9
暑い夏が過ぎ、季節は初秋。山中では、樹木が少しずつ紅葉に覆われていく。平地ではまだ残暑に汗ばむ気温だが、山では朝晩の冷え込みが次第に厳しくなってくる。
そんな時期に、ガウエンとローエンの二人は、山中に筵掛けの粗末な小屋を作り、そこで生活していた。
ガウエンは、何時ものようにまだ外が暗い時間に起き出し、朝の鍛練に出掛けようとする。
手のひらを擦り合わせ、寒さに強張る体を揉みほぐしながら、ふと、ガウエンは奥を眺める。そこに、何時もはいるはずのローエンの姿がなかった。
――おかしいな、昨日は遅くまで飲んでいたはずだが。
昨日は久しぶりにゴーグが酒樽持参で訪れ、「今日は朝まで飲み明かすぞ」などとほざき、師のローエンと酒を飲み交わしていた。
その事を思い出し、ガウエンは首を傾げる。
ローエンもここ最近は、あれほど好きだった酒もすっかりと弱くなり、深酒した翌日はガウエンが起き出すのにも気付かぬほど寝起きが悪い。
――師も、歳を取られたものだ。
この頃は、ガウエンがそう思う事もしばしばであった。ローエンの体調。それがここ最近の、ガウエンの心配事だった。
だが、そのローエンばかりか、小屋に泊まった筈のゴーグの姿すらなかった。
昨晩、ガウエンが朝の鍛練が有るからと、二人に断りを入れて早々に寝入る時には、まだ二人はにこやかに酒を酌み交わしていたのだ。
ガウエンは不審を覚えつつ、小屋の外へと向かう。
そう、ガウエンがローエンに出会ってから、既に五度目の夏が過ぎていたのだ。
この五年の間に、ガウエンは大きく成長していた。その反面、ローエンは歳を重ねる毎に体は衰えていく。
だが、それでも尚、ガウエンの前に大きく立ち塞がる壁として存在していた。
――俺には何かが足りないのだ。
それが、ガウエンには分からない。剣士としての壁にぶつかり、悩んでいたのだ。
ローエンに一度、どのような鍛練をしてその強さを手に入れたのか訊ねた事があったのだが、その答えは「生まれた時から強かった」と、相変わらず人を食ったような返事をよこすだけだった。
もっとも、この師ならそれも有り得るかも知れないと、妙に納得もしてしまう。
ゴーグに聞いて、ガウエンも初めて知ったのだが、剣の師ローエンは驚くことに、武人達の間で『剣獣』と呼ばれる伝説の人だったのである。
その時に聞いた、伝説と呼ばれるのに相応しい逸話の数々。
寝込みを襲われ、起きる事もなく寝たまま数人の賊を斬り捨て、目覚めた時、周囲に出来た血溜まりの中に倒れる賊達を見て、「夢ではなかったのか」と、欠伸混じりに呟いたとか。
或いは、戦場の最中、対陣して睨み合う数千の軍兵。その中央を扇子で扇ぎながら悠々と歩き、その真ん中で立ち止まると、両側で整然と居並ぶ軍兵を見渡し「絶景かな」と呟き、唖然とする両軍の兵達を残して悠然と立ち去ったとか。
或いは先代王の御前にて、その当時、国で一番の武人と言われていた近衛軍武術師範と立ち合い、剣を抜くまでもなく、手に持つ鉄扇であっさり打ち据え倒したとか。
等など、眉に唾を付けたくなるような数多くの逸話をゴーグに聞かされた。その時も、ガウエンはまさかと思いつつ、師ならばと納得した覚えがあった。
ローエンは、あまり人前に姿を現さない。その事から、武人達の中には実在を疑う者もいるぐらいだったのだ。もはや、おとぎ話に登場するドラゴンと同じような扱いで語られていたのである。
その数々の逸話を話してくれたゴーグ自身も、ローエンを初めて見掛けたのは戦場での事であったらしい。
それは、十年ほど昔の事。その当時、アトラン王国はまだ隣国であるベルン王国と小競り合いを繰り返していた時期でもあった。その時はゴーグもまだ二十歳と若く、ある傭兵団に所属してその小競り合いに参加していたようだった。
