5
雲ひとつない夜空に浮かぶ月が、煌々(こうこう)とトラッシュの街並みに淡い光を降り注ぐ。その月明かりに伸びる建物の影が、様々を陰影を造り上げ、どこか幻想的な趣を醸し出す。
寝静まった夜の街は、喧騒に包まれる昼の街とは違った顔を見せていた。
そんな夜のトラッシュの街角に、すっと、人影が浮かび上がる。そして、そのまま通りを疾駆していく。しかもその人影に、途中にある辻々で、似たような人影が合流していき次第に数を増していく。
それは、黒い布で面体を隠す、怪しげな集団であった。
時おり犬の鳴き声が響く以外、もの音ひとつない静かな街並み。その中、既に数十に数を増した怪しい集団の、装着する武具等が「かちゃかちゃ」と、微かな音を響かせていた。
その集団は、通りに面した建物の前まで来ると立ち止まり、互いに無言のまま頷く。そして、躊躇なく、その建物の塀を軽々と乗り越えていった。
皆が寝静まった夜半、ガウエンは「かちゃり」と、僅かに鳴る扉の開く音に目を覚ます。
野性の狼は目を覚ますと共に、意識も直ぐさま覚醒すると聞くが、ガウエンもそれと同じであった。剣の師ローエンと、山野に起き伏しを共にする間、嫌というほど叩き込まれていたからである。
師が教えるのは洗練された剣術などでなく、本能にきざす感覚を研ぎ澄ます術。いうなれば、人が文明の発展と共に、太古に捨て去った野性の本能を取り戻し、一個の野獣と化し敵を屠る術であった。
部屋の中へ忍びやかに侵入してくる何者かの気配を感じ取ったガウエンは、枕元に立て掛けてある太刀にそっと手を伸ばす。そして、その気配に向かって微かな殺気を放つ。
「おっと、俺だ。ゴーグだ。起こしちまったみたいで悪ぃな」
その気配は同室のゴーグだった。ガウエンはほっと安堵の息を吐き出す。
同室のゴーグとは長い付き合いがあった。
ゴーグは元々、剣の師ローエンの知り合いだった。師ローエンは、確かに剣の腕は目を見張るほどの実力を有していた。だが、一般常識は皆無と言わざるしかない師でもあった。それは時に、日常生活に支障をきたす程の天然ぶりを発揮する。
だから、ガウエンが護衛士に成ろうとした時、そのイロハをガウエンに教えてくれたのは、このゴーグであったのだ。
ガウエンにとってゴーグは、護衛士仲間の中でも、最も信頼できる男でもあった。
だが、帰ってきたゴーグにちょっとした違和感をガウエンは覚える。
「えらく今日は、早いな。朝まで帰って来ないと思ってたが」
「あぁ、ちょっとな……」
ゴーグは商隊が街に立ち寄る度に、その初日は旅の垢落としだと称し、娼館などで一夜を明かすのが常であった。
だから、今夜も帰って来るまいと、ガウエンは考えていたのだが……。
「しかし……なんだ、ガウエン。宿の中でまで、そんなに殺気だてて……」
ゴーグが呆れたような声を出す。
窓から差し込む僅かな月明かりでは、人の表情までは分からないが、朧げに浮かぶ人の輪郭に、ゴーグの白い歯が溢れているのが分かる。
しかし、ゴーグは直ぐにガウエン以外の気配、赤子の寝息に気付く。と、ベッドの上、ガウエンの横で眠る赤子に近付き覗き込む。
「おいおい、赤子かよ。どっから拐ってきた。それとも、お前の隠し子かあ」
ゴーグはそう言うと、大きく口を開け笑い声を上げる。そのいつもと変わらぬゴーグの様子に、先ほどの違和感を打ち消し、苦笑浮かべてガウエンは返事をする。
「そんな訳ないだろ。少しの間、預かっただけだ」
「まあ、そうだろうなぁ。女嫌いで有名なガウエンだしな、はっはは」
「おい、静かにしろ。今さっき、ようやく寝付いたところだぞ」
よほど赤子に付き合わされていたのか、ガウエンの声には、どこか疲れたような響きが滲んでいた。
「くっくく、幻音のガウエンも、赤子相手だと形無しだな」
「ふんっ、言ってろ!」
「しかし、お前が赤子をなあ……何かあったのか?」
訝しげな様子で、ゴーグが尋ねた。
「あぁ、通りがかりにちょっとした争いに巻き込まれてな……」
ガウエンは少し言葉を濁すように答える。
