#2 夜を薙ぐ風 4
「映像記録?」
「ええ。スーツ姿の変な男が、私に見せてきたの」
そもそも何でユリアが夜市と果し合いになったのか。その過程を語る上では決して欠かせない男の存在を、ユリアは他の面子に下校がてら語るのであった。
「この目でしっかり見たわ。あなたが相手の木刀と道着、皮膚を木刀一本で斬り裂いたのを。たしかに凄いとは思ったけど、最初は戦う気が何故か起きなかったの。でも徐々にやる気が出てきて……つい、出来心で」
自分で口にしといて、かつてこれ程恥ずかしい事もなかっただろう。
「まあ、負けてしまったけど」
「どっちが勝ってもおかしく無かったよ、あの勝負は」
自然と輪に紛れ込んでいた緑子がフォローする。そういえば、彼女に関しても少し気なる事がある。
「そういえば、あなたは全然私達を嫌わないのね」
「え? どうして?」
緑子がぽかんと首を傾げる。彼女は自分らより一年上の先輩で、全日と定時の不仲説を暗黙の了解で知っていると踏んでいたのだが。
「まあ、全日と定時の関係は知ってるっちゃ知ってるけど。だから何だろう、って感じ?」
「みんな野桜先輩みたいに考えられたら良かったものを」
夜市が夜空を仰ぎながら嘆息する。目が少し泳いでいるあたり、先刻の疲れが色濃く出ているらしい。
「まあいい。話を戻そう」
夜市が気を取り直すように言った。
「ユリアさんよ。そのビジネスマン風の奴、日本人だったか?」
「ええ。それがどうかしたの?」
「いや。なら良いんだ」
何処か安息したような夜市の仕草に、意外にもあかりが反応する。
「相手が日本人なら、少なくとも雅さんじゃないんだね」
「あの人だったらこんな回りくどい形で俺とユリアさんの衝突を誘発しないだろう」
夜市とあかりが何の話をしているのかは知らないが、どうやらスーツ姿の男と聞いて知り合いの何者かを連想したのだろう。深くは追求しまい。
話して歩いているうちに帰路を分かつ場所まで来たので、あかりはいままで歩いて引いていたママチャリに乗って走り去り、緑子はその反対側へと歩いていった。夜市とユリアは家の方向が同じなので、途中までは一緒だ。
暗い路地を歩くうちに、小さく古びた一軒家にたどり着く。あれがユリアのホームステイ先で、一階では鍛冶屋が運営されており、二階が本当の住居になっている。
夜市が店の風情を目にして感嘆を上げる。
「ほえー、いまどき鍛冶屋さん」
「ここのマスターが私の父の古くからの親友なの。オーダーメイドでプロの料理人が使うような包丁を制作したり、日本刀を打ったり、他にも色々な金物を作ったりしているわ」
「それなりに儲かってるんだな」
「ええ。じゃあ、私はこれで。おやすみなさい」
「ああ。また明日」
ユリアは手を振って夜市と別れ、店の正面口から戸を開いて中に入る。
帰宅して早々。ユリアの足元で、この家のマスターが血の池に沈んで倒れていた。
「マスター……?」
立ち尽くすも、状況を把握するまでには数秒とかからなかった。
少々恰幅のよい体格の壮年男性――彼は間違いなく、この鍛冶屋のマスターである源藤巌だ。その彼を中心とした赤黒い血だまりが遅々として広がり、ユリアのつま先に触れる。
この瞬間、ユリアはようやく叫びを上げ、倒れる巌に縋り付いた。
「マスターっ! いや……マスター、起きて! 起きて!」
いくら叫んでも、巌が起き上がる気配は無い。脈は――ある、が、徐々に弱まっている。
「おい、どうした?」
背後には、さっき別れたばかりの立風夜市が立っていた。いましがた上げたユリアの叫びに反応して、すぐに戻ってきたのだろう。
ユリアは首だけで彼に振り返り、震えながらも声を絞り出した。
「マスターがっ……私が帰った後、倒れてて……」
「救急車を呼ぶ。その人には触れるな」
夜市も状況を把握し、すぐに自分のスマホで救急車を呼んだ。的確にいま自分達が置かれた状況、患者の容態を説明し、彼はすぐに彼の傍にしゃがみこんで脈を取る。まだ生きている事はユリア自身も確認済みだが、処置が遅れると取り返しのつかない事になるのは明白だった。
