利益は家内安全、除災招福様々だが、その中に商売繁盛がある。よって江戸の商人達も
多く参拝に訪れる。
パンパンッと景気の良い柏手を打ち拝殿前で頭を下げたのは、江戸にある団子喫茶「さくら屋」の従業員達だ。拝礼する相手である主祭神は目の前に立っているのだが、人はその姿を捉えることができない。
一同が参拝を終え甘酒を貰おうと拝殿に背を向けた時、その一団を抜けて一人の女性が拝殿奥へ顔を出した。さくら屋で看板娘を勤める燐。彼女の正体はろくろっ首であり、店の常連でもある稲荷大社の面々とは以前から顔馴染みだ。
「あけましておめでとうございます!昨年もさくら屋をご贔屓にしてくださってありがとうございました!」
「こちらこそいつも美味しいお団子をありがとう。今年も宜しくお願いね」
「任せてください!灯華様からそう言ってもらえたなら、我々も本望ですよ」
灯華の言葉に燐は破顔し大きく頷いて見せると、「それから」と声を落とした。
「実は今、新作の菓子を皆で考案中なんです。出来上がったら、いち早くお持ちします」
「楽しみにしてるね」
「ありがとうございます!頑張って作りますね!」
燐が走って行った境内はいつの間にか多くの人で溢れ、拝殿前は参拝を待つ人が列を成していた。
「・・・」
灯華は静かに、拝殿の前に立って手を合わせる人達を穏やかな瞳で以て一人ひとり眺めていく。
そして少しだけ俯きながら、そっと目を閉じた。
* * *
冬の黄昏時は短く、あっという間に辺りは真っ暗な世界へと変わる。
昼間の賑やかな空気から一転。静寂の訪れた境内では、拝殿まで続く参道の脇に建てられた灯篭に火が灯され、参道にほんのりとした橙色の光を溢していた。
風も吹かず虫の音も聞こえない、深い水の底に沈んだような空間に、灯華は1人拝殿を背に立っていた。
彼女が身動き一つせず見つめる先には、転々と続く灯篭の光と暗闇に沈んだ鳥居があるばかり。
やがて空には星が瞬き、東の空からは太陽に代わり明るく輝く月が昇りだした頃。
さらさらと布のこすれる音が、参道の奥、鳥居が立ち並ぶ階段下から聞こえてきた。
その音はやがて階段を登り切り、灯華の目線の先に現れた。仄かな月明かりが、その音の主を照らし出す。
「あけましておめでとうございます。狐の君」
灯華のことを「狐の君」と呼ぶのは、月読命の神仕である葵葉、ただ1人。
地面に根を張ったように動かなかった灯華は、そこでようやく1歩、2歩と歩を進め、彼の表情が見られるところまで近付いた。
「あけましておめでとう、葵葉」
灯華からの挨拶に、月明かりに照らされた彼の表情にふっと穏やかな笑みが浮かぶ。しかし同時に眉尻が下がり、小さく溜め息を溢した。白い息が暗闇に吐き出され、溶けていく。
「すみません、こんな夜分に。もう少し早く伺いたかったのですが、思いの外挨拶に時間がかかってしまって・・」
「こちらこそ、わざわざこちらまで赴かせてしまってごめんなさい。高天原を回るだけでも大変だというのに」
彼の仕えている月読命は、八百万の神々の中で最上位とされる天照大神の弟神にあたる。その名の通り月を司る月読命は、夜の国を任されると同時に、神々の住まう国、高天原の管理も兼任しているため仕事量は膨大だ。
そんな神の神仕となれば、当然元旦の挨拶回りも刀羅達よりも桁違いに長くかかる。普通なら高天原にいる神々全ての下へ赴くだけで精一杯なはずで、灯華達が住まう中つ国まで足を延ばす余裕はない。
「いいえ。月詠様からも、こちらへの挨拶は欠かさぬようにと仰せつかっていましたので」
そう言って一息つき、それにしても、と言葉を足した。
「こんな刻限に、どうして外に?」
黄昏時を過ぎた刻限であれば、神であれ人であれ屋敷に戻る。冬場であれば尚更だ。
「・・ずっと、聴いていたの」
境内をゆっくり見まわしながら、灯華は答えた。
人々の願いや祈りは、全て彼女の耳に届く。
参拝が行われている最中も、そして参拝者が帰った後も、境内に満ちた願いと祈りに灯華は耳を傾けていた。
家族の健康、一族の安泰、豊作の祈願・・思い思いに紡がれる願いや祈りと同時に届くのは、八百万神への感謝の言葉。これらの行為は全て信仰と呼ばれ、それはそのまま神々の力となる。
神はその力で人を生かし、人の信仰によって生かされている。
人の信仰なくして、神は存在し得ない。
-神を神たらしめるもの
一度は見失いかけた、自分の存在、立場、役目。
それらを取り戻させてくれたのも、人の願いと祈りだった。
「毎年この日になると、自分が皆の為にあるんだってことを改めて実感するの・・」
だから自分は、神は、皆の為にあるのだと。
「・・それなら私にとっての元旦は、改めて自分が月読命の神仕だということを実感する日ですね」
葵葉がぽつりと呟くと、灯華は視線を彼に戻して首を傾げた。
「どうして?」
「普段なかなか仕事をなさらない月詠様が、この日だけはきちんと正装をして、月読命として威厳を以て挨拶をなさっていますから」
苦笑を交えながらの返しに、灯華はくすりと笑う。2人の交わす言葉が冬の空の下にしとやかに響く。
と。
突然拝殿の扉が開き、中から暖かな光が溢れ、灯華達の足元まで照らし出した。
「あーっ葵葉!!灯華様から離れろー!!」
それと同時に拝殿から鏡夜が勢いよく転がり出てきた。そのまま殴りかからんばかりに走ってきた彼を、
葵葉ははらりと軽やかに後退しながら避ける。
「なんで来たんだよ!僕達ちゃんと月詠さまの所に挨拶に行ったよ!!」
「遠い所までありがとうございます。今年も宜しくお願いしますね」
「お前とは宜しくしないもん!いいから早く帰れよー!」
ぷりぷりと頬を膨らませ肩を怒らせている鏡夜に、葵葉は「困ったな」というように頬を掻きながらも灯華を見遣り、一礼した。
「それでは、私はこれで。-どうぞ、良い年をお過ごしください」
「えぇ、どうか葵葉も」
言うなり彼は手にしていた羽織を肩に掛けて踵を返すと、鳥居の向こうへと歩いていく。真白な衣装が夜の闇に紛れ、足音が聞こえなくなると、ようやく灯華は鳥居を見つめるのをやめ、傍に立つ鏡夜の手を取った。灯華から繋がれた手を握り返しながら、鏡夜は灯華を見上げた。
「・・灯華様は、何をお願いしていたの?」
「え?」
「だって、昼間ずっと外で目を瞑っていたんだもん。灯華さまも、何かお願い事をしていたのかなあって」
「・・鏡夜は、何かお願いしたの?」
鏡夜の顔に、日を浴びたような明るい笑顔が浮かぶ。
「うん!あのね、灯華さまも、刀羅も、豊も実も火守さんも、皆が今年も元気でいられますようにって!」
新しい年が生まれた日。
人は、1年の恵を願い、世の安寧を祈る。
ならば、神は?
「-私も、鏡夜と一緒かな」
「ほんと!?」
「うん」
-皆にとって、良い年でありますように
-皆の為の、良き神でいられますように
そんな願いと、誓いを胸に。
日の国の新たな1年は、始まっていく。
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あらたまの【新玉の】:「年」「月」「日」「日経」「春」にかかる枕詞。