6
ガウエンがゴーグと知り合ったのは、剣の師であるローエンを介してのことであった。
その師ローエンと出会ったのは、生まれ育ったトラッシュを飛び出して、一ヶ月ほど経った頃。その時はまだ、トマスと名乗っていたガウエンは、傷心のまま行く当てもなく放浪していた。だが、一月も経たぬ間に手持ちの金銭は底をつき、どことも知れぬ山中を彷徨っていたのである。
季節は夏。山中の草花は、照り付ける真夏の陽射しに焼かれ、噎せ返るような匂いを辺りに漂わせる。周りの樹木からは、耳を聾せんばかりの、けたたましい鳴き声を虫達が放っていた。
そんな緑あふれる生命力も、生きる活力を迸らせる虫達の鳴き声も、全てを失い希望を無くしたトマス(ガウエン)には煩わしいばかりだった。
だからであろうか、人も通わぬ山中深くに人が辛うじて通れるほどの、草花を踏み締めて出来た道に不審を覚える事はなかった。
だがそれは、人では無い生き物が踏み締めて出来た獣道。しかも、その領域に足を踏み入れたことを、トマス(ガウエン)は認識していなかった。
そのため、その獣が目の前に現れるまで気付くことが出来なかったのだ。
「グルルゥゥ……」
とぼとぼと、俯き加減に歩いていたトマスは、その威嚇するような唸り声に、ふと顔を上げる。
「……嘘だろ……」
トマスの正面で、その獣は立ちはだかるかのように後ろ足で立つと、その濁った真っ赤な目玉でトマスを見下ろしていたのだ。体長は優に、トマスの三倍ほどもある巨大な獣。針金のような剛毛に全身は覆われ、先の尖った長い鉤爪が指先に備わる。見るからに獰猛そうな形相には、大きな口腔があり鋭い牙が居並ぶ。そこから粘りつくような涎を滴らせていた。
正に、怪物。
近隣の村々からはその真っ赤な毛並みから、「人喰いアカ」と呼ばれ恐れられる巨大な羆であった。つい先日も、国から人喰いアカ討伐のため数十人の兵が派遣されたが、人喰いアカは周囲を完全武装の兵に囲まれても悠々と反撃し、逆に兵士達は多数の死傷者を出し退却を余儀なくされたばかりであった。
まさしく、出会った者に死を招く、怪物にほかならなかった。
「ガアァァァァ……!」
その怪物が空気を震わせ雄叫びを上げると、トマスに向かって疾走してくる。
人の肉の味を覚えた羆は、好んで人を襲うようになるという。アカもそれである。自らの意思でアカの領域に踏み入ったトマスは、アカから見ると舌舐めずりする思いであったろう。
それに対してトマスは、恐怖のあまり棒立ちとなり、大きく目を見開きアカを眺めていた。いや或いは、自暴自棄となっていたトマスは、その迫り来る死を甘んじて受け入れようとしていたのかも知れない。
怪物の長く伸びた鉤爪が、トマスの頭上に迫ろうとしていた……だが、その鉤爪は永遠にトマスに降り下ろされることは無かった。
「シャア!」
山中に気合いの隠った気声が鳴り響く。
その声と同時に、赤く生暖かい液体が、トマスの頭上から降り注ぐ。
それは、怪物の首筋から吹き上がる血流。そして、その血流に押し出されるようにして怪物の首が、ごろりと、トマスの前の地面に転がり落ちてきたのだ。
「なっ……」
一瞬、何が起きたのか分からないトマスであったが、地響きを立てて倒れる怪物の向こうに、血刀を手にぶら下げる男が立っているのが見えた。
その男は、倒れた怪物にも劣らぬ容貌怪異な姿をしている。
背丈もトマスとさほど変わらず、黒髪の両鬢には白いものが混じり、初老の域に差し掛かるかに見えるが……蓬髪に左目は潰れ、左腕も肘から先が欠損している隻腕隻眼の怪人物だった。
――この人が……この怪物を……。
確かに、この人が怪物の首を斬り落としたとトマスは思うのだが、眺めていたはずなのにそれが見えなかった。倒れた怪物自身も、死が訪れるまで分からなかっただろう。それほどの早業であり、鮮やかな手並みだったのだ。
その男は剣に付いた血の滴を払うと、くるりと剣を回して背に負う鞘内に納める。
その動作すら、トマスには速すぎてよく分からない。自分の腕より長い刀身を持つ剣を、どうやったら背中の鞘に納められるのかが、見当もつかないのだ。しかも、片腕のみで……。
実際は、刀身の中ほどを掴み抜き差しを行っているのだが、それを目にも留まらぬ速さで行っているのだ。
正に神業。
――この人は……人なのか?