ある戦の折り、敵軍の布陣を確かめる為にと、仲間達十数名と斥候に出掛けたのだ。
その際、高みから具に調べようと、近くの山中に分け入った。だが、運が悪いことに、ベルンの軍もその山中に斥候を放っていたのだ。予期せぬまま、突然敵と遭遇して始まった乱戦。
そこに、登場したのがローエンだった。
ちょうどその時、その山中を住み処と定め、折しも、昼寝の真っ最中。その闘争の気配に目を覚ますと、寝起きの不機嫌さも相俟って、煩いとばかりにその戦いに乱入したのだ。
斥候とはいえ、アトラン王国とベルン王国の、完全武装した兵士が三十人あまり。それに対してローエンは、いつもの通り簡素な布の服を纏うだけ。しかも手に持つのは、そこらで拾った棒切れのみ。
しかし、乱入したローエンは臆する事もなく、片っ端から兵士達を打ち倒していく。
幾ら両軍兵士の虚をついたとはいえ、的確に喉や間接部等、鎧などの防具に覆われていない箇所を狙うのは、凄まじい技量というしかない。
半数近くまで倒されたゴーグ達は、ようやくローエンの乱入に気付いたが、時既に遅く、瞬く間に残りも倒されたのだ。
ゴーグ自身も、喉を潰され半月あまりも声も出せない状態だったらしい。後でその男がローエンだと知ったが、恨みに思うより先に、伝説通りの人物だと逆に感心したそうだ。
「歳をとり衰えたといえ、未だに勝てる気がしねえ」
それが、酒が入り酔った時にゴーグがよく口にする言葉だ。
剣の道を山に例えるなら、霊峰の遥か高みにある頂きがローエンのいる場所。ガウエンなど、まだその霊峰を登り始めたばかり。
ゴーグから師の話を聞くにつけ、それほどの隔たりを、ガウエンはますます感じてしまうのである。
そして、師がまだ元気な間に、肩を並べられるほどの高みまで登りたいと、切に願うのだった。
それと、この五年で変化した事といえば、あの人嫌いのローエンが訪ねて来たゴーグを受け入れ、あろうことか、誘われるまま護衛士の仕事をたまに手伝うようになった事だ。
師ローエンに従い、共にゴーグの護衛士としての仕事を手伝った事は、ガウエンには楽しくもあり良い経験となった。
もっとも、師ローエンには散々振り回され、ゴーグとガウエンの二人は、閉口させられることも度々であったのだが。
時には、ローエンが護衛対象の貴族を、「気に食わん」と行き成り殴り付け、二人を大いに慌てさせたりしたものだ。
人嫌いの師ローエンが何故と、最初は不思議に思ったものだが、後から考えると、それはまだ若いガウエンの将来を心配して護衛士の仕事を受け入れたのだと、ガウエンは思い至る。
――本当に、良い師に出会うことができたものだ。
あの時、師に出会わなければ今の俺はない。あの人喰いアカに殺されていたか、例え、アカと遭遇していなくても、何処とも知れぬ山中で野垂れ死にしていただろうと、ガウエンは思う。
そして何よりも、力を、強さを渇望していたガウエンに、その拠り所となる剣という指針を示してくれたのだ。
師ローエンには、感謝してもしきれないほどの気持ちで一杯だった。
今は初心を忘れぬためにも、腰に差す剣の柄には、あの魔除けの鈴を括り付けるようにしている。その鈴に目を落とし、ガウエンはそんな事を思っていた。
二人の姿が見当たらないことに不審を感じ、ガウエンが首を傾げながら外にでる。と、ちょうど太陽が顔を出し、東の空から白み始めるところだった。
まだ初秋とはいえ、山の朝は冷たく吐き出す息も、僅かに白く霞む。その寒さに気を引き締め、小屋から一歩外に出た所で、ガウエンはぎょっと立ち尽くす。
「師匠?」
目の前のちょっと開けた場所に、ローエンとゴーグの二人が並んで立っていたからだ。
二人は朝陽を背にしているため、逆光となりその表情までは分からない。しかし、何時もはぼろを纏い、髪も延び放題に蓬髪のままだった師ローエンが、今はこざっぱりとした服に着替え、髪もきちんと切り揃えて撫で付けると、後ろへと流して総髪に結んでいる。
