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 屋敷の持ち主はよほどの商人なのか、ガウエンが歩く庭は結構な広さがあった。ユラの侍女に案内されるまま樹木の間を抜けると、目の前にはちょっとした大きさの池があるほどに。

 しかも、その池がガウエンを案内する侍女の、目的地のようである。

 その池のほとりには、外壁の無い茅葺きの屋根を四方の柱で支える、ちょっとした東屋あずまやが建っていた。

 月明かりが、池の表面にきらきらと弾かれ、傍らに建つ東屋と相まって、なんとも言えぬ風情がある。それは、まるで一幅の絵画を見ているかのようであった。


「あちらに……」


 その手前、少し離れた所で立ち止まった侍女が、片手で東屋を指し示しガウエンを先へと促す。言い含められているのか、侍女はそれ以上は先に進まず、どうやらそこから先はガウエンひとりで進まねばいかぬようであった。

 軽く頷いたガウエンが、東屋へと続く池の傍らにある小道を歩く。

 そのガウエンに気付き、東屋の中央に配された椅子に座っていた女性が立ち上がった。


 ――ユラ!


 赤子を抱くその女性は紛れもなくユラであった。月明かりの中で立つ姿は神々しく、周りの幻想的な風景に違和感なく溶け込み、まるで、神話世界の女神のようである。

 ガウエンの心臓は、早鐘の如く鼓動を繰り返す。


 東屋の入り口で立ち止まり、思わずユラを見詰めるガウエン。

 そして、ユラも――


 かつての幼き少女から大人の成熟した女性へと変わったのを表すかのような、どこか妖艶さを漂わせるそのぷっくりと膨らんだ唇。その口元から甘い吐息共に呟く。


「トマスにぃさまぁ……」


 周囲の時間が、止まったかのように見つめ合う二人。ユラも、トマス(ガウエン)の事を忘れた訳では無かったのだ。初恋の男性ひとであり、自分がもっとも愛した男性ひとなのだ。忘れるはずなど無い。


 二人の万感の想いが、この十年の間での想いが、東屋の中の空間で交錯する。二人の脳裏には、この十年という時間さえも飛び越え、過去の想いが鮮烈に甦るのだ。



「……大人になったら……ユラが兄様のお嫁さんになったげる」


「ユラに何かあった時は、僕が必ず駆け付け助ける!」


 必死に訴えるユラと、それに照れたように答えるトマス(ガウエン)。



 交わした約定と共に、鮮やかに甦る過去の想い出。運命の皮肉によって断ち切られたはずの糸が、今また結び付こうと……だが、それは――


 ――ちりん!


「だぁ、だぁ」


 赤子が、握り締めた鈴を鳴らし泣き声を上げて、二人の時間を切り裂いた。

 そこでようやく、二人は我に返り覚る。

 今、二人の運命が繋がったように感じたのは、幻想なのだと。赤子が教えてくれたように、過ぎ去った十年という長い時間は、もう取り返しがつかないのだと。


 二人はどちらからともなく、「ふぅ」と短く息を吐き出し、そっと東屋にある椅子に座る。そして、もはや二人の視線は絡み合う事も無かった。


「その鈴……まだ大事に持っててくれたのか」


 赤子が、無邪気に手のひらの中で鈴を玩ぶのを眺め、ガウエンは呟くように言う。


「……はい、にいさまに貰った宝物だから……」


 そう言った後、二人して黙って夜空に浮かぶ月を見上げる。そうしてる間だけ、二人は十年前のあの頃に戻れるような気がしたからだ。

 だが、しばらくしてガウエンがまた、ぽつりと呟く。


「……その子には、トマスと名付けたのだな」


「……はい、にいさまを忘れない為に……先ほども、部屋に入って直ぐにトマスにいさまだと……」


 ユラも最初に目にした時に、ガウエンがトマスだと気付いていた。しかし、皆の目があり、何よりもユラ自身があの場でトマスと認めると、激情に流されそうで耐え忍んでいたのである。


「俺も、ユラの事を忘れた事はない……」


 ガウエンが、太刀の柄にに括り付けた鈴を指で弾き、「ちりん」と音を鳴らす。


「あっ、その鈴は……」


 はっとしたユラが、その鈴に目を向け手を伸ばそうとする。

 しかし、その弾みに抱き抱える赤子が転がり落ちそうになった。


「おっと、危ない!」


 慌てて支えようと、ガウエンが手を伸ばす。が、その拍子にガウエンとユラの腕が絡み合う。


つっ……」


 途端に、痛みにガウエンが顔を歪める。それは、昨日今日と相次ぐ戦闘で傷付いた箇所を、ユラがちょうど触れたからであった。


「まあ、大変! トマスにいさま、もしかして怪我を」


「なに、大丈夫、ほんのかすり傷だ」


 慌てるユラに、苦笑混じりに答えるガウエン。


「本当に、大丈夫なの?」


「あぁ……そうだな、こんな傷ぐらい男の勲章だ、とでも言っておこうか」


 目尻の横に微かに残る傷跡を擦りながら、ガウエンは少しおどけた調子で答える。それは、かつての思い出の再現。アドリアの樹から二人して落下し、ユラが初めてガウエンのお嫁さんになると言った、あの想い出の――