まるで、祭の時に街にやって来る奇術師の如く、いや、それどころか、吟遊詩人が語る英雄譚に出てくる妖術師の如く思ってしまうのも、無理からぬことであった。
トマスには怪物が倒された驚きよりも、その男の異様さに目を奪われる。怪物の血潮を浴びて全身が血塗れなのだが、それすら忘れたように男を呆然と眺める。
その怪人物はゆっくりとトマス歩み寄り、眉間に刻まれる皺を更に深くさせ、じろりとトマスを睨む。
しかし、無言のまま怪物の頭部をむんずと掴む。と、「むんっ」と気合いと共に、一抱えもあるその頭部を軽々と持ち上げる。
そして、物言わぬままに、男はその場から立ち去ろうとした。
そこでようやく、はっと我に返ったトマスは、思わずその怪人にしがみついていた。
「ぼ、僕に力を……剣を教えて下さい!」
それは、トマスの魂の叫び。その怪人が振るう剣に、己れが渇望する力を、強さを認めたのだ。
トマスの言葉は男の予想外だったのか、ぎょっとしたように目を剥く。
男は直ぐにトマスを追い払おうとするも……途中で、じっとトマスの目を見詰める。
それはトマスの瞳の奥に、どこか荒んだ渇いた輝きを見たからだった。
「生きていく上で、剣術など……なんの役にもたたん」
男はぼそりと、低い声で呟いた。
この怪人物こそが、世の武人に剣獣と呼ばれ恐れられるローエンその人であった。
そして、この出会いが後に師弟の縁を結ぶ、ガウエン(トマス)と剣獣ローエンの最初の出会いだったのである。
ローエンは、常に眉間に皺を寄せ顔をしかめている。その見た目通り、性格は偏屈であり狷介な人物であった。人を嫌い、人との交わりを絶ち、山野を住み処と定めさすらう野人のような人だったのだ。
時に、人里に現れることもあるが、それは生活に必須な品や幾ばくかの金銭を得るためである。依頼や仕事を熟すとき以外に、人前に姿を現わすのはごく稀であったのだ。
件の人喰いアカ討伐の折りも、たまたま立ち寄った村の村長に、冗談混じりに酒一樽の報酬で持ち掛けられたのだが、それをあっさり引き受け達成してしまったのだ。
村にアカの頭部を持ち帰ると、頼んだはずの当の本人である村長が、泡を食うように狼狽して引っくり返っていた。
ローエンの名は、名を成す武人の間には伝説のように広がっていたが、一般の民には知られていなかったのだ。
ローエンとは、そのような人であった。
だから、トマスと出会った最初の頃も、まとわりつくトマスを迷惑顔に無視を決め込んでいたが、不思議と無理に追い払おうとはしなかった。
それは狷介な人物特有の気紛れだったのか、或いは、トマスの少年から大人へと変わる時期の、純粋な想いを感じ取ったからかも知れない。
トマスはこれこそ自分の追い求める強さだと想い定め、ローエンに教えを乞うため必死にくらいつく。
そして、遂に根負けしたローエンが、数日後の夕食時にその重い口を開いた。
「……小童、名前は?」
山中の少し開けた場所で火を起こし、昼間に狩っていた野うさぎを焼べていたローエンが、手招きして唐突に尋ねる。
「……僕は……名前を忘れた……」
火の明かりが辛うじて届く、少し離れた場所に座るトマスが答える。
ここ数日、ローエンから目を離さず付いてまわることに必死だったトマスは、殆ど飲まず食わずの有り様だった。精も根も尽き果てぎりぎりの状態だった。
しかし、痩せこけた顔付きの中、その瞳だけはぎらぎらと輝かせている。
トマスのその答えに「ふむ」とだけ一言返し、ローエンはまた押し黙る。
暫くの間、炎の弾ける「ばちぱち」と鳴る音以外はない、静寂が辺りを包む。そして、肉の焼ける香ばしい匂いが周囲に漂い出した頃、ローエンがまた口を開く。
「小童、これでも喰え」
もう一度、トマスに向かって手招きすると、焼けた肉の刺さる串を炎の中から取り出した。
トマスはごくりと喉を鳴らすと、恐る恐るといった様子でゆっくりと炎に近付いていく。
「何故、剣など覚えたがる」
トマスが肉を受け取りかぶり付くのを眺めながら、ローエンはまた問い掛けた。
「力が、誰にも負けない強さが欲しいから……」
「個人の力など、たかがしれておる。剣術を覚えれば、更なる悲劇が訪れるかも知れんぞ」
「……それでも僕は力が欲しい。今の僕には……もう、何も残されていないから……」
暗い相貌をしたトマスが、その目だけ光らせて答えた。
「獅子は生まれ落ちた時から獅子である。その壁を乗り越えるのは、並大抵ではない。小童、歳は幾つだ?」
「十七、もうすぐ十八歳になる」
「遅いな、剣を始めるには遅すぎる。諦めることだな」
「それでも僕は……」
「ふむ……」
ローエンは短く息を吐き出し顔をしかめて、思い悩む様子を見せる。
それは、トマスの暗い相貌の中に宿る鬼気を見てとったからだ。
ローエンは知っていた。ごくまれに、このような気を体内から発する者が、将来は剣士の壁を乗り越えることを。だが、その半数以上の者が、志半ばで命を落とすことも。
「誰にも負けない強さか……小童、お前が望む力を手にするには、天命を問う事になるぞ。それでも良いのか?」
「……力が手に入るなら、僕はこの命すら差し出していい」
その答えに、ローエンは眼光鋭くトマスを睨みつける。その異様な瞳の光は殺気すら孕んでいた。
しかし、トマスも負けじと睨み返す。トマスもまたその瞳には、鬼気を孕んだ光を宿していたのだ。
暫くの間、二人の睨み合いは続く。
それはまるで、武人が行う真剣勝負の如き様相であったが、その静寂の中、焚き火の炎が「バチ」と爆ぜる。その音と共に、ローエンが放つ殺気が緩んだ。
そして、深いため息を吐き出した後、重い口を開く。
「ふむ……良かろう。わしが、お前の名前を名付けてやろう」
それが、ローエンの答えであった。
トマスの暗い相貌の中に、ようやく希望を示す喜色が浮かぶ。
「そうだな……ここ数日、犬の如くわしにまとわり付いておったからな。わしの名前からエンを取り、ガウエンとでも名乗るが良かろう」
こうして、ローエンとガウエン(トマス)は師弟の契りを結ぶに至ったのだ。
類は類を呼ぶ――
その異様な姿からも分かる通り、ローエンもまた壮絶な過去を有していた。ガウエン(トマス)と師弟の縁を交わしたのは、己と同じ匂いを嗅ぎ取ったからだったかも知れない。