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 アトラン王国では、使者を立てるなら午前の間にといった習慣がある。まだ陽が昇る時間帯が、交渉事に良い影響を与えると信じられていたからだ。


 この日、侯爵家から訪れた使者も陽が登り始めた早朝に、トマスやユラが暮らす家の扉を、「コンコン」とノックしておとないを告げる。

 その時ちょうど家の中では、朝食を終え露店を営む養父が仕事に出掛けようとしているときだった。最近では、トマスもその露店を手伝っている。

 来年にはトマスも、新たな露店を出店する段取りが出来ていて、今は商売の勉強をするため養父に同行する日々が続いていた。

 今日も一緒に出掛けようとした時だった。


「おや、こんな朝の早い時間に誰だろうな」


 養父が首を傾げながら扉に向かう。


 トマス達が住み暮らす地区は、養父のように露店を営む者や日傭ひよう取りの労働者が多く住む、所謂いわゆる、低所得者が数多く居る地区であった。そのためこの地区の住民は、陽が昇り空が白み始める時間には既に起き出し、炊飯の音を響かせる。女房衆は旦那を叩き起こし、その尻を蹴り飛ばして仕事へと送り出す。中には、早朝から派手な夫婦喧嘩に興じる家もあるほどだ。

 後少し時間が経つと、女房衆がのんびりと井戸端会議を始めるのだが、まだ今は喧騒に包まれる時間。そんなまだ鉄火場な様相を示す早朝、品よくノックと共におとないを告げる者などこの近所に居るばすもなく、養父が不審を抱くのも最もなことであった。


 養父は怪訝けげんおも持ちで扉を開けると、思わず驚いて後ずさる。そこには、緑一色の衣装に身を包む男性が立っていたからだ。


 アトラン王国では、緑が平和を象徴する色であり、使者は必ず緑の衣装を身に纏うのだ。だが、使者など一般の領民には縁も薄く、特に低所得者達には一生縁などあるはずもなく、ただ驚くしかなかったのである。


 その緑の男性はぐるりと家の中を見渡し、そのみすぼらしさに眉をしかめて口を開く。


「私は侯爵家からの使いの者である。ここは、露店商を営むマーカスの家であるな」


 侯爵家の使いの者と名乗る男は、少々居丈高な甲高い口調で口上を述べ始めた。


「……はぁ」


 養父マーカスは、気のない返事をしつつ頭を下げる。そして、男の値のはりそうな、しわのひとつも無い衣装を汚すのを気にしたのか、男から一定の距離を保ったまま家の中へと招き入れた。


 家の中の居間ではまだ、トマスがユラや養母とテーブルを囲んでいた。漏れ聞く侯爵の使いという言葉に、数日前の屋敷での件かとトマスは狼狽するが、家の中に入ってきた緑の男に面食らい困惑する。


 居間の上座に案内された、使いの緑の男は横柄な態度でに席に着くと……。


「ほぅ、その娘御がユラ様ですな。ふむふむ、噂にたがわぬお美しさですなぁ」


 目ざとくユラを見付け、しかめていた眉を下げるとその表情を笑顔に変える。


「えぇ、そんなあ……」


 困惑して顔を見合わせるトマス達家族の中で、ユラだけがはにかみ照れ笑いを浮かべていた。


「えぇと……どういった御用なのでしょうか?」


 おずおずといった様子で養父母が尋ねると、緑の男はにやにやと相好を崩す。


「や、これは失礼した。私はこの家に福をもたらしに来たのですよ。はっはは」


 トマスの養父マーカスも露店とはいえ商人の端くれ、この使者の先ほどからのもったいぶった態度に、「ははぁん」とようやく思いあたる。

 要は何らかの慶事けいじを持って来たので、後でお裾分けをということなのだろうと。有り体にいえば、金銭を寄越せということなのだ。

 トマスの事かと思っていた養父は、少しほっとしつつも内容が気になり、先を促す。


「どうやら、善きお話しを持ってらっしゃったようですが……」


「そうです。もうこの家の栄誉栄達は約束されたようなものですな」


 それでも尚、緑の男はもったいぶろうとする。そうすればするほど、後の金銭に影響するかと、思っているかのようであった。


「もうそろそろ、具体的な内容をお教えして貰えないでしょうか」


 れた養父は、少々きつめの口調になってしまうが、それは無理からぬ事であった。

 緑の男はまた少し眉をしかめたが、頃合いと思ったのか、ようやく本来の話を口にする。


「正式な使者は明後日みょうごにち、日の出と共に訪れます。私は侯爵家の命にて、その先触れのためまかり越しました。平たくいえば、使者と共に迎えの馬車も参りますので、それまでに用意を整えよという事ですな」


