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――あれから十年かぁ。
ガウエン(トマス)は、「はぁ」と深く息を吐き出し、かつての想いを鮮やかに甦らせていたのだ。
この十年の間、ガウエン(トマス)は地べたを這うように生きてきた。それは、十代の頃に渇望した、強さを追い求める十年でもあった。
だから、剣にものめり込んだのだ。
だが……。
――届かない。
世の辛酸を舐め、個人が振るう剣の力にも限界を感じる。
あの男、あのアルベール侯爵が振るう力には到底とどかない。
それは、端から分かっていること。相手は、このトラッシュの領主であり、王族にも連なる侯爵。その絶大なる力は、当然、個人の持つ力とは質も大きさも違う。
届くはずもないのだが、それでもガウエンは、願わずにはいられなかった。
昔を思い出し物思いに耽っていると、ガウエンは指先に妙な違和感を感じた。ふと、視線を下に向けると、いつの間にか目を覚ました赤子が、ガウエンの指先をしゃぶっていた。
「ふっ、お腹でも空いているのか?」
後で、どこかで乳を貰わなければと思いつつ、ガウエンは顔を綻ばせる。
ガウエンが今いる場所は、トラッシュの法を司る治安局の分所の一室。事実確認のため、分所に留め置かれていたのである。
ガウエンの身元については、ダンカンとその部下に口止めし、知り合いとだけ伝えてもらった。そして、ダンカンの知り合いという事で、一応は鉄格子の無い部屋に通されてはいた。
といっても、そこは取り調べにでも使っているのか、剥き出しの石の壁に囲まれた、机と椅子しかない殺風景な部屋だった。壁に配されたランプの微かな炎が、周囲を仄かに照らす。少々手狭なその部屋に、赤子を抱いたガウエンはひとり放置されていた。
ダンカンは、「ユラ様の兄、トマスだと名乗れば直ぐに解放されるのに」と、呆れた顔をしていたものだ。
だが、ガウエンにとって、トマスの名は既に棄てた名前。それに、今さら侯爵家の世話になる気にはなれない。未だ、侯爵に複雑な思いを抱えるガウエンにとって、例え拘束されようと、侯爵家を頼るなど考えられないことでもあった。
その部屋で、ガウエンは何度目かのため息をつくと、赤子の右の手のひらに目を向ける。しっかりと握り込まれた、その小さな拳からは、赤い組ひもが垂れ下がっている。
――やはりこれは。
ガウエンの母が編む組ひもは、少し捻り方に特徴のある組ひもだった。赤子の持つ鈴はどう見ても、ガウエンの持つ鈴と同じにしか見えない。
よく確かめようと、ガウエンは赤子から鈴を取り上げようとする。しかし、よほどその鈴が気に入っているのか、途端に赤子は「あむあむ」と、顔を歪めてぐずりだした。
「あぁ、よしよし。取ったりしないから」
慌てて赤子をあやすと、「きゃっきゃっ」と直ぐに機嫌を直す。
「ふぅ、参ったな……しかし、赤子の話は噂でも聞かなかったが」
この十年、ユラ達がどうなったか気にならないといったら嘘になる。
ときたま漏れ伝わる話では、養父母は領都に家を賜り、今では裕福に暮らしていると聞く。
そして、ユラも……侯爵に大事されてるらしかった。だがこの十年、侯爵との間に子を成したとは聞こえてこなかった。
侯爵はあれから十年、正妃を定めず側妃もユラひとりだった。ユラがこの鈴を捨てるとは思えず、近しい者に赤子の影がないとなると……。
――やはりこの子はユラの……。
そう思うと、ガウエンは赤子の目元がユラに似てる気がした。それと共に、嫉妬、或いは羨望、なんとも言いがたい想いが、心の奥底から沸き上がる。
――十年の間に、ユラへの想いは絶ち切ったと思ったが……。
未だくすぶる想いに、ガウエンは愕然とする。だが、直ぐに首を左右に振り、その想いを打ち消す。
――しかし、妙だな。
ガウエンは不審に思い、首を傾げる。