夜市は通話を終えるや、ユリアの両肩を持ち、まっすぐこちらの双眸を覗き込む。
「落ち着いて。すぐに救急車が来る。病院には僕も随伴するから」
「っ……あなたはここに残ってて。怪我が怪我だけに、警察もここに来る筈だから」
「そうだな。じゃあ、病院への同伴は君だけで大丈夫?」
「ええ。あなたは警察の人に事情の説明をお願い」
巌の容態が心配で気が気ではないが、いまの自分に出来る事は、せめて救急車が来るまでにとりあえず気を落ち着かせるという一点だけだ。だからこそ、彼との受け答えもどうにかまともにこなせた。
救急車とパトカーは、思いの外早く訪れた。救急隊員がストレッチャーに巌を乗せて、即座に救急車に収容。ユリアも手短に事情を説明し、夜市を残して救急車の中に乗せてもらう事となった。
ちなみに、愛用の薙刀は夜市に預かってもらった。病院に連れて行くには、あの長物はどうしても物騒なお尋ねモノになりかねなかったからだ。
遠ざかる救急車のテールランプの赤色光を見送り、夜市は訪れた警官の一人に事情を説明していた。ユリアが帰宅したら、そこの家主が血まみれで倒れていたというだけなので、別に説明に苦労する事は何も無かった。時間に比例して野次馬達が増え、現場を取り囲んでいたが、特別気にする程でもない。
「――分かりました。一応、現場に居合わせたって事で調書を取りたいんだけど、いまの時間は大丈夫ですかね。親御さんに連絡は?」
「俺、アパートに一人暮らしなんですよ。親はいま海外に出張してますんで」
「あらそうなの。まあ、どのみち高校生をこんな時間から連れ出すのは忍びないんだがね。状況が状況だから、悪いけど付き合ってもら――」
警官の言葉がいきなり途切れる。次にその口から溢れたのは、続く言葉ではなく、一筋の赤黒い血液だった。
目の前の制服警官が膝から崩れ落ちる。夜空に晒した彼の背中には、開かれた瞼みたいな形をした赤い穴が空いていた。
「YO、坊ちゃん」
倒れた警官と入れ替わるように夜市の目の前に出現した男は、見るからに軽薄そうなラップ小僧だった。
夜市は身を引いて、思わず相手の挨拶に対して怒鳴り返した。
「何だ、お前は!」
「自己紹介はちょっと待ってくれたまえYO」
ラッパー男の姿が視界から消えたかと思ったら、今度は事件現場となっていた鍛冶屋の玄関口から悲鳴が上がる。振り返ると、既に中にいた警官達は急所を切り裂かれて玄関の床で転がっていた。
ただ一人、暗闇の中で二本の小刀を携えて立つラッパー男が、首だけでこちらに振り返る。
「俺の名は鏡星影夢。ファーストネームは星と影と夢でポエムって読むんだYO」
「どうでもいいんだよ、このDQN野郎!」
奴の目的が何であれ、少なくともこれ以上はあの男が振り回す小太刀の錆を増やす訳にいかない。ユリアから預かった薙刀を絹の袋から抜き放ち、星影夢とかいうふざけた名前の男に最速の突きを繰り出す。
しかし星影夢はその一撃を軽業師並みの体捌きでかわし、夜市の頭上を一息に飛び越えて玄関口からいとも簡単に脱出。外に控えていた残りの警官達に向けて、走り出す。
警官達は狼狽えながらも、どうにか腰のホルスターに収めていた小型のリボルバー拳銃に手が伸びる。だが、世界一凶悪なポケット兵器の引き金を引くより早く、星影夢が標的へとたどり着く公算の方が非常に高い。
夜市は相手の動きを読み、いましがたこちらの背後に回り込んで警官に向けて駆け出した星影夢の背中を狙って再び突きを放つ。しかし、またも鋒が虚空を突いた。こちらの刺突が背中に届く直前、星影夢は振り向かないままに横へ逸れて回避したのだ。
後ろに目でも付いているのか――舌打ちしながら驚くが、もうそんな余裕は無い。
星影夢が振り返り、こちらにターゲットを切り替えて接近してくる。無論、近づかせるつもりは無い。先程のユリアの動きを参考にして、片足を軸に回転しながら、薙刀を振りかざして相手との距離を強制的に限定する。
星影夢が立ち止まり、小太刀の刃を自らの視点の先で交差させる。