「……」


 未だ要領の得ないトマス達は、お互いに顔を見合わすばかりである。


「迎えの馬車とはいったい何の事なので……」


 養父マーカスが当惑して尋ねると、緑の男はにやりと人が悪い笑みを浮かべる。


「過日、侯爵家のお屋敷に於いて騒ぎになりし折り、この家の娘御であられるユラ様が、大層なお働きをなされたとか。侯爵家に於いては、ユラ様のことを大いに気に入られ、是非とも侯爵様の側室にとの仰せでございます。侯爵様はこのトラッシュの領主で有らせられる上に、現王の弟君にもあたられるお方。こう申しては何ですが、このような家の娘御が側室に上がられるとは、有り得べからざる事。大変名誉なことですぞ」


 緑の男は得意気に話し続けるが、四人は仰天して声も出ない。

 養父母は焦った顔で、トマスとユラを交互に見比べ。トマスは口を半開きに呆然とし、話を理解出来ない。いや、理解をしたくないのだ。

 ユラに至っては、顔を歪めて今にも泣き崩れそうになっていた。

 その様子にようやく気付いた緑の男は、自分が想像していた反応とは真逆に、歓迎されていない事に思い至る。

 途端に、緑の男は上機嫌なにこやかな態度から一変、あからさまに顔をしかめると不機嫌な態度となった。

 それもそのはず、側室とはいえ、これ以上もない慶事だと思っていたからだ。こういった祝い事の使いの者には、げんを担いで、後に両家よりそれなりの礼物が捧げられるのが、アトラン王国での古来よりの慣習。だが、もし話がこじれるような事にでもなれば、それもまた使いの者の責任とされ、両家より責められるのもまた、古来よりの慣習であった。

 今回の使いの相手は、確かに裕福な家ではなかったが、話の元となるもう片方の家は侯爵家。緑の男は、内心ではほくそ笑みながらここまでやって来ていたのだ。それが歓迎されないとなると、青くなるのも道理である。

 だから、脅しともとれる言葉を、更に甲高くなった声で口にする。


「分かっておるのであろうな。相手は王弟でもあられるアルベール侯爵様。もし、断るようであれば、このトラッシュ、いや、この国にも居られなくなる。それどころか、侯爵家の体面に傷をつけるのだ。どのような罪に問われるか、知れたものでもないのだぞ!」


 緑の男も必死であった。金品を貰うどころか、この先の出世にも響く。下手をすれば、僻地に飛ばされかねない。

 元々、この緑の男は侯爵家の臣ではなかった。こういった祝い事の使いには、両家とは関わりの無い者が使者となるのが通例である。

 トラッシュは侯爵領ではあるが、王都へと繋がる交易路の中継地としての側面もあった。そのため、トラッシュの政庁には王都から出向してくる職員も多数いたのだ。この男もまた、そうした職員のひとりだった。

 元は、王都の下級貴族の三男坊。このトマス達が暮らす地区を管轄する部署の責任者でもあったのだ。


「よく考えてみろ。もし、子でもなせば、その子は王族に連なる事となる。そうなれば、お前達はその姻戚いんせきだ。そこらの貴族など問題にならん身分を手に入れるのだ」


 緑の男はかんばしくない状況に激昂しかけるが、もしこの娘が側妃になった場合の事を考え、今度は媚びるように猫撫で声で言う。

 だが、養母はおろおろするばかり。養父は腕を組み、天を仰ぐようにして中空を睨むだけ。トマスも来年は成人といっても、まだ子供のようなもの。どうして良いか分からず、ただ呆然とするしかなかった。

 ユラは突然の話に、テーブルに突っ伏し泣いていたが……。


にい様……私は嫌です。ユラはにい様の元へ……」


 トマスにしがみつき、大粒の涙を溢す。

 そこでようやく、トマスは「はっ」と我に返った。


 ――侯爵め、今度はユラまでも、僕から取り上げるつもりか!