そして、朝の澄みきった空気の中、太刀を地に立てその柄頭に、片方しかない手のひらを乗せて佇むローエン。その姿は、朝陽の光りを背負い、まるでおとぎ話の武神の如く見える。
その横に立つゴーグも、いつもの砕けた態度ではなく、両腕を後ろ手に組み胸を反らす姿はまるで何処かの将軍のように見えた。
「えぇと、今日は何か特別な日だったかな……」
ガウエンの戸惑いをよそに、ローエンが厳かに口を開く。
「さてガウエンよ、お前と師弟の縁を結び五年となる。今日は久し振りに、真剣にて立ち合ってもらおうか」
「えっ……ですが、いつも闇稽古では……」
「ふん、あんなものは児戯に等しき遊び。今日は手加減抜きの本気で参れ。わしを師と思わず敵と思え。わしもお前を弟子とは思わぬ」
朝の起きぬけに、突然そのようなことを言われ、何か己れが至らないことを仕出かしたかと、困惑するガウエン。
「師よ、私に至らぬ点が何か……」
しかし、ガウエンの問い掛けの言葉に被せるようにローエンが言い放つ。
「剣士に言葉は無用じゃ。ガウエン、お前も剣士を自認するなら、後は剣にて語れ」
ますます訳が分からぬまま、ガウエンは困惑の度合いを強めるが、二人の様子から本気だと思えた。
その証拠に、ローエンが地に立つ太刀を抜き放ち肩に担ぐと、今まで感じた事もない殺気を放ち、ガウエンを圧し潰そうとする。
ゴーグもガウエンとローエンの二人から距離を取ると、立会人よろしく二人に鋭い眼差しを送っていた。
一度言い出したら聞く耳を持たぬ師ローエン。ここは仕方なしと、取り敢えず剣を抜くガウエンであった。
しかし、途端に……。
「キェェェ……イ!」
ローエンの気声が飛んで来る。それは正に、ローエンが本気の気合い。
まともに、正面から浴びせ掛けられたガウエンは、体をぶるっと震わせ腰砕けに崩れ落ちそうになる。
「なんじゃ、そのへっぴり腰は! そのような軟弱な弟子は一刀の元に斬り倒してくれるわ!」
ローエンはガウエンに叱声を浴びせると、その言葉の通り、神速の踏み込みで迫り、「ヒュン」と刃風を響かせ太刀を振るう。
ガウエンは慌てて転がり避ける。しかし、浅くではあるが、頬をざっくりと斬られていた。
――まさか、本気なのか?
頬から血を滴らせ驚くガウエンに、ローエンは更に険しさの増した声を響かせる。
「ガウエン、お前は己れに何が足りぬのか聞いておったな。ならば言ってやろう。それは覚悟、例え相手が肉親であろうと、いや、鬼神であろうとも斬り捨て倒す、確固たる不動の心構えが足りぬのだ」
「……」
「よいか、剣の下では誰もが平等。倒すか、倒されるしかない。更なる強さを求めるなら、誰かに寄り掛かろうとする甘えを捨てさるのだ。さあ、心して参れ」
それでも尚、地に転がったまま動かぬガウエンに、ローエンは眉間に皺を刻み不機嫌そうに言い放つ。
「お前が望む強さとはその程度のものか! 何者にも負けぬ強さが手に入らぬなら命さえ入らぬと言ったのは、わしを欺いておったのか!」
――お、俺は……
ガウエンは拳を握り締め、傍らに転がる剣の柄に括られた鈴に目を向ける。
「さあ、立て! 剣士として更なる高みを望むなら、その気概を、そして、この五年での成長振りを師であるこのわしに示せ!」
ガウエンは鈴に目を向けたまま、剣を手に取り立ち上がる。
――そうだ、俺は強くなると、この鈴に誓ったのだ。だから……。
「ほぅ、やっと剣士らしい面構えになりおったか……少しでも、このわしに恩義を感じておるなら、お前の本気を見せてみろ」
ガウエンは無言で頷き剣を構える。そこには、先ほどまでの戸惑いは影を潜め、ただ無心に剣を振ろうとする真摯さが窺い知れた。