「ほぅ、争いねぇ……それでか、表に変な連中が潜んでるぞ」
「なにぃ! それを早く言えよ!」
ガウエンは素早く起き上がると、窓辺へと駆け寄る。そして、そっと外を窺う。
――確かに……しかし、妙だな。
トラッシュの街は、交易路の中継地として栄えていた。そのため、大小様々な宿が軒を連ねている。
エゴ商会が利用する宿は、その中でもかなりの大きさの宿であった。敷地内に数棟の離れを有する、トラッシュでも屈指の宿だった。
エゴ商会はその中にある二階建ての離れを、丸ごと借り受けていたのだ。
その二階にある自分の部屋の窓から見下ろすと、確かにゴーグの指摘通り、数十名の怪しき者が周りの樹木に潜んでいるのが分かる。
だが、ガウエンが寝入るまでは、この離れの玄関口の外でかがり火が焚かれ、治安局が寄越した数名の衛兵が詰めていたはず。それが今は、その姿が見えないのだ。
「おい、帰ってきた時、玄関のところに治安局の連中はいなかったか?」
ガウエンが問い掛けながら振り返ると、ゴーグが剣の柄に手を掛け妙な顔をして突っ立っていた。
近寄って来ていたゴーグの顔に、ちょうど窓から差し込む月明かりに陰影が造られ、泣き出しそうな顔にガウエンには見えていたのだ。
「ゴーグ?」
「……なんでもない。少し考え事を……。それより、治安局の連中? そんなやつらいなかったぞ」
「いなかった……妙な感じだな」
ガウエンは不審を覚えつつ、また窓から外を窺う。
「一応、外に潜んでるやつらの事は、他の連中には伝えてるぞ」
後ろからかかるゴーグの声に、ガウエンが適当に頷いていると、確かに階下から慌ただしく動き回る物音が聞こえてくる。それは多分、商隊専属の衛士達が外の連中に対して備えをしてるのだろう。
そう思いつつ、ガウエンが窓から眼下を眺めていると、潜んでいる連中もこちらの様子に気付いたのか、ごそごそと動き出したのが分かった。そして樹木の陰で、ぼっと小さな炎が浮かび上がる。その炎の塊は、見る間に数を増やし、円を描くようにくるくると回り出す。
――あれは、火焔玉。
火焔玉とは、半円状の素焼きの陶器を二つ合わせて拳大の玉にしたもの。その中にはたっぷりと油を詰め込み、表面にも薄く油を塗り火を付ける。それを縄に括りつけて、ぐるぐると回し遠心力を利用して遠くに放り投げる。
殺傷より、建物等の延焼を目的とした兵器である。だが、時には奇襲や急襲を敵に仕掛ける際、相手の混乱目的で用いられることも多々あった。
しかし、使用するのは軍が殆どであり、一般に出回り用いられるのは稀であったのだ。
――無茶な、こんな街中で火焔玉を使うとは、この連中、何を考えてやがる!
この宿の本館には、付随する警備の者もいる。騒ぎになれば、その者らも駆け付ける上に、治安局の警邏隊も直ぐに駆け付けるだろう。
だから通常、賊が夜中に事を起こす場合、出来るだけ周りの者に騒ぎが気付れぬようにするか、或いは、遅れて気付かれるようにするのが当たり前だ。
それを、表だって端から火焔玉を使って自ら騒ぎを起こそうとしているのだ。そこに不審を覚えつつも、ガウエンは後ろを振り返り、ゴーグに声を掛ける。
「ゴーグ! このままだと、ここは直ぐに火の海になる。外の連中を討ち倒しに行くぞ!」
「おぉ!」
ゴーグがにやりと笑い、豪快に返事をする。
しかし、そこでガウエンは、ベッドで寝息を立てる赤子に気付く。
「この子は……」
まさか赤子を抱えて戦う訳にもいかず、ガウエンが逡巡を見せると、すかさずゴーグが胸を叩く。
「それなら、この赤子は俺に任しておけ」
ゴーグはそう言うと、体を捻って、背中に背負う円形の盾をガウエンに示す。
ゴーグは傭兵上がりの護衛士。元々は戦場を渡り歩いていた男。戦場では、乱戦になると四方を長柄の武器を持つ敵に囲まれる。傭兵はその中で、生き残る事を第一に考える。それ故、傭兵の間では防御に主眼をおいた、盾術なるものが発達していた。
だからなのか、ゴーグの扱う盾術はかなりのもの。防御に関していえば、護衛士の中でも頭ひとつ抜きん出ているだろう。護衛士の仕事でも、要人警護をもっとも得意としていた。