「すげぇや。ユリアたんと一回ヤっただけで、もう薙刀術の動きを把握したのかYO。さすが、十年に一度の天才と呼ばれるだけはある」
「お前がユリアさんの家主をやったのか」
相手の茶々に付き合わず、夜市が鋭い声で問いかける。
「そうだYO。ま、本気で殺す気は無かったけどNA」
「お前の目的は何だ?」
「そいつを教えたら面白くないだろ?」
星影夢が横目で警官達を見遣る。彼らは既に銃を抜き出して射撃体勢に入っているが、一向に発砲する兆しを見せない。どうやら、対峙している夜市を巻き添えにしないかどうかを心配しているらしい。
どうする? いまはこの場を警官の一斉射撃に任せて、自分は身を引くか? だが、星影夢の身のこなしから考えて、その一斉射撃による弾幕の嵐をも掻い潜ってくる可能性すら否めない。そうなれば、余計な制服の死体が路上に転がるだけで終わってしまうだろう。
夜市が今後の行動策を思案していると、ごすっ、という鈍い音が星影夢の頭から聞こえてきた。
「ぬぉっ、痛っ!」
星影夢の頭を跳ねて地に落ちたのは、中身が入ったジュースのスチール缶だった。缶を覆う結露の汗から察するに、たったいま買ってきたものらしい。
「夜市、いまだ!」
聞き覚えのあるやかましい声。ふと移した視線の先では、さっき別れた筈の秋津あかりが、興奮した様子で拳を突き出していた。
「何だか知らないけど、やっちゃえやっちゃえっ」
「何でここに……ていうか、バカかお前は!」
彼女が何故この場にいるかはこの際どうでもいい。問題は、彼女の空き缶攻撃を受けて、少し苛立ったような顔を見せる星影夢の方にあった。
「HEY、お嬢ちゃん。超痛いんだけど? 血ィ出てますよ、ほら」
「逃げろ、あかり!」
このままでは、あの小太刀二刀流の殺人鬼が野次馬の群れに殺到してしまう。
あかりが危ない――自らの死にも等しい感覚を覚えた夜市の行動は早かった。
パトカーのバンパーの上に乗り、回転しながら跳躍。一瞬で星影夢とあかりの間に立ち、いましがた駆け出した相手の額に、跳躍の際に乗せていた緩急を加えた最速の一閃を放つ。星影夢は予想外の一撃に対処しきれず、直撃と共に後ろに転倒。しかしすぐに体勢を立て直し、三歩後退。こちらの様子を鋭い目つきで伺ってくる。
夜市は自分でも信じられない程に冴え渡った集中力を解き、背後のあかりに怒鳴り散らした。
「後で失神する程の説教をくれてやる、覚えてろ!」
「うっ……」
夜市の剣幕に押され、あかりが大きくたじろいだ。
対する星影夢は、じっとこちらを見つめてから、どういうつもりか知らないが、二本の小太刀を両腰の鞘に納めてくれた。
「そろそろ時間だYO。続きはまた今度、って事で」
「何だと?」
「あばYO」
元の軽薄なテンションに戻り、星影夢が跳躍。周囲の一軒家の屋根を、まるでアスレチックの足場のように飛んで跳ね、やがてその姿が完全に見失われる。
夜市は完全に脅威が去った事を確認すると、すぐに振り返って、規制線を隔てた向こう側にいるあかりの前に歩み寄る。
あかりは少し怯えたような眼差しをこちらに向ける。
「あ……あの……」
「何でこの場所に?」
有無を言わさずに尋ねる。まずは、一番気になる疑問を解決しないといけない。
「……お母さんが家に帰ってなくて、家の鍵を中に忘れたから入れなくって。だからそこらへんを自転車で走って時間を潰してたら、こんな事に……」
「で、こんな場所まで死にに来たってか。しかも最悪、周囲の野次馬連中まで巻き込んでたかもしれないんだぞ」
「ごめんなさい」
「……まあ、いいさ」
夜市はため息混じりに言った。
「次からはあんな真似は絶対許さない。あの程度の奴なら、誰の助けもいらなかったしな」
とはいえ、あくまでこの恫喝は気休めに過ぎない。あのキラキラネームのラッパー男は思った以上の遣い手だ。あれと再び剣を交えたら、次に立っているのがどっちになるかなど分かったものではない。
あかりは夜市のそんな懸念を知ってか知らずか、落ち込んだ様子で頭を下げた。
「分かった。もうやらない」
「反省してるならそれで良し」