相手は己れの剣の師であるローエン。待ちの構えは不遜にあたると考えたガウエンは、すぐさま鋭く一歩前へと踏み込む。
「でやあぁぁぁぁ!」
そして、渾身の気合いを込め、真っ向から剣を振り下ろす。
だが、それをあっさりと、太刀の鎬で擦り上げるようにして弾き、ローエンは肩からガウエンにぶつかる。
「あっ、痛っ!」
たちまち吹き飛ばされ、再びガウエンは地に転がった。そのガウエンに、ローエンは剣先を向けて、またしても叱声を飛ばす。
「温い! それがお前の本気かぁ! 五年でその程度なら、この先もたかが知れておる。今すぐ、剣など捨ててしまえ!」
「くっ……」
歯を喰いしばり、ガウエンは立ち上がる。転がったはずみに口の中を少し切ったようで、鉄錆びに似た味が広がり顔をしかめるが、それを構ってる余裕はない。
分かっていたが、師と己れの間にこれ程の差があったのかと、ガウエンは改めて思い知らされたのだ。
――それならば……。
ガウエンは一歩、二歩と、ゆっくり後ずさる。
その様子に、おやっと、ローエンが眉をしかめる。
「なんだ、もう降参……んっ?」
また叱声を飛ばそうとしたローエンだが、その表情に不審の色が浮かぶ。
何故なら……。
「ちりん、ちりん」
ガウエンが前後左右に体を動かし太刀を振るう度に、周囲に鈴の音を鳴り響かせていたからだ。しかも、その鈴の音は、まるで音曲の調べのように拍子を刻む。それに合わせるガウエンの動きは、祭りの時に神に捧げる舞踊の如く、神韻とした玄妙さを漂わせていた。
「むぅ、これは……」
ローエンの顔に、初めて驚きの表情が浮かぶ。
鈴の音とこの動きは、ガウエンが半年ほど前に、ローエンとゴーグの三人で野盗退治に赴いた際、その賊達と斬り結んだ時に思い付いたものであった。
ガウエンはその時、妙な事に、賊達がまるで鈴の音に合わせるかのように動くのに気付いた。それ以来、人知れず密かにひとり、この剣技を練り上げていたのだ。
まだ完成にはほど遠い荒削りな技なのだが、今、出し惜しみして後悔するぐらならと、師ローエンの前で初披露したガウエンであった。
古来、名人、剣聖等と呼ばれる武術家は、舞い手としても優れていると言われてきた。
しかし、それは逆もまた然り――
優れた舞踊は、優れた武術にも通ずる。
本来は、達人と言われる一握りの人達が辿り着くその境地。図らずも、剣を手に取り僅か五年のガウエンが、その境地に辿り着こうとしていたのだ。
それは、ガウエンを憐れんだ剣の神が授けたのであろうか、ガウエンはその剣の才を開花させようとしていた。
ローエンは、眉間に深く皺を刻む。そして、針の如く細めた隻眼で、ガウエンのその動きを凝視し、「ほぅ」と感心したように短く息を吐き出す。
「面白い。拍子を刻み、相手を己れの拍子に誘い込む。わしの知らぬ間に、そのような技を編んでおったか。しかし……」
ローエンが、心底たのしそうに相好を崩すが、直ぐに表情を引き締める。
「ならば、わしも見せねばなるまい。我が秘剣を」
そう言うと、ローエンは半身に構え、太刀を持つ片腕を頭上高く差し上げる。その太刀の刃先は、天に向かって一直線に伸びていた。
そんなローエンに、小刻みに体を動かし鈴の音を鳴らすガウエンが、ゆるゆると近付いていく。
そして、剣の間境を越えようとした時、鈴の音はそのままの拍子を刻み、ガウエンの動きだけが一拍の遅れをみせる。
鈴の音に誘われ、間合いを読み間違え動き出した相手を斬る。これが、ガウエンの考えた秘剣【鈴音の剣】であった。
ローエンは隻眼。普段、視野の狭くなった視覚を補うため、他の感覚、特にその聴力に頼るのは否めない。【鈴音の剣】は正しく、ローエンには天敵ともいえる秘剣。
実際、ローエンも鈴の音に惑わされ、ゆらりと動く気配をみせた。
――届く、俺の剣が、あの師ローエンを捉えた!
