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秋風スクエア  作者: 夏村 傘
#2 夜を薙ぐ風
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#2 夜を薙ぐ風 1

 #2 夜を薙ぐ風



 ユリア・ザハロフ。年齢十六歳。出身はロシア。髪型は六年の間、父に似合うと言われたシャギーカットから全く変えていない。金髪なのは地毛であり、間違ってもお洒落の意味を履き違えた日本人女子高生の嗜みと一緒にされては困る。

 現在は国際交流の名目で四季ノ宮高校の定時制に通っている。本来なら日常会話に不自由しないレベルでの日本語は習得している上に、学力では間違いなく日本でもトップクラスの実力を持っているので、彼女と同じ立場にある者だったら普通は全日制を選ぶだろうが――ユリア個人には、あえて定時制を選ぶ理由があった。

 祖国の父から聞いた話だと、定時制は勉強が簡単で校則も緩いが、生徒の大半はゴロツキで占められているとの事だ。

 その中にはきっと、自分が求める人材がいる筈だ。

 自分と互角に戦える程の猛者が――と、思ったのだが。

「何をしているんだ、私は……」

 あくびが出る程簡単な夜の授業を聞きながら、ユリアは顔を片方の手のひらで覆い尽くして、誰にも聞こえないように小さく呻いた。

 まず、一緒に授業を受けているクラスメート連中のやる気の無さである。机の上で突っ伏して寝ている者は――まだ良しとしよう。きっと、昼のバイトか何かで疲れているのだろう。しかし後ろの席で人目も憚らず、やかましくお喋りに興じている柄の悪い女子二人の喧騒は如何ともしがたい。他には携帯電話でパズルゲームなんぞに全意識を集中している者、酷い場合は堂々とマクドナルドのハンバーガーをがっつきながら、ゲラゲラと下品な話題を垂れ流しにしているヤンキー達までいる始末だ。しかも、教師に至ってはそんな彼らに注意の一つも下さない。きっと、既に色々諦めがついてしまっているのだろう。

 話に聞いた以上に、生徒のレベルが低すぎる。想像以上と言うべきか、想像以下と言うべきか。何にせよ、入学から半年間で学習した内容は、この定時制の連中の大半がどうしようもなく下らない人間達の集まりだという観察結果だけだ。

 こんなところに、自分が求める強者なんていやしない。期待した自分がバカだったのだ。こんな事なら、最初から無駄に高い学力を駆使して全日制に入学して、名目でもなく本物の国際交流に勤しめば良かった。

 そんな後悔に駆られながら時間が悪戯に経過し、気づけば時計の針は夜の九時、つまり下校時刻を指していた。

 ユリアはいつもの質素な鞄と、絹の袋に包まれた身の丈以上の長細い物体を携え、そそくさと蛆虫の巣窟から退散する。入学してから半年間経つが、未だに友人の一人すら作っていないので、誰かと歩調を合わせる必要が全くないから気楽なものだ。

 欲しいのは友達ではない。この国でユリアが欲するのは、あくまで強敵のみ。

 ユリアは自身を騙すようにそう言い聞かせ、夜色に染まった校門を早足で抜け出す。心地良い夜の秋風が肌に染みる。ユリアが日本に来て得した事と言えば、祖国に比べたら極楽とも言える、この季節に吹く風のみだ。

「――いいじゃんよぉ、ちょっとは遊びに付き合ってくれてもさ」

「あの、あたし、待ってる人がいるんで、そういうのはちょっと……」

「えー? 誰それ、彼氏?」

 少し離れたところから、男女の浮ついた会話が聞こえる。これがカップルの会話だったら別に気にするところでは無いのだが――

「別に、彼氏とかじゃ……友達ですよ」

「何それ。まさか、定時制の奴ら?」

 どうもさっきから様子がおかしい。ユリアはようやく興が向いて、声がした方向に視線を傾ける。

 有り体に言って、ただのナンパだった。全日制の制服を着た女子高生が、同じく全日制の制服を着た男子高校生複数人に取り囲まれ、何やら言い寄られている様子だ。女子の方は困った顔で、自分を囲う男子達の応対をしている。