 侯爵の事を少しは見直した思いのあったトマスだったが、この事で逆に憎しみが倍増する。

 皆がそれぞれ思い悩む中、緑の男の猫撫で声だけが家の中に響く。


「娘よ、なぜ泣く必要がある。側妃になれば、何不自由なく過ごせる上に、どんな願いでも叶えられるのだぞ。それにな、ここだけの話、侯爵様は侯爵家に繋がる門閥貴族を作るのを嫌って、貴族達が送り込む女性を側に近付けようとしなかった。この意味が分かるか、未だ正妃も側妃も居られぬのだ。だから、お前が第一側妃になれる。将来、上手くすれば、領主の生母に……」


「うるさいぞこの野郎! その良く回る舌を引っこ抜いてやる!」


 とうとう、腹に据えかねたトマスが使いの男に掴み掛かった。


「お前らに、ユラは渡さない!」


「な、何を言っている。お前達は兄妹ではないのか?」


 居間の中央で、使いの男とトマスが揉み合うが……。


「これトマス、止めなさい」


 それを、養父マーカスがトマスを背後から抱きすくめる形で、止めに入る。


「な、なんたる無礼。使者に対して礼を欠くにもほどがある!」


「うるさい! お前の方こそ人の気持ちも考えずに……」


 それでも尚、トマスが飛び掛かろうとして、二人は争おうとする。


「トマス、落ち着け! お使者の方も、話は確かにうけたまわりましたので、どうか、今日のところは……」


 養父マーカスが二人を引き離し間に入ると、使いの男を家の外へと押し出していく。


「な、何を……侯爵様の使いであるこの私を追い返すつもりか」


「そういう訳ではございません。ただ、今日のところは……侯爵様によろしくお伝えください」


 そう言うと、養父マーカスは、到頭、使いの男を家の外へと追い出し、玄関の扉をぴしゃりと閉めきった。


「なんたる無礼な連中だ。このような連中が侯爵様の縁に繋がるとは嘆かわしい」


 家の外で、使いの男はわめき散らしていたが、しばらくすると……。


「分かっておるであろうな、明後日の日の出だぞ」


 最後にはそう言い残して去って行った。


 その間、皆は無言のまま空虚な静寂が家の中に流れていた。時おり、むせび泣くユラの嗚咽が聞こえるのみ。

 そんなユラを養父母が、肩を抱くようにして慰めていた。


「あなた、どうにかならないの? このままではユラがかわいそう過ぎます」


「……どうにもならん。相手が侯爵様ではな」


 あの使いの男が指摘した通り、この話を断るならこの街では生きていけないだろう。

 まずは、このトラッシュの街から逃げ出さなければいけない。しかし、この国では、街から街へと往来するには身分を示す手形が必要となる。そのようなもの、役所が素直に発行してくれるとも思えない。

 それに、トマスは勿論、養父マーカスにしたところで、生まれも育ちもこのトラッシュである。この街から外に出たこともない。他所に頼るべき縁故もいないのだ。

 それが、この国に暮らす民の大多数の有り様であった。

 それは、その土地に民を縛りつけ統治しやすくするための、この国の政策でもあったのだ。

 だから、断るなら夜逃げ同然に街から逃げ出し、何の保証もない流民と成り果て彷徨うこととなる。それは、野山で行き倒れとなりかねない事を意味する。

 それならばと、養父マーカスは考えてしまうのだ。家族のため、いてはユラの将来のためにも、トマスには悪いが、ここは侯爵様の求めに応じる方が良いかと思い、養父マーカスはため息を溢すのであった。


 その間、トマスはといえば、嘆く養父母やユラの横で座り込み、拳を床に叩き付けていた。


 ――何故、何故僕にばかり……くそぉ!。


「うおぉぉぉぉぉぉ!」


 トマスは突然、雄叫びを上げると外に飛び出して行こうとする。


「どこに行くつもりだトマス!」


 養父マーカスが、そのトマスの腕を掴んで引き止める。


「決まってる! 侯爵のところに行って……」


「馬鹿者! トマスお前が行ったところで、何も解決にはならん。それどころか、この前のお屋敷での事を蒸し返され、今度こそ罪に問われる事になるのが分からんのか」


「でも……」


 トマスにもそれは分かっていた。自分には何の力もない。侯爵家に行ったところで、何も出来ない事を。


 ――僕にもっと力があったら……。


「ユラは、侯爵様の元に参ります」


 その時、今度はユラが突然立ち上がり、涙の跡を頬に残しつつも、決意をその表情に浮かべ言い出した。

 父母は驚きユラの顔を見詰める。

 そして、トマスも……。


「ユラ、何を言っているんだ」


「もう決めたのです」


 ユラの突然の豹変ぶりは、父親の言葉を聞いたからであった。

 このままでは、兄トマスが罪を問われ、また捕まってしまうと思ったのだ。それに、あの時自分が言った言葉も思い出していた。

 兄の代わりに自分が罰を受けると言った事を。

 そして、これがその代わりの罰だと思ったのだ。


 もっとも、侯爵自身はそのような事を考えてもいなかったのだが。それどころか、このユラを側妃に迎えるといった話すらも、そもそもが知らぬ事であった。

 確かにあの折り、アルベール侯爵はユラの神々しさに打たれ、その気概に感動さえ覚えた。その事を近侍の者に洩らし、それを勘違いして気を回したのが、事の発端だった。

 元々侯爵家は、罪を犯した貴族の没収所領と、王家の直轄領を割譲して新たに興された家柄。未だ正妃も定まらず、側妃すら居ない事から家臣達からは嫡子を心配する声が上がっていた。