横薙ぎに放ったガウエンの剣が、するするとローエンに伸びていく。
ガウエンの脳裏に、歓喜にも似た思いが走り抜ける。
だがそれは、普通の達人と呼ばれる水準であったならばである。ローエンはそれを越えた場所にいる存在。
その刹那、かつんと軽い衝撃と共に、ガウエンの剣を持つ手から、その重みが一瞬で消失する。
「えっ……」
ガウエンが気付くと、ローエンの持つ太刀の刃先が、喉元に突き付けられていた。そして、剣は刀身の半ばで、ぽっきりと折られて……いや、折られたのでなく、すっぱりと綺麗に斬られていたのだ。
ローエンが鋭く踏み込み、天高く差し上げていた太刀を雷光の如く降り下ろしガウエンの剣を断ち斬り、その余勢をかって太刀を喉元に突き付けたのだ。
――正に、神速。
目にも止まらぬ速さで行われたそれは、ガウエンにも見えていなかっただろう。
だが実際のところ、目に止まらぬ速さ、神速とは如何なるものであるのだろうか。人の動きが目に見えぬ訳がない。
あるとするなら、目の前を飛ぶ蝿や蚊などといった羽虫を、目で追ってると見失うのと同じく、それは人の予測を越えた動き。
剣士たる者、集中して一点を見詰めるのではなく、全体を俯瞰して眺めるという。
それは、相手の気配を感じ、動き出すその事の起こりを読み取るため。
人は動く時に、どこかしら先に合図を出す。それは、視線であったり肩や爪先、腰など体の一部が微妙に動く。剣士はそれをひと目で読み取り、対処しているのだ。
しかし、ローエンは気配をいっさい感じさせず、事の起こりとなる微妙な動きすらも見せなかった。だから、ガウエンも目で追えずローエンの動きにも対処出来ずに、気が付くと太刀を突き付けられていたのだ。
いうならば、ガウエンが拍子を刻み相手を惑わすなら、ローエンはその拍子そのものを消しさり動いていたのだ。
ローエンは厳めしいその顔の表情を緩めると、突き付けていた太刀を引き戻し、一歩後ずさる。
「ふむ、わしに『斬鉄』と『無拍子』を使わせるとは、中々の成長ぶりよ。まだ荒削りながら、自分なりに編み出した刀法。この先、更に練り上げれば恐るべき技となろう」
「師よ?」
「もはや、どこに出しても恥ずかしくない技量となった。ガウエン、お前もわしのもとから巣立つ時が来たのだ」
「えっ!」
ガウエンは、ローエンの言葉に驚きの表情を浮かべ呆気にとられる。
「これより後は、経験を積むためにも世界を見て回れ。ガウエン、お前は護衛士になりたいと言っておったな。その道を示すために、今回はゴーグを呼んだのだ」
ゴーグに目を向けると、ガウエンとローエンの戦いによほど驚いていたのか、口を半開きに固まっている。
突然の別れの言葉に動揺するガウエンは、ゴーグには構わず再びローエンに視線を戻す。
「師よ、私は最後まで師に付き従うつもりです」
「それは、ならん。お前の覚悟は見た。後、お前に足りぬのは経験だ。もはや、わしの下に居ても、これ以上の成長は望めぬ。これよりは、誰にも頼らずひとりで生きてみよ」
「しかし……」
尚も言い募ろうとするガウエンは、老いが進むローエンの体が心配だったのだ。その思いを感じ取ったのか、ローエンの口調が柔かなものへと変わる。
「もはや決めたことだ。それに、わしの情けなく老いさらばえた姿を、弟子であるお前に見せるわけにいかぬからな」
そう言うと、ローエンはからからと大声を上げて笑う。そういう風に言われると、ガウエンも返す言葉がなくなる。
「ほれっ、これは旅立つお前への餞別じゃ」
ローエンが手に持つ太刀を鞘に納めると、ガウエンに放って寄越す。
「えっ、これは師の家に伝わる家宝では」
ローエンが振るう太刀。それは、先祖代々伝わる由緒ある太刀であった。天から堕ちてきた星を鍛えて打った神刀“天雲”と呼ばれ、天に掛かる暗雲を切り裂き、陽の光を導くと言い伝わる太刀でもあった。
ガウエンに、酔ったローエンが自慢気に良く語って聞かせていたのだ。