何故なら、この赤子がユラと侯爵の間に出来た子であるならば、侯爵家待望の赤子であるはず。その赤子が、領都ではなくこのトラッシュの、ユラの生家とはいえ、あの廃屋に女性ひとりと隠れるように潜んでいたことに、ガウエンは不審を覚えたからだ。
それに、その女性を切り捨てた怪しげな黒覆面の連中。
ユラは何か厄介な事に巻き込まれているのかと、思わずにはいられないガウエンだった。
――ユラ……。
今この時も、ユラが危険なめに合っているかもと思うと、焦燥感にも似た感情に支配される。
状況を見極めるためにも、しばらくはこの赤子を預かろうと、ガウエンは決意した。
――それにしても……。
あの時、運命に翻弄されず、ユラと一緒に成る事が出来ていたなら、この子はガウエンの子であったかも知れないのだ。そう考えると、赤子が愛おしくも思う反面、同時に侯爵の顔を思い浮かべ、憎しみに似た感情も沸き上がる。
ガウエンの心に様々な想いがきれぎれに走り抜け、苦しみとも取れるように顔を歪めていると、木製の扉が「ぎぃ」と軋みながら開いた。
「待たせたな、ガウエン」
にこやかに笑みを浮かべ、ダンカンが部屋に入ってきたのだ。
「ガウエン様、とんだ事に巻き込まれてしまったようですな」
ダンカンの後ろには、若旦那こと、エゴ商会の会頭の次男坊でもあるハンスが、困惑気味の顔で従っていた。
「このハンス殿が、ガウエンの身元を保証したのでな、取り敢えずは、お前の身柄を解放することになった」
ダンカンのその言葉に、ガウエンはハンスに目を向け頭を下げる。
その身元の保証といっても、ハンスには昔のトマスの頃の話は明かしていないのだが。
「ハンス殿には迷惑を掛けたようで、すまないな」
「それは良いのですが……」
ハンスはそう言葉を口にしながらも、厄介な事だと言いたげに顔をしかめてみせる。
エゴ商会はアトラン王国でも、指折りの豪商。国に意見ができるといわれるほどの商会でもある。そこの次男坊が、ガウエンの身元を保証したのだ。あっさりと、ガウエンを解放したのも頷ける。
そのハンスであるが、一度、盗賊に身代金目当てで誘拐されたことがあった。
その時、その盗賊の拠点を急襲したのが、ガウエンの師であるローエンであった。
それは、依頼等を受けた訳でなく、ただ、奴等が気に入らんといったそれだけの理由の、なんとも人を食った話だったのだが、それに付き合わされたガウエンには堪ったものではなかった。
その際、救出されたのがハンスだったのだ。
それ以来、歳がガウエンのひとつ下の二十六歳と近いこともあり、気心の知れた間柄となっていた。
とはいっても、ハンスも外回りの商隊を任されているとはいえ、まだ修業中の身。妙な事件に巻き込まれて、商隊を危険にさらしたくない。
その思いが、表情に現れていたのである。
それに気付いたガウエンが、もう一度頭を下げる。
「本当にすまない。迷惑を掛けるつもりは無いのだが……明日にも宿は別に取ることとしよう」
「おや、顔に出ていたようですな。これは参った。まだまだ修業が足りないようだ。どうも、ガウエン様の前では素の顔に戻ってしまうようで」
ハンスはそう言って、苦笑いを浮かべるが、ガウエンを引き止めようとはしない。それが、若いとはいえ、さすがは指折りの商会の身内だといったところであろうか。
ガウエンも苦笑を浮かべつつ、今度はダンカンに目を向ける。
「ところで、ダン。侯爵は今、この街に居るのか?」
「いや、そんな話は聞いていないな。ここ一年ほどは、別宅にも侯爵家の人は誰も来ていない」
「……そうか」
侯爵がいないのに、赤子だけとなると、ますます不審に思うガウエンだった。
「どうした、侯爵様に用でもあったのか?」
「いや……それはそうと、あの悪がきだったダンが治安局に勤めるとはな」
ガウエンはにやりと笑うと、右の拳でダンカンの胸を軽く小突く。
「まぁな、これもユラ様が口を利いてくれたお陰さ。ガウエンも……」