「何で全日制の生徒がこんな時間に……?」

 本当だったらこの時間は定時制の下校時刻で、全日制の生徒はシャットアウトされてなければおかしい筈である。

 ユリアは腑に落ちないものを抱えつつも、困っている女子の方を助けなければという使命感に駆られ、とりあえずあの集団に向けて歩を進めた。

 彼らとの距離を詰め、ユリアは険しい声で呼びかける。

「あなた達、何をしているの?」

「んん?」

 男子生徒の代表格らしき少年が、物珍しそうな顔と共に振り返る。

「何、君?」

「質問に答えなさい。その子に何をする気だったの?」

「おいおい、君には関係無いだろ?」

 少年が肩を竦めておどける。妙に癇に触る仕草だった。

「そうね。たしかに関係無いし、もっと言うなら何をしているのかは一目瞭然ね。ただのナンパにしては、ちょっと度が過ぎてるとは思うけど?」

「君、定時制の生徒だよね? だったらあんま、僕らに歯向かわない方が良いよ?」

 相手はこちらの言葉を無視して、何やら妙な事を言い返してきた。

「知ってる? この学校じゃあ、定時制の生徒が全日制の生徒に反抗すると、負けるのは必ず君達定時制の方なんだよ?」

「支離滅裂も良いところね。まあ、どうでもいいけど」

 ユリアは絹の袋を解き、中から木製の薙刀を出現させる。素材は刃から柄頭まで樫の木で作られており、決して銃刀法に触れるような代物ではない。だが、これで殴られると人体にどのような影響が及ぶのかは、考えなくても分かる話だ。

 ユリアは威嚇のつもりで薙刀を頭上で一回転させて、鋒を前に突き出し、腰を低く落とす。

「どうせ、困ってる女の子を助けるだけなのだから」

「分かってないなぁ。まあいいさ。俺達が何しようが、それで一発俺達を殴ってみれば、さっき言った事の意味が分かってくると思うよ」

「どっちもどっちだな、オイ」

 いつの間にか――そう、本当にいつの間にか。着流しの上に黒い羽織を纏った奇妙な風体の少年が、ユリアの薙刀の刃にあたる部分を掴んで、ゆったりとした仕草で持ち上げていた。これには男子生徒達のみならず、ユリアも驚きを禁じ得なかった。

 だが、ただ一人、彼の出現に顔を綻ばせた者がいた。

「夜市!」

 絡まれていた女子高生が声を弾ませる。反対に、羽織の少年が苦い顔をする。

「何でこんな時間に出歩いているんだか……まあ、話は後だ」

 和装の少年、もとい立風夜市は、極めて落ち着き払った口調でユリアに言った。

「おや? 君は同じクラスのユリア・ザハロフさんじゃない? いやー、びっくり」

「立風君? 何であなたが?」

「言ったでしょ。話は後だ。んな事より、この物騒な木製武器を早く仕舞ってくれ。君だって、少なくともそこのオツムが緩い連中と同列にはなりたくないだろ?」

「…………」

 彼の言葉に不思議と毒気が抜かれ、ユリアはあっさり薙刀の鋒を引いて、さっさと絹の袋に収納する。

「次から次へと、何なんだ、お前ら」

 一連の流れを黙って見ていた男子生徒達の主犯格が、ついに苛立ちを露にする。対する夜市の受け答えは、至って平静そのものだった。

「何って。君達も面倒は嫌いだろ? そこの女子高生は無事に解放され、俺とこのロシア人の彼女は一人も殴らずにお家に帰れる。君達は無傷、それで全てが丸く収まる」

「たかが定時制のクズが、言ってくれるじゃねえか」

「クズがどっちか、試してみるか? 君達が望めば、の話だけど」

「上等じゃん」

 会話しているうちに、他の男子生徒達が夜市とユリアの周りを囲ってしまった。どうやら全員臨戦態勢らしく、一発無しには帰れない状況が生じてしまったようだ。

 しかし、それでも夜市の静かな雰囲気は揺るがなかった。

「いくら全日の優等生でも、暴力沙汰はまずいんじゃない?」

「僕達がいくらお前らを殴ろうと、お咎めになる可能性は限りなくゼロだ。けど、お前らは一回でも反撃したら即退学。分かるか? これはもう僕達のワンサイドゲームなんだよ」

「さっきから何の話か知らんけど、まあいいや。ユリアさん……って呼んでもいい?」

「え、私?」

 いきなりこちらに水を向けられ、ユリアは思わず当惑してしまう。

「そ。さっきから見てたけど、あの子を助けようとしてくれたんだよね? だったらその勇気、俺にも貸して欲しいんだ。頼む」

「是非も無いわ」

 バックと薙刀を放り投げ、ユリアも臨戦態勢に入る。

「なに二人だけでコソコソ喋ってんだ、コラ」

 ユリアの背後から、迫り来る男子生徒の気配。反応して振り返り、デタラメに放たれた拳を手のひらでいなし、受け流す。別方向から押さえ込みに来た相手にも同様の動きで対応し、ただひたすら防御と回避を徹底する。

