新玉 2
新年を迎えた神社の朝に、寝正月と言う言葉はない。
歳旦祭が行われるのは新年を迎えてすぐ、即ち真夜中である。
その後は神仕が各地へ走り、繋がりの深い神の元へと挨拶へ向かう。
「あけましておめでとうございますー!っってふわああ!?」
「馬鹿者!新年の挨拶ぐらい落ち着いてしろ!」
稲荷大社を最初に訪れたのは、武甕雷神である鳴霆の神仕、鳴亜である。
挨拶と共に拝殿前の階段に躓いた鳴亜を叱りつけた鳴霆は、拝殿まで出迎えに来た灯華へと向き直るや背筋を真っ直ぐに伸ばし、折り目正しく頭を下げた。続いて鳴亜も頭を下げたが、勢いよく頭を下げた為に目の前にあった賽銭箱に額を激しく打ち付けた。
彼らもまた普段とは違う白の装束に身を包んでおり、どうやらこれが鳴亜にとっては動きにくいものであるらしい。
傍でこの様子を見ていた豊は案の定吹き出し、台所からお茶を持ってきた実に頭を叩かれた。
額の痛みに悶絶する鳴亜を尻目に、
「あけましておめでとう。すまんな、新年早々・・」
溜め息と共に挨拶をする鳴霆に対し、「そんなことないですよ」と灯華は微笑んで、改めて頭を下げた。
「あけましておめでとうございます。・・これから、告曜さんの所へも?」
「挨拶回りが全て終わったらな。毎年のことだから心配はないだろうが、宵月だけが看ているのも大変だからな」
神々の間で行われる新年の挨拶は、神自体は社へ残り神仕が主の代わりに他の神の元へと挨拶へ向かうのが通例だ。しかし鳴霆と鳴亜の場合、鳴亜がきちんと1人で挨拶に行けた試しがないため、主の鳴霆共々挨拶に回っている。
逆に告曜と宵月のように新年に挨拶に回らない者達もいる。というより告曜の場合は、年末に行われた大祓で多くの厄を負うために、その疲労からこの時期は自分の社で寝込んでいるのだ。
「そういえば豊お前、この前の祭儀中に告曜を笑わせてあばら骨を折ったらしいな?」
立ち話もなんだから。と一旦拝殿の奥に入りお茶を飲んでいる最中、鳴霆はふと思い出したように豊に向けて話題を振った。
「あー・・やっぱり鳴霆様にもその話、伝わっていたんですね」
頭を掻きつつ苦笑する豊に、鳴霆は口の端を少しだけ持ち上げた。
「祝詞を上げる最中に爆笑する宮司なんて前代未聞の話だからな。割と広まっていたぞ」
「さっきもそのことで、刀羅に小言を言われてたんです」
「だろうな。・・まあ、あいつの怪我については大丈夫だ。むしろあんなに笑ったのは久しぶりだったと楽しそうにしていたぐらいだからな」
その言葉に、豊は小さくほぅ・・と息を吐いた。いつも通りに笑っていつつも、気にはかけていたのだ。
そうして5人が火鉢を囲みながら雑談を交わしていたところ、閉めていた拝殿の扉がカタンと音を立ててゆっくりと開かれた。
「・・あけましておめでとうございます」
抑揚の少ない細々とした声と共に、扉の向こうに潜む暗闇の中から現れたのは、上から下まで真っ白な女性。
「琉沱さん、あけましておめでとうございます」
いち早く彼女に気づき声を掛けた灯華に対し、闇淤加美神、澪浹の神仕である彼女は無表情のまま深々と頭を下げる。
「主様から、『今年も神としての威厳を忘れぬように務めなさい』との言伝を承りました」
それだけ言うや否や、彼女はすぐに扉に手をかけた。
「もう行かれるんですか?お茶もご用意できてますけど・・」
急須と湯呑を持ち出した実が声を掛けると、琉沱は扉を閉めかけていた手を止めた。
「遠慮しておくわ。まだ挨拶回りが済んでいないのよ」
「お茶ぐらいゆっくり飲んでいけばいいのに。実ちゃんの淹れてくれるお茶は美味しいよー」
鳴亜の言葉にも、琉沱は小さく首を横に振った。地に着くほどに長い髪がそれに合わせてゆらりと揺れる。
「いいえ、これは一刻を争う問題なのよ。此処でお茶を頂いている時間は妾にはないの」
「なんで?」
お茶を啜りながら呑気に尋ねる鳴亜とは裏腹に、琉沱は語気を強め、扉に掛けた指に力を込める。
みしりと嫌な音がした。
「主様は今お一人で社にいらっしゃるのよ!!神仕の妾が!新年を主様と離れ離れに過ごすなんて耐えられない!」
普段の大人しい姿は影を潜め、目を爛々というよりギラギラと妖しい光を宿して見開くその姿は、まるで一度絡み付いたら決して離れない、執念深い蛇のようだ。
「早く用事を済ませてあの方のお傍にいることが妾の務めよ!そうでしょう?そうなのよ!!
だからここでのんびりとお茶をするわけにはいかないのっわかったかしら鳴亜!?」
饒舌に畳み込むような口調で責められ、なす術もなく無言でこくこくと頷く鳴亜を見ると、何事もなかったように表情は冷め、元の琉沱へと戻る。
「それではこれで失礼。あぁ、それと鳴霆様、主様も後程告曜様の元へ向かいますので」
そして言うと今度こそ扉を閉め、颯爽と新年の夜へと消えて行った。
「琉沱さんは相変わらずですね」
灯華の一言に、皆黙って首肯した。琉沱の主に対する異常なまでの忠誠心と執念は周知のことなので、今更驚きはしない。
「新年になって突然変わるわけでもないだろうからな。悪化はしていそうだが。・・さてと、俺達もそろそろ行くか。おい鳴亜、いつまで菓子を食べてるんだ!」
「えっ?あっふぁい!」
湯呑を御盆に戻し立ち上がった鳴霆に引き続き、鳴亜も口いっぱいに菓子を頬張りながら慌てて立ち上がった。
「告曜さんと宵月君に宜しくお伝えください」
「あぁ。それではまたな」
拝殿を後にする鳴霆と鳴亜を見送りながら、豊が「そういえば」と灯華に向けて口を開いた。
「告曜様の所へは、刀羅と鏡夜は挨拶に行かないんですか?」
「私達が行くと告曜さんが負った厄を移し持ってしまうから、行ってはいけないの。挨拶に行って告曜さんと一緒に過ごすことができるのは、長く付き合いがある鳴霆さんと澪浹さんの二柱だけ」
「そうなんですか・・と、灯華様、またどなたかいらしたみたいです」
「山神様の神仕だわ。実、お茶の用意をお願いできる?」
「はい」
江戸稲荷の総本山たるこの神社にも勿論多くの神仕が訪れる。
主祭神も宮司も巫女もその対応に休む暇なく立ち回り、新年の夜は過ぎていく。