 ユラも過去を思い出していたのか、伏し目がちに俯いていたが、突然、クスクスと笑い出した。


「ふふ、トマスにい様は相変わらずなのね……」


 微笑を浮かべていたユラは、そう呟くと、急に真面目な顔に変わりガウエンを見詰める。

 そして、ガウエンも――


 その後、無言で見詰め合っていたが、二人して息を合わせたかのように言葉を紡ぐ。


「ユラ、俺と一緒に……」

にい様、私と一緒に……」


 二人は同時に、全てをなげうち手を取り合って逃げ出す未来を、その脳裏に想い描いたのだ。

 しかし、続きの言葉は宙にかき消える。そんな事が出来ないのは、二人には分かりすぎるほど分かっていたから。


 ガウエンもこの十年で、世の辛酸を嘗めて来た。もはや、十年前の少年ではないのだ。


 トマスと名付けられた、将来はこの国の王になるかも知れない赤子の生母ユラ。それに引き替え、多少なりは有名になったとはいえ、一介の護衛士でしかないガウエン。

 夢にももう、二人の運命が交わる事など無いと、ガウエンには痛いほど分かっていた。


 だから――


「ユラは幸せなのか?」


 今のガウエンには、ユラの幸せを願うぐらいしか、出来ることが無いのだ。


「……はい、アルベール様は、お優しいお方です」


「本当に? 赤子が産まれた事は、おおやけにされて無かったようだが」


「それは、お優しいアルベール様が、御嫡男を亡くされた心労から、体調を崩されたアイザック様に気を使われて……」


「そこには他意はないと? それに、屋敷でも邪険にされたりは?」


「はい、時期をみて公表すると。それに、屋敷に仕える方々も、アルベール様も、私を大事に扱ってくれます」


 ガウエンの疑問に、ユラは擁護するかの如く少しムキになって抗弁する。

 そこに、ガウエンは微かではあるが、ユラとアルベール侯爵との間にある男女の匂いを嗅ぎ取ってしまう。


 剣士たる者、人の感情の機微には鋭い。それは、相対する者の気配を読み機先を制するため。

 ガウエンの、その剣士としての勘が、読みたくも無いユラの感情の揺らぎを読み取ってしまうのだ。


 心の奥底に、ざわりと波打つ感情。それは、嫉妬。

 だからであろうか、ガウエンは言わずとも良いことを、責めるかのような口調で言ってしまう。


「もう、ユラは……俺の知っているユラでは無くなったのだな」


 はっとするユラ。その表情は強張り、僅かに震えさえしている。


「……トマスにいさま……にいさまこそ、今まで何処に……後、せめて後一年早く姿を現していたら……」


 ガウエンの不用意な一言が、ユラの激情を呼び起こし、その瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちる。

 そして、ユラは突然立ち上がり駆け出した。


「あっ、ユラ!」


 月明かりがあるとはいえ、周囲は足下も覚束ない夜の薄暗がり。赤子を抱えたユラが、池の側にある小道を容易く走り抜けれるはずも無い。

 案の定、東屋から少し走り出した所で、足を取られ転びそうになる。

 それを見たガウエンも慌てて東屋から飛び出そうとするが、その前に、何処に隠れていたのか、案内をした侍女が現れユラをそっと支えた。

 その侍女は振り返ると、射すような冷たい視線を、ガウエンに投げ掛けてくる。それは、ガウエンがそれ以上近付くのを、拒む視線でもあったのだ。


 その眼差しに、二の足を踏むガウエン。

 そうしてる間に、ユラと侍女は闇の中に消え去った。


 ――くそっ、俺は……。


 心の中で悪態を付くガウエンは、呆然と夜空に浮かぶ月を見上げる。


 しかし直ぐに背後の物陰に目を向け、険しい声を放つ。


「覗き見とは、趣味が悪いな」


「さすがは幻音のガウエン。潜んでいたのを分かっていたのか」


 そう言って物陰から現れたのは、侯爵家の騎士団長であるジェイクであった。ユラは侯爵家の側妃でもある。今は、混乱の最中でもあり、騎士達が陰ながら守護していたのだ。


「しかし……あの折りの少年が、ガウエン殿であったとはな。またとんでもない男に護衛を頼んだものだ」


 ジェイクは苦笑いをうかべるが、ガウエンは「ふん」と鼻を鳴らすと、また月を見上げる。


「まさかと思うが、今頃になってのこのこ現れるとは、我ら侯爵家に含むことがあってか。もし、そのような積もりなら……」


 そう言うと、ジェイクが腰にある剣の柄に手を掛け、ゆらりと殺気を放つ。

 だが、ガウエンは月を見上げたまま、「くく」と微かに笑う。


「きさま、何が可笑しい!」


「いや、悪い、なんでもない。それと、昼に言ってたように、俺は偶然にこの街に立ち寄っただけだ。本当に他意はない」


 ガウエンが笑ったのは、昔を思い出したからであった。かつてのあの日、まだ少年だったガウエンを侯爵の前に引き据えたのは、誰あろうこの目の前にいるジェイクその人なのだ。その時も、ジェイクは今のように殺気を放ったのだ。