 ちらりと横で応戦する夜市を見る。彼の体捌きも中々上等なようで、ユリアと同じように周囲から迫る攻撃に鋭く反応し、体の全てを使って防御と回避で相手をきちんともてなしている。

 攻撃の手を休めた男子生徒の一人が困惑して喚き立てる。

「何だこいつら、全然こっちの攻撃が当たんねぇ!」

「畜生!」

 主犯格の少年が動き、ついさっきユリアが放り捨てた袋入りの薙刀を掴み取り、大きく一振り。狙いはユリアのこめかみだ。

 しかし、ユリアは慌てる事も無く、甘んじてその直撃をあえて受けた。体が受けた力の方向に沿ってブレも無く回転する。

「あっ……!」

「ンの野郎……!」

 女子高生と夜市が緊迫した声音を上げるが、無用な心配だ。攻撃を受ける瞬間、受けた力の方向に沿ってわざと回転していた為、ダメージは極めて軽微で済んだからだ。

 ユリアが体の回転を止め、地を蹴って主犯格の少年の目の前に踊り出て、握った右拳を彼の腹にあてがう。

「ふっ……!」

 気合と共に、全身から発揮された必要最低限の力を右拳に伝播させ、押し出す。同時に空いた左手で素早く薙刀の柄を掴み、引き寄せる。

 主犯格の少年の体が後ろへと押し出され、薙刀は元の持ち主の手に戻る。

「え……?」

「はい、あかりちゃんゲーット」

 少年が呆気に取られてる間、夜市が音も無く、あかりとかいう女子高生を確保していた。これは少年達のみならず、ユリアですら目を丸くした。

「え、え……え?」

「はい、退散!」

 夜市の号令と共にユリアは自分の鞄を拾い上げ、三人同時にこの場から逃げおおせてみせた。一方、男子生徒達は皆一様に呆気に取られている様子だった。おそらく、さっきユリアが使っていた体術と、夜市が最後に行った隠密行動が魔術か何かに見えてしまったのだろう。

 三人はひたすら走り、とりあえず人気が無い路地裏に潜り込む。ユリアと夜市は示し合わせたかのように周囲の気配を探り、視線を巡らせ、同時に大きくため息をついてその場にへたり込んだ。

「ここまで来れば……さすがに追ってはこんだろ」

「そうね。それにしても、何て日なの?」

 こんな面倒は金輪際御免だ。気持ちよく相手をぶっ飛ばせれば早く済んだ話なのに、何であんな回りくどい戦い方をする羽目になったのやら。何から何まで疑問だらけで、考えるだけで頭が痛くなりそうだ。