 そのため、とんとん拍子にこの話は進んでいく。

 股肱の臣であるはずの騎士ジェイクなどは、途中でこの勘違いに気付いたが、この際、相手が街の娘であろうとこれ幸いと話を一気に進める。

 貴族達の目を気にしつつも迅速かつ、アルベール侯爵本人にすら秘密に事は進められたのだ。

 近侍する家臣達は、「侯爵様も気にいった相手なのだ。候宮に迎えてしまえば、文句も言うまい」と、高をくくっての暴挙であった。


 そう、歯車は動き出したのだ。もはや、トマスがどう足掻こうが、止まることはない。

 正式に使者を立て、侯爵領の政庁が動いている。例え、侯爵本人が知って止めようとしても、止まらぬところまで来ていたのだ。




 トマスは自分の部屋のベッドに腰掛け、窓から空を見上げていた。

 深夜の雲ひとつない澄んだ空には星々がまたたき、真円に近い大きな月がぽっかりと浮かんでいる。

 その月を見ながら、トマスは何度もため息をつく。


 満ちた月には、人の顔に似た模様が浮かび上がる。その事からアトラン王国では、月には死者の国があると信じられ、死んだ者が地上に残した者を心配して、月から見下ろしているといわれていた。


 ――父さんと母さんも、あの月から僕を見下ろしてるのだろうか? 父さん母さん、僕はまた全てを失いそうだよ。


 あの侯爵家からの、先触れを告げる使者が来てから、すでに一日が経っていた。明日の日の出には、迎えの馬車がこの家にやって来る。

 それを止めるすべが、トマスにはなかった。

 既に、ユラが行く気になってるのだ。どうしようもない。ユラは家族のため、自分が犠牲になるつもりなのだ。

 トマスはユラと顔を合わす事も出来ず、部屋に隠ったきり鬱々と過ごしていた。

 こうなったのも全ては自分の所為、分かっているが誰かを恨まなければ、やってられないと思うトマスだった。

 アルベール侯爵を、世の中の全てをトマスは憎む。だが、憎しみも行き過ぎると……。


 ――ははっ、もはや笑うしかないな。


 トマスはまだ少年。自分の力の無さに嫌気がさし笑うしかなかった。


 ――僕に……もっと力があったら。もっと……何者にも負けない強さがあったなら。


 トマスは力を、強さを渇望かつぼうする。

 そんな悔しい思いでいると……。


「ちりん」


 窓際に吊るした鈴が、風に吹かれて涼やかな音を鳴らした。この鈴は、今は亡き両親が、トマスが生まれた時に健やかに育って欲しいと願いを込めて、トマスに贈ったもの。

 母が数本の赤い紐を編んで作った組紐で、二つの鈴を結んでいる。

 まだ、赤子だったトマスは当然覚えていない。しかし、物心がつく頃にはいつも側にあった。ある日、大きくなったトマスに、母がそのいわれを教えてくれたのだ。

 そして、笑顔でこうも言っていた。


「これは邪気を払う鈴。大人になって好きな人ができた時に、片方を相手に渡しなさい。そうすれば、たとえ離れる事があったとしても、鈴が呼びあい再び巡り合う事ができるのよ」