だからガウエンは目を見張って驚愕すると、受け取った太刀とローエンを交互に見比べる。
「構わん。わしも、この後は山奥にでも隠棲しようと思うておるからな。もう、必要のないもの。ならば、最初にして、最後の弟子に送るのが相応しかろう。この太刀が有れば、何時か、わしが使った技『斬鉄』に辿り着くことも出来よう。それとな、最後に見せたわしの秘技『無拍子』が、どのような技か分かったか」
「いえ、何がなんだか分からぬままに……」
ガウエンは大事そうに胸に太刀を抱え、不思議そうな表情で首を振る。すると、ローエンはさも愉快だと言わんばかりに、愉悦混じりの笑みを浮かべた。
「ふふ、あれはな、わしの取って置きの秘技『無拍子』。まだ、力が有り余っている若いお前には難しいかも知れぬ。だが、ひとつ助言を残しておこう。あれは、力を使うのではなく、逆に体の力を抜く事で動いておるのだ」
「力を込めず、力を抜くですか?」
ガウエンは意味が分からず首を傾げる。
「そうだ、今は分からずとも、いずれ分かる時がくる。その時に、わしの助言を思い出せば良い。今は、これ以上の助言は控えておこう。技というのは、自得して初めて己れの血肉となるのだ。だから後は、自分で考えよ」
ガウエンは「はい」と、真剣な面持ちで返事する。そして、背筋を伸ばし威儀を正すと、深々と頭を下げる。
「師匠、五年もの長き間、本当にありがとうございました」
事ここに至り、ガウエンもようやく旅立つ決意をしたのだ。
その表情は、この五年の間に起きた出来事を思い出し、もの悲しげに歪んでいる。
厳しい鍛練や、野獣や盗賊の退治など様々な事があった。
しかし、一番心に残るのは、人嫌いで狷介であるはずのローエンが、何故かガウエンの事を気に入り、厳しさの中にも時折みせる慈しみにも似た優しさ。それを思い出し、涙するガウエンであった。
そのガウエンの様子を眺めたローエンも、感慨深げに天を仰ぐ。
頼るべき身寄りもない二人が、寄り添うようにこの五年間すごしてきたのだ。ローエンもまた、その間の出来事を思い出していたのだ。
「五年もの間、よくぞわしに従い辛抱したものだ。わしの偏屈さはわし自身がよく分かっている」
ローエンの表情が、珍しくも少し淋しそうに歪んでいた。
「身寄りのないわしにとって、ガウエン、お前は……」
そこで言葉を切ったローエンは、今まで見たこともない穏和な表情をうかべ、ガウエンを慈愛の満ちた眼差しで眺める。
そして……。
「さらばだ、我が息子よ!」
ローエンはそれだけ言うと、もはやガウエンを振り返る事もなく、踵を返して山奥へと分け入っていく。
「師よ……」
血の繋がらぬ自分を息子と呼んだローエンのその想い、ガウエンは確かに受け取った。
――俺は……いつか必ず、誰にも負けぬ強さを手に入れてみせます。その時は、また……。
溢れる涙を堪え万感の想いで、ガウエンはローエンを見送る。
そして、ローエンの背中が見えなくなった後も、何時までも頭を垂れ続けていた。
こうして、三人目の父とも頼む師ローエンの下から、ガウエンは巣立っていったのだ。
それからは、ゴーグの勧めもあり、ガウエンは護衛士として独り立ちする事となった。最初の二年あまりは国の中央には近付かず、もっぱら慣れ親しんだ辺境を廻っていたのだ。だから、知り合った者達からは『辺境の護衛士』などと呼ばれた事もあったほどであった。
王都やその他の都市部に近付くようになったのは、昔、師と一緒に盗賊の巣窟から助け出したエゴ商会のハンスに乞われ、仕事を熟すようになったここ最近、一、二年の間の事である。
その間、ゴーグはガウエンのもとに訪れたり、たまには仕事を一緒に請け負ったりと、何かにつけ面倒を見ていた。
親しき肉親などのいないガウエンにとって、ゴーグもまた、師ローエンと同じく数少ない身内のような存在。
だからこそ、トラッシュに到着してからのゴーグの裏切りともとれる行動に、ガウエンはまさかという思いがあったのである。