 ユリアは事の発端となった女子高生に質問する。

「ねぇ、あなた。こんな時間に、何で学校の近くにいたの?」

「バイトの終わりが丁度定時制の下校時間だったから、そこのお侍さんをひやかしに来ただけなんだよぉ……」

 息も絶え絶えと言った様子で、少女は同伴してきた黒い着物姿の少年を指差す。

「そしたら、何故かあの人達にナンパされて……本当、しつこいのなんの」

「不用意に夜出歩くもんじゃないぜ? 次からは護身用にスタンガンか電気銃でも携帯するんだな」

「あなた達、知り合い同士なの?」

 二人の会話に口を挟んでみる。すると、少女の方が快く乗っかってきた。

「そうだよー。あ、私は秋津あかり。さっきは助けてくれて、ありがとね」

「当然の事をしたまでよ。それより、強い彼氏さんがいるのね」

「かれ……っ!?」

 あかりの顔色がいきなりレッドゾーンに突入する。からかいがいのある可愛らしい反応である。

「べべべべつにそんなんじゃっ」

「そうね。まだ交際一歩手前って感じ」

「ユリアさん。あんまこの子をからわかないでやってくれ」

 夜市が苦笑して言った。どうやら、本当に付き合っているという段階ではないらしい。

「まあ、いいわ。そんな事より、いくつか訊きたい事があるの」

 彼ら二人がこちらの疑問に全て答えてくれる保証は無いが、訊いてみない事には何も始まらない。お互い情報交換でハッピーと行こう。

「あの愚か者達が、さっきから全日と定時がどうのとか言ってたけど、アレは何の話?」

「俺は知らないけど、あかりは何か知ってるんじゃない?」

 ユリアと夜市の視線があかりに集中する。あかりは少し慌てるような仕草を見せるが、すぐに落ち着いて事の発端を話し始める。

「私も詳しい事は知らないんだけど、あの学校は元々全日制だけで、定時制を隣接する際に全日制から厳しい条件が出されたとかなんとか」

「厳しい条件?」

「全日制の生徒は定時制の生徒を虐げられる? 的な。本当かどうかは知らないよ? あくまで噂話のレベルだし」

「さっきの連中の態度からして、真実味のある話だとは思うが……」

 夜市が腕を組んで、難しい顔をして考え始める。

「そんな学校を町の教育委員会が容認するとは思えない。秋津さんがいま言った事が真実と仮定するなら、とっくに定時制のチンピラ共が暴動を起こしてもおかしくない。多分、それとは別の形で全日制と定時制の優位性が決まるような何かがあったんだ」

「優位性ねぇ」

 あかりまで夜市と全く同じ顔と仕草をして考え始めた。つくづく気の合う二人らしい。見ていてなんだか微笑ましい。

 あかりはユリアに水を向ける。

「そっちはどう思います? えーっと……」

「ユリアで良いわ。そうね、私なら――」

 実は薄々予想はついている。先程の連中は「こっちが殴れば有罪、あっちが殴れば無罪」というような事を口にしていた。これがもし暗黙の掟だとして、町の教育委員会は機能しなくても、少なくとも警察機関が黙ってはいない筈だ。という事は、これは決して暗黙の掟ではない。

「それが校則そのものだった――というのはどうかしら」

「校則? そんなの、生徒手帳に書いてあったっけ?」

「全日の生徒に対して適用される校則じゃなければ、あなたの手帳にそんな記述はされてないわ。恐らく、契約書みたいな別の書面で管理されてるのよ。「定時制の生徒が問題を起こした場合は、いかなる理由があった場合でも即退学を命ずる」っていう文面をね」

「そんな無茶な校則、あってたまるか」

 夜市が思考を放棄し、腕を組む構えを解いて伸びをする。

「もうどーでもいい。そういや、質問ってんなら俺の方にもあるぞ」

「あー、私も私も」

 夜市とあかりの視線が、ユリアの手元に置かれた薙刀入りの布袋に注がれる。

「同じクラスになった時から気になってたよ。何で君はそんな物体を毎日持ち歩いているの?」

「もしかして部活動の道具だったり?」

「定時制で部活なんて、そう滅多にやるもんじゃないわ。これは長年苦楽を共にした、私の相棒」

 ユリアは布越しに薙刀の柄にあたる位置を撫でる。

「日本の武道には関心があって、中でも薙刀術は女性を中心に広まった事から感銘を受けていたの。江戸時代、武家の女子はこれが必修の武芸だったとされてるわ」

「時代の流れによっちゃあ、男子禁制の競技だったって逸話もあるくらいだしな」

 夜市が頭を上下させて頷く。

 薙刀は奈良時代から平安時代に僧兵の武器として猛威を振るい、鎌倉時代から室町時代にかけては戦場の兵が扱う主力武器となった。しかし時代を重ねるごとに戦争の形態が変化し、より機能的で強力な槍という武器にスターの座を奪われた不遇の剣なのだ。しかし明治時代の撃剣興業(現在でいう剣道の試合みたいなもの)では、ユリアや夜市が言うように女性主体の剣術として返り咲き、室町時代以来の大人気を博したという記録が残っている。

「――ほほぉ、奥深い武芸だったのですなぁ」

「いまではマイナーも良いところよ。さ、今日はもう帰りましょう」

 話し込んでいるうちに時刻は十時を過ぎてしまった。これ以上遅くなるようなら、ユリアの家主のみならず、夜市とあかりの親も心配するだろう。他にも訊きたい事は山程あったが、いまはとりあえずお預けだ。

「立風君。その子をちゃんと家まで送ってあげるのよ?」

「へいへい。しゃーねーなー」

 夜市がめんどくさそうに応じて立ち上がる。ユリアは彼らに背を向け、会釈もそこそこにこの場を立ち去った。

 通常通りの帰宅ルートに戻り、ユリアは少しだけ黙考してみる。

 確かに気になる事は山程あるとは言った。だが、一番の関心は立風夜市だった。あれほどの体術の使い手が、何で定時制なんぞに身を置いているのやら。彼のあの動作は間違いなく剣術か何かで培われた足捌きそのものだ。あのような動きが実戦でも発揮できると分かった以上、彼がどこかしらのスポーツ推薦も受けずにあの学校にいるのは甚だ不自然と感じてしまう。