それに引きかえガウエンは、攻撃こそ最大の防御を地で行くような、師ローエンに薫陶を受けていたのだ。攻撃主体の戦闘スタイルになるのは、自明なことであろう。
赤子とゴーグを交互に見て少し躊躇した後、ガウエンは軽く頷く。
「頼む……その子は、俺にとっては命に等しい」
「よかろう、この剣にかけて、この赤子には誰の手も触れさせん」
ゴーグはそう言うと、腰の剣を少し抜き、また「パチン」と音を鳴らして鞘の中に戻す。
これは、護衛士の間で交わされる命を賭した絶対の誓い。
それを見たガウエンは、もう一度、今度は力強く頷き、「頼む」とひと声残して部屋を飛び出した。
ガウエンが階下へと階段を駆け降りる頃には、建物内へと火焔玉が投げ込まれ始めていた。
あちらこちらで叫び声や怒号が飛び交い、既に、建物中が大騒ぎとなっている。
一階の玄関から入って直ぐにある、大きめのホールでも混乱し喧騒に包まれていた。
商隊を預かるハンスが、必死の形相を浮かべ周りに指示を出し、投げ込まれた火焔玉に毛布を被せて炎を消そうとしている。中には恐怖にかられて、外に飛び出す者もいた。
しかし、それを待ち構えていたのか、建物から飛び出す者には矢が雨のように降り注ぎ、全身ハリネズミと化し地面に転がる。
その騒ぎの中、ガウエンはハンスに駆け寄る。
「ハンス殿!」
「おぉ、ガウエン様。油断しておりました。まさか、街中で……しかも、治安局の衛兵が警戒しておりましたので……」
ハンスは言葉の途中で絶句する。
「その治安局の連中はどこに?」
「それが……気付いた時には既に姿もなく」
――やはり、おかしい。あまりにも、タイミングが良すぎる襲撃。しかし……。
「取り敢えず、その話はまた後で。今は外の連中の排除が先」
「出来ますかな? 外にはかなりの数の賊が……」
「火の手も上がるこの騒ぎです。直ぐにも、近隣に知れ渡りましょう。そうなれば、外の賊もいつまでも踏みとどまれぬはず」
「おぉ、そうでございますな」
「先ずは、ハンス殿は戦えぬ者を指揮して火の始末を。そして……」
そこで言葉を途切らせ周りを見渡し、周囲にいる専属衛士やガウエン以外の護衛士に目を向け叫ぶ。
「戦える者は外に打って出るぞ!」
だが、衛士達は玄関を出てすぐの地面に転がる、無数の矢が突き刺さる遺体を見て顔をしかめる。
「何を躊躇している。時間がないぞ。このままでは、この屋敷と一緒に焼け死に事になるぞ!」
「しかし、ガウエン殿……」
目の前にいた衛士が異を唱えようとするが、ガウエンはそれを遮り言葉を続ける。
「大楯があったであろう。あれを皆で掲げて、密集して出れば被害も少なくすむはず。それとも、ここで座して焼け死にたいか!?」
「おぉ、それなら」
油断していたところに急な襲撃をうけ、浮き足立っていた衛士達も、ガウエンの落ち着いた対応に、ようやく落ち着きを取り戻し動き出す。
大楯は野営する際に、壁がわりに野営地の周りに並べる、人の背丈もあろうかという盾である。
それを周りに掲げて、ガウエンを含めた二十人ほどが、密集して外に飛び出した。
たちまち、「カッカッカッ」と、音を鳴らして矢が大楯に突き刺さる。
その矢を、大楯の隙間から眺めると、鏃も矢柄も矢羽根さえも、全てを黒く塗りつぶされていた。
――夜の闇に漆黒の矢とは恐れ入る。こいつら何者だ。
途中、火焔玉の炎に巻かれ数名が脱落したが、ガウエン達は樹木の陰に潜む賊の近くまで迫る。
賊達は距離をとるため後ろに下がろうとするが、その前にガウエンは大楯の後ろから飛び出し、素早く斬り込む。
目の前にいた覆面の男は、慌てて飛び退こうとするが、その引き足より速くガウエンが踏み込み刃を鞘走らせる。
「ちりん!」
鈴の音と共に繰り出された刃が、男の首根を断ち斬った。
「げぇっ!」
叫び声と同時に、首筋から血流が吹き上がる。その血流を辺りに巻き散らかしながら、男は地面に転がった。
だが、覆面の男達はそれを気にする素振りも見せず、無言のまま、転がる男を飛び越え空中よりガウエンに襲い掛かる。その手に持つ剣の刃は、またしても黒く塗り潰されていた。