口ではこう言っているが、内心では少し不甲斐ないな、と感じてしまう。
何で俺はこうもあかりに甘いのだろうか。本当だったら嫌われるくらいの罵詈雑言を叩き込んでも良いぐらいの過失だったのに、どうして俺はすんなり許した? 別に心が広いという訳でもないというのに。
夜市がそうして悶々と悩んでいるうちに、増援のパトカーと救急車のサイレンが同時に遠くから響き渡ってきた。
長い夜だったな――そう感じさせる程に、今日は色々あり過ぎた。
長い緊急手術の果てに、源藤巌は一命を取り留めた。手術に携わった医者の話によると、刺されたらその場で死んでいてもおかしくない程の傷と失血量だったので、この手術の成功は数少ない奇跡としか言いようが無いとか。
そういえば、巌は鍛冶屋を運営する以前に、古い流派の剣術を修めていた剣豪だったという話を聞いた事がある。いまは足を悪くしてしまったので剣の道からは遠ざかってはいるが、鍛えられていた体は彼の生命力に嘘をつかなかったのだろう、こうして一命を取り留める一助になっていたのかもしれない。
とはいえ、意識は未だに回復していない。血液量も輸血パックの補充によって回復しているので、あとは患者の意思次第だ。
ユリアは巌の搬送先である四季ノ宮第一病院の待合ロビーのソファーで、意気消沈しながら腰を落ち着けていた。大切なマスターの生死が決まる瞬間まで緊張が解けなかった分、解放された時の安心感はまさに虚脱感そのものとなる。
背後から小さな足音が一つ。気配から察するに、医師のものではない。
「隣、良いかな」
足音の正体は夜市だった。彼はユリアの了解を得ずに隣に腰を下ろす。
「家主さん、大丈夫みたいだね」
「……ええ」
自分でも驚く程に、頷く声に覇気が無くなっていた。
「ねぇ、立風君」
「ん?」
「誰がマスターを刺したんでしょうね」
「ついさっき出会っちゃったよ、その犯人に」
「え?」
思わず、垂れていた頭が持ち上がる。
「誰だったの?」
「鏡星影夢とかいうふざけた名前の野郎さ。ドレッドヘアーに時代遅れのラッパーみたいな格好をしててな、さっき警察署に行って事情聴取を受けてきたんだけど、そのついでに話を聞いてきた。野郎、殺人やら爆破やらの多重容疑で国際指名手配されてる、筋金入りのテロリストだった。全く、末恐ろしい奴もいたもんさ」
「その男がマスターを……」
我知らず、奥歯を軋らせる。夜市がこと細かに説明してくれた人相もあってか、そのラッパー男とやらがどういうナリをした男かは、何となく想像がついた。
「出会ったら即殺してやる」
「その意見には大いに賛成だが、そうは問屋も卸さないって話さ。そのDQN野郎は単独で行動している訳じゃない。他にも二人、似たり寄ったりの仲間がいるらしい。一介の町民が手を出せる領分を遥かに越えている」
「あとは警察に任せろって事?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
夜市の物言いは何処か煮え切らなかった。
「多分、奴は最初から君に狙いを定めてる。君みたいなぴっちぴちの女子高生と、誰の邪魔も入らない場所でしっぽりとヤリ合いたいらしい。いずれ警察の包囲網を掻い潜って、殺気充分な君の寝床に夜這いしてくるかもな。あくまで、仮定の話だけど」
「どうしてそう言えるの?」
「先日からどうも雲行きが怪しい。君が前に見せられたとかいう映像の事にしても、今回の家主さんの件にしてもだ。俺や君の周りで、いや、この町全体で何かが起こり始めてる。下手すりゃ、もうこの時点から鉄火場が熟成されてるのかもな」
夜市はゆったりとした仕草で立ち上がって伸びをする。
「もう君、帰っても良かったんだろ? だったらさっさと出ようぜ」
「そうね」
いつまでもこんな場所で黄昏ていたってしょうがない。マスターが無事と分かった以上、すぐ自宅に帰るのが吉だ。
最初は少し休んでから一人で帰るつもりが、結局夜市に伴われてしまった。手元には薙刀も無いので、今日は少しだけ彼を心強く感じたのは内緒だ。