 母がトマスひとりを残し、父の後を追うように逝ったとき、トマスも母の事を恨みにも思った。

 しかし、今のトマスには、その母の気持ちが分かるような気がした。


 鈴の音を聞きながら、月を見上げていると、何故か母の顔が浮かんでくるトマスだった。


 トマスが両親の事を思い出していると、「こんこん」と、誰かが部屋の扉をノックした。


にい様、トマスにい様、起きてるの?」


 部屋の外から聞こえてきたのは、どこか緊張を帯びたユラの声だった。


「……あぁ、起きてる」


「そう……入ってもいいかな?」


「……」


 トマスは返事をすることが出来なかった。今、ユラの顔を見ると、言わなくて良いことまで言いそうで、それが怖かったのだ。

 しかし、ユラはトマスの返事を待たず、部屋の中に入ってきた。


にい様には、どうしても言っておきたいことがあるの」


「ユ、ユラ……」


 トマスの目の前に立つユラは、いつもの子供っぽさは影を潜め、窓から差し込む月明かりを浴びて、どこか大人びた妖艶な雰囲気を放っていた。

 トマスが思わず視線を逸らすと、「ふふっ」と微笑を浮かべてベッドのトマス横に、ゆっくりと腰を下ろす。


「トマスにい様、ごめんなさい」


「ユラ……何故、お前が謝る」


「ユラは、いえ……私が小さい頃にした約束。にい様と結婚すると言ったのに、それを破る事になるから」


「……」


「私は、初めて会った時からにい様のことが好きだった……にい様は私のことが好き?」


 ユラはトマスの瞳をじっと見詰めて問い掛ける。


「……あ、当り前だ。お前がいたから僕は……」


「そう、それを聞いて安心して行ける。にい様はいつもはっきり言わないから」


「僕はユラが好きだ。いつでもはっきりと言って上げるから……だから、僕と二人で逃げよう」


 トマスは込み上げる想いに押されて、ユラの手をしっかりと掴む。

 しかし、ユラはゆっくりとそのトマスの手を引き剥がす。


「……駄目よ、そんなことをすれば、父さんも母さんも困ったことになるもの。それに、トマスにい様も……」


 トマスには分かっていた。ユラがそう言うだろうと……。

 ユラは自分のために、誰かを犠牲には出来ない娘なのだ。だからこそ、トマスはユラに心を開いたのだから。

 トマスはがっくりと肩を落とす。


 その時……。


「ちりん」


 鈴の音が鳴った。それは柔らかく、全てを包み込むような音に聞こえた。


「綺麗な鈴の音……」


 ユラが目を細めて鈴を眺めた。


「……そうだ、この鈴をユラにあげるよ」


「えっ、でも、その鈴はお母さんにもらった大事な鈴でしょう」


「うん、だからひとつずつ、片方はユラが、もう片方は僕が」


 トマスは鈴を二つに分けると、ひとつをユラに差し出す。


「良いの?」


「あぁ、ユラに持っていて欲しい」


「……嬉しい。にい様、ありがとう。この鈴をにい様だと思って大事にする」


 ユラはその鈴を嬉しそうに、胸に掻きいだく。

 暫くそうしていたユラだったが、ふと潤んだ瞳をトマスの瞳に向けて、じっと見詰める。


にぃ様……後はもう、言葉は要らない」


 そういうと、ユラがトマスの唇に、自分の唇をゆっくりと重ねる。

 突然のことに驚くトマスだったが、同時にユラが精一杯背伸びして、大人びた振るまいをしていることを覚った。何故なら、ユラが微かに震えていたから。

 トマスはユラがいとおしくなり、ぎゅっと抱き締める。その弾みで二人はベッドに、抱き合ったまま横になった。


 そしてその後は、二人の息づかいと衣擦きぬずれの音が、暗がりの中に響くだけとなった。


 翌朝、空が白み始める前には、トマスの横からユラの姿はいなくなっていた。




 トマスは今、トラッシュの近くにある小高い丘の上にいた。


 ユラを見送るのが、トマスには耐えらなかったのだ。


 日の出と共に空が白み始める頃、家の前は大騒ぎとなっていた。いや、家の前だけでなく、トマスが暮らしていた地区全体が、喧騒に包まれていた。

 それもそのはず。

 低所得地区には、ついぞ見たことも無いような豪奢な馬車が、着飾った騎士達を引き連れ現れたのだから。

 その訳を知ると、近隣の者は驚嘆して更に大きな騒ぎとなる。

 囃し立てる者や祝福の声を上げる者など、既に祭りのような騒ぎとなったのだ。

 その騒ぎの中、トマスはそっと裏口から家を出ると、トラッシュの街から脱け出していた。


 丘の上から見下ろすと、眼下にはトラッシュの街並みが広がっている。トマスの心とは裏腹に、朝陽を浴び輝いているかのように見えていた。


 ――ユラは今頃……。


 顔を歪めたトマスは天を仰ぐ。そして……。


「ユラァァァァァ……!」


 眼下に広がるトラッシュの街に向かって、大声で叫んでいた。


 ――ここにはもう、僕の居場所はない。


 トマスはトラッシュの街に背を向け歩き去る。

 その背中はどこか淋しげであったが、トラッシュの街を振り返ろうとはしなかった。


 ――力を、何者にも負けない強さを、必ず手に入れてやる。




 この日はちょうど、トマスが十八になる半年前。十八の成人となった時、ユラと結婚するはずだった。その半年前だった。


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