その漆黒の刃を、ガウエンの頭上に降り下ろそうとしていたのだ。
それをガウエンは、膝を曲げ腰を落として迎え撃つ。片手斬りに伸びる太刀が、漆黒の刃と交差する刹那、膝を伸ばしその勢いで相手の刃を弾き、伸び上がる切っ先が男の喉を突き破る。が、直ぐにガウエンは地を這うように転がり、続けて襲いかかる男の刃を躱す。
そして、片膝ついて反転すると、その男の脛辺りに横薙ぎの太刀を伸ばし断ち斬る。
「ぐっぅ!」
片足を切り飛ばされた男は、くぐもった呻き声を上げて転がった。
ガウエンが立ち上がり、別の男に向かおうとした時には、衛士達も覆面の男達と斬り結び始めていた。
「気を付けろ。こいつら夜の戦いに慣れてるぞ。二人で、ひとりにあたれ!」
ガウエンが衛士達に声を掛けていると、「ヒュン」と風切り音を鳴らして矢が飛来する。
「ちりん」
しかし、ガウエンは鈴の音を鳴らして太刀を振るうと、あっさりとその矢を切り落とす。
――ふんっ、この程度の月夜であれば、俺には昼間の明るさと何ら変わらん。
それもそのはず、師のローエンと修練する際は、常に漆黒の闇夜の中で、真剣での斬り合いを強要されたのだ。ローエン曰く、「五感を研ぎ澄ませば、見えぬ斬撃も見えるようになる」とのこと。何とも無茶な修練であったが、確かに師のローエンほどではないが、ガウエンも五感は鋭くなった。
しかし、矢を切り落としたガウエンに、続けざま、「ヒュンヒュンヒュン」と、数十本の漆黒の矢が飛来する。
昼間でも数本の矢を同時に見切るのは難しい。それなのに、月の明かりしかない薄暗がりの夜の中、数十本の漆黒の矢を見定めるのは不可能に近い。
だが……。
――もっと感覚を鋭く! 風を匂いを肌で感じろ! もっと五感を研ぎ澄ませ!
ガウエンは数本の矢を躱し、数本の矢を太刀で切り落とす。
それは、「シャンシャン」と鳴る鈴の音がアップテンポの曲を奏で、その曲に合わせガウエンがダンスを踊ってるかのようであった。
月明かりの下、それは幻想的であり、見る者の目を魅了する優雅なものだった。
そこで初めて、無言であった覆面の男達から、「おぉ」と、感嘆の声が上がる。
漆黒の矢も途切れ、その隙をつきガウエンが駆け寄ろうとするが、その前に覆面の男達は潮が引くように退却していく。
――むっ、何ともあっさりな。
「さすが、ガウエン殿。恐れをなして賊が引き上げて行きますぞ」
駆け寄ってきた衛士達が、嬉しそうにガウエンに声をかける。
何とも拍子抜けな感じを受けつつ振り返ると、離れの建物も所々燻りながらも、どうやら無事なようだった。それに、宿の本館の方からも騒ぎに気付き、こちらに大勢の人が走ってくるようであった。
「ふぅ、終わったようだな。それにしても……」
――拍子抜けだな。
正に、その一語に尽きる。あれだけの人数と火焔玉まで用意して、いったい何がしたかったのか。そんな感想を、ガウエンが抱いていると、衛士がまた声をかけた。
「あいつら騒ぐだけ騒いで、なんだってんでしょうね」
その言葉に、ガウエンの頭にひらめくものがあった。
あの連中は騒ぎを起こすのが目的だったのではないかと。そうなると……。
――やつらは、陽動か!
慌てて飛び出して来た宿に取って返す。
宿の一階に駆け込むと、ホールにいたハンスが「ガウエン様」と嬉しそうに声を掛けてくるが、それを無視して、ガウエンは二階に駆け上がる。
そして、自分の部屋に転がるように飛び込むと……ゴーグも赤子の姿も消え失せていた。ベッドの上に、魔除けの鈴だけが残されて……それは、ガウエンの持つ鈴と同じく、母が編んだ赤い組ひもに繋がっている。
「何故だ、ゴーグ……」
そこでようやく、帰って来た時のゴーグの違和感に思い当たる。いつものゴーグなら、休日の時は酒の匂いを漂わせてのに、あの時のゴーグは素面だったのだ。
ベッドの上に転がる鈴を握り締め、剣の師ローエンに次ぐ第二の師とも思っていたゴーグに裏切られた衝撃に、ガウエンは呆然と立ち尽くしていた。