ダンカンが言い掛ける途中で、ガウエンが言葉を挟む。
「俺には関係ない!」
「おっ、そうか……しかし、あの後大変だったんだぞ。お前を探すのにな……何度か街中でユラ様を見掛けたが、かなり悄然として痛ましい姿だったな」
「……」
ガウエンが押し黙る中、ハンスが話に割って入る。
「ユラ様というのは?」
ハンスは二人の侯爵家の内情に踏み込むような話に、興味を示したのだ。
「ん、昔の話だ。俺とダンは幼馴染みだからな。さてと、解放されたなら宿に戻るとするか」
ガウエンは話を濁すようにごまかし、部屋を出て行こうと椅子から立ち上がる。
そのガウエンに、ダンカンがまた声を掛ける。
「あっ、そうそう。念のため、宿の方に警備の者を派遣するから」
「ふんっ、なんだ、俺の監視か?」
「まぁ、そう言うな。お前がちゃんと明かせば、話は簡単なのにな」
「まあ、良い。それじゃ俺はもう行くぞ」
「おい、その赤子はどうするつもりだ」
「んっ?」
「こっちで預かろうか」
ダンカンは腕を赤子に伸ばすが、それを見た赤子が「あむあむ」と、またぐずりだす。
「なんだよ。ガウエンには懐いてるのに、俺にはその態度かよ……たくっ!」
「ふっ、あの女の今際のきわの頼み。無下には出来まい。暫くは俺が預かるのが筋だろう」
そう言うと、今度こそ本当にガウエンは、赤子を抱えて部屋から出て行く。その後をハンスが、ダンカンに頭を下げつつ追い掛ける。
「明日の朝にでも、お前の宿に顔をだすから」
そんなガウエン達の背中に、ダンカンが声を掛けていた。
宿に帰る馬車の中、ガウエンはハンスと並んで座っていた。
ハンスはちらりと、時おりガウエンを窺う素振りをみせながら、思案深げに何やら考え込んでいる。
そのハンスに、赤子をあやしつつ、ガウエンの方から声を掛ける。
「ハンス殿は、エゴ商会のお身内の方。何か、侯爵家のことで聞き及んではいませんか?」
エゴ商会ほどの大きさの商会なら、侯爵家の内情にもある程度、精通してるであろうと思いガウエンは尋ねたのだ。
だが、ハンスはその言葉に、じろりと刺すような視線をガウエンに送る。それは、ガウエンとハンスの今までの長い付き合いの中でも感じたこともない、冷徹な輝きをその瞳の中に宿していた。
「情報は、商人の命でございます」
ガウエンは、背中にぞくりと寒気を感じる。
ハンスがガウエンに向ける視線は、いつも穏和なものだった。それが今は、剣士が放つ殺気にも遜色のない気を放っている。
――本物の商人とは、このような者達だったのか。
ガウエンは改めて、感嘆の念を心に刻んだ。
しかし、直ぐにハンスはいつもの穏和な顔に戻り、ガウエンに話し掛ける。
「と言っても、ガウエン様は命の恩人。私は兄のように慕っておりまして」
「兄とはまた大仰な……」
ガウエンが苦笑するのに、ハンスは真面目な顔で応じる。
「いや、真実のことでございます。私には兄がひとりおりますが、幼い頃より離され育てられておりました。エゴ商会を継ぐべき嫡男の兄は父の元、会頭に相応しい帝王学を叩き込まれ、私は将来、その兄を助けるべく外に出され、色々と商道について学ばされ育てられたのです。ですから、子供の頃から歳の近い親しき友もなく、街中で仲良くしている兄弟などを見るにつけ、羨ましく思ったものでございます」
「ほぅ……商家といっても、大きくなると大変なのだな」
初めて聞くハンスの身の上話。ガウエンは、首を傾げながらも頷き聞いていた。
「私は次男といっても、商会の歯車でしかないと思い、他の人からすれば贅沢かも知れませんが、将来に希望を見いだせず、絶望していたのでございます。そんな時に、あの誘拐騒ぎだったのです。賊のあじとに颯爽と現れたガウエン様は……恐怖に震える私には、それはもう眩しく見えたものです」
「これは参ったな。あれは師のローエンに無理矢理連れていかれただけ。それに、盗賊の大半は師が討伐なされた。俺はほとんど何も出来なかったのだが……」