 剣道、柔道、空手。いや、野球でもサッカーでもバスケットボールでも、少し練習させれば天賦の才を遺憾無く発揮しただろう。

 身を落とすには惜しい人材だ。一体何者なのだろうか、彼は。

「おやおや、そこの可愛らしいお嬢さん? ちょっとお時間よろしいですかな?」

 いきなり、行く手をグレーのスーツ姿の男性に塞がれる。まさに「これがデキる大人」と分かるような出で立ちだが、腹の奥に何を秘めているか分からない形相である。

 男性は柔和な口調で尋ねてきた。

「ユリア・ザハロフさんですね? 初めまして。私、真柴健吾と申します」

「はあ……」

 見知らぬ男性に声を掛けられた時は警戒せよ、というのが現代の常識だ。ユリアは体の重心をかすかに後ろへ傾ける。

 ただし、真柴健吾なる男の目からは逃れられなかった。

「そう警戒しなくても大丈夫ですよ? いきなり逃げられたら、少し傷付きます」

「ご用件は?」

 何故私の名前を知っている? とはあえて訊ねまい。気味が悪いのは本心だが、いまは少々疲れているので、一刻も早く無血でこの場から逃げ出したい気分でもある。

「そっけないですねぇ。まあ、いいでしょう。コレをご覧頂きたい」

 健吾は懐から取り出したハンディカムカメラのディスプレイを開き、映像記録を再生してユリアに手渡す。

 映っていたのは、何処かの道場の中で対峙する、黒い羽織姿の少年と、見覚えの無い大柄な男の一騎打ちだった。大男が振り回す木製の斧を、黒い羽織の少年が風に舞う落葉のようにかわしている。

「これは……立風君?」

「ここから先、見モノですよ?」

 健吾が楽しそうに微笑む。ユリアはあくまで目の前の男から警戒を外さないまま、さらに映像に集中する。

 映像の中では、既に夜市が反撃に転じていた。たったいま、手元も見せない速さで木刀を一閃させ、相手の木刀を切断したところである。

「木刀で木刀を……!」

 それだけではなかった。夜市は相手の道着だけを狙って精密な斬撃を浴びせると、相手にもう交戦の意思が無い事を伝える。しかし相手が自棄を起こしたのか、半分だけとなった斧型の木刀を振り上げて彼を襲ってきた。

 刹那、得物を持つ腕の一部がぱっくりと割れ、大男の血しぶきが舞い踊った。

 信じられない事に、夜市は木刀で人体を斬り裂くという神業的な所業をやってのけたのだ。これにはさしものユリアも息を飲んでしまった。

「末恐ろしい剣客ですよ、彼は。あなたと並ぶ程にはね」

 健吾はやんわりと彼女の手からハンディカムを取り上げて苦笑する。

「ミス・ザハロフ。あなたの噂はかねがね聞いている。モスクワの秘蔵っ子。その高い身体能力と優れた体術、冴え渡る頭脳から軍への入隊を渇望されている程の女傑。それが若干十六歳の、見た目麗しゅう少女というのだから感服する」

「褒めちぎっても何も出ないわ。ミスター・真柴、あなたの目的は何?」

「私は見たいのですよ。時代の奔流によって風化していった、剣客同士の戦いを」

「私と立風君の決闘を見たいと? それでしたらお断りします」

「ほう、何故?」

 健吾の眉がかすかに吊り上がる。彼なりに少々動揺しているのかもしれない。

「彼には闘気というものを全く感じない。たしかに優れた腕前をお持ちのようですが、それが私の闘争本能に火を付けるかどうかは全くの別問題です」

「惜しいですね。せっかく面白くなるというのに」

 健吾は落胆の仕草を見せ、案外あっさりと引き下がってくれた。

「まあ、良いでしょう。今回は諦めるとします」

「次回があると思って?」

「どうでしょう。あ、そうそう」

 本当にいま思い出したらしい、健吾は取り繕うにように言った。

「さっきのあなたの情報。あれは本当に単なる噂話です。決してストーキングしていた訳ではありません」

「あらそう」

「お時間を取らせました。では、私はこれにて失礼致します」

 健吾は礼儀良くお辞儀して、ユリアの真横を通り過ぎて姿を消した。終始掴みづらい男だと思うと、紳士的な態度と内包する毒みたいな気配のギャップに当惑してしまう。

 まあ、どうでもいい。もう過ぎた事だ。

「……余計に遅くなってしまった」

 ユリアはスマホを開き、時刻が既に十時半を過ぎていると知ってため息をついた。

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