あまり誉められたことのないガウエンは、照れたように頭を掻くしかなかった。
「いえいえ、私とさほど歳の変わらぬガウエン様が活躍する様に、私は感動を覚えました。それからです。私が変わったのは……いつか、自分の力で商会を立ち上げ、この国、いえ、この大陸一の商会を作ってみせると、大それた望みを抱いたのでございます……」
「……」
ハンスの突然の打ち明け話に、ガウエンは驚くしかなかった。
――人とは不思議なものだな。
それが、ガウエンの正直な感想だった。侯爵と出会い、ガウエンの人生が狂い。そのガウエンと出会うことによってハンスは立ち直ったのだ。
人の縁とはまことに不思議なもの。人の運命は独立しているようで、様々な人の運命と絡まり数奇な運命を織り成す。その大勢の人の運命が、大きなうねりとなり人の歴史を作り出すのだ。
ガウエンは自分がハンスの人生に、知らずに影響を与えていたことに驚嘆していた。
「ですので、兄とも慕うガウエン様に、情報をお渡しするのは吝かでは無いのですが……」
そこで言葉を区切ったハンスが、またちらりとガウエンを窺う素振りをみせる。
「ガウエン様は……いったい何者なのでございますか」
「ん?」
「先ほどの分所で、侯爵様やユラ様のお話しが出ていたように思いましたので」
ガウエンは「うぅむ」と唸ると、どうしたものかと顎先を撫で擦りながら考える。今の状況が全く分からないガウエンには、情報が喉から手が出るほど欲しいのだ。
しかし、幼馴染みのダンカンもだが、このハンスもどこまで信用して打ち明ければ良いか、判断をつけかねていた。
――あの女は死の間際、三日もあれば事態が変わるような事を言っていたが……。
しかし、ユラの身に危難が降りかかってるかも知れないのだ。座して待つことなど、考えられないガウエンであった。
ハンスから侯爵家の情報を引き出すため、ある程度は事情を話そうと口を開いた。
「そうだな、ハンスには少し……」
しかし、その時に……。
「あぶぅあぶぅ」
赤子が突然、泣き出したのだ。
「おぉ、どうした突然……」
ガウエンが幾らあやしても、一向に泣き止もうとしない。
「……これは、あれですな。そのぅ、下の方ではございませんか?」
ハンスの言葉に赤子の腰を巻く布を捲ると、何ともいえぬ匂いが車内に漂う。
「や、これはハンス殿、申し訳ない」
「ははっ、構いませぬよ。これも赤子が元気な証拠。ある意味、赤子の仕事のようなものですな」
ハンスが笑いながら、赤子を覗き込む。
「おっ、男の子ですな」
ハンスの言葉に、ガウエンは目を見開き驚く。それまで、赤子の性別を確かめていなかったからだ。
――なんと迂闊な。だが、そうなるとこの子は……。
侯爵家の嫡男となる子かも知れないのだ。
「しかし、困ったな。替えになる布がない」
ガウエンがあたふたと慌てていると、ハンスが馬車の前方を指差し叫ぶ。
「おぉ、ガウエン様。もうすぐ宿に着きますぞ。確か、宿の女将が二ヶ月前に赤子が産まれたとか言っておりましたな。少し、世話を頼んでみましょう」
そうこうしてる内に、馬車は宿に到着する。
慌てて赤子を抱いたガウエンは、停止した馬車から飛び降りるようにして宿に向かう。が、その瞬間、首筋にひやりとした感触を覚える。
――むっ、誰かが監視している。
周りを見渡すが、それらしき者は見えない。しかし、ガウエンの剣士としての感が囁くのだ。
「ガウエン様?」
「……何でもない」
あの闘争から、まだそれほどの時間も経っていない。だのに、もう宿に監視の目があるのだ。
やはり狙いはこの赤子かと思うと同時に、その組織力に舌を巻く。
しかし通りには、ガウエン達を追い掛けて来る、治安局の馬車も目に入る。だから……。
――今日の今日で、まさか襲い掛かって来ることもあるまい。
それは、ガウエンの慢心であった。或いは、昔を思い出し、過去に囚われていた故の油断であったかも知れない。