 その事を思い出したのだ。

 当時の、まだ少年だったガウエンは、その殺気に驚き恐怖のあまり体を震わせていた。しかしそれが、今は軽く受け流す事が出来る。

 そのことに十年という時の流れの重みを感じ、同時に無常さをも感じ、自嘲気味に笑ったのだ。



「本当だろうな」


 しばらく探るようにガウエンを眺めていたジェイクだったが、短い息を吐き出しようやく剣の柄から手を離す。


「まあ、良かろう。だが、それにしても間の悪い男だのう。さっきのユラ様を見て分かっただろう」


「なんのことだ。未だに過去を引き摺る男だと笑いたいのか」


「違う、ユラ様やアルベール様を庇う訳では無いが、これだけは言っておく」


「ん? 何を言う積りだ」


 そこでようやく、夜空に浮かぶ月からジェイクに視線を向けたガウエンが、少し刺の含んだ声で尋ねたのだ。


「あの日……ユラ様を侯宮へと連れ帰った日、我らはこっぴどく叱られた。それはもう、今まで見た事も無いほどのお怒りようだった」


「何を言ってる。どういうことだ」


「あの日の事はアルベール様の預り知らぬ事。跡継ぎを心配する我らが勝手に成したことなのだ」


「な、何を……」


「お互いを想い合う恋人を、生木を裂くように引き離すとは何事だとお怒りになり、我らに、直ぐにも当時トマスと名乗っていたガウエン殿を探すように命じられたのだ」


「何を言ってる。いったい、なんの話をしてるんだ!」


 ガウエンは首を左右に振り、今やその声は絶叫に近かった。


「ガウエン殿も辛かろうが、今後のためにもしっかりと聞いていてもらいたい」


「何を聞けと!」


「アルベール様は、ガウエン殿を探しだしユラ様と一緒にさせようと……しかしその時は既に、ガウエン殿は行方知れずとなられていたのだ」


「嘘だあ! そんな話は聞いた事も無いぞ!」


「嘘ではない、外聞もあるので表立ってのことでは無かったが、商家やその他あらゆる伝手つてを使った侯爵家の総力を挙げてのものだった。それでも、ガウエン殿の行方は分からなかったのだ」


 それもそのはず、その当時は剣の師ローエンと共に、鍛練のためにと山に籠っていたのだから。

 それは、ガウエンにも分かっていた。ガウエン自身が、人目に触れるのを避けようともしていたのだから。



「捜索も5年を過ぎる頃には、もはや、何処かの山野で死んでおるのだろうと噂されるようになった。その間、侯宮に留め置かれていたユラ様を、アルベール様はお慰めなされていたのだが、いつしかその心根の美しさに打たれ愛されるようになってしまわれた。それでも、ユラ様は心を開こうとはしなかった。しかしそれも一年前に、ようやくアルベール様の愛をユラ様が受け入れたのだ」


 あぁ、なんという運命の皮肉であろうか、あの日、ガウエンが家を飛び出さなければ……非情ともいえる運命であったのだ。


「あまり言いたく無かったが、侯爵家の将来のために禍根を残さぬように敢えて言わせてもらった。これから後もトマスの名は忘れ、ユラ様とは距離を取り他人として接してもらいたい。どうであろうガウエン殿」


 ジェイクの話にすっかりと打ち萎れ、がっくりと肩を落としたガウエンは、満足に答えることも出来ないほどだった。


「ガウエン殿?」


「……分かっているさ。だから、今はひとりにしてくれ」


 ようやく絞りだすように声を発したガウエンを、痛ましいもの見るように眼差しを向けるジェイクだったが、何も言わず屋敷の方へと戻って行った。


 先ほどまでの騒々しさが嘘のように、星空の下、池の周囲は静寂に包まれた。

 そんな中、池のほとりに佇み、ガウエンはぼんやりと夜空に浮かぶ月を眺める。


 ――俺は、何をやってきたのだ。


 あの日、飛び出さなければと、ガウエンも考えぬでも無いが、それはこの十年を否定する事にもなるのだ。この十年は剣の鍛練に励み、その内の五年あまりは師ローエンと厳しい中にも、濃密な日を過ごした日々でもあるのだ。

 それらはガウエンにとって掛け替えのないものであり、今の姿を形作る血肉でもあるのだ。否定など出来るはずも無いのだ。

 だが、それでもと――


「シッ!」


 突然、鋭い呼気を吐き出すと、ガウエンは太刀を鞘走らしせて目の前にある闇を斬り裂いた。


「ちりぃん……」


 どこか哀しげな鈴の音が、池の周囲に響き渡った。




 そしてあくる次の日、ガウエンの複雑な感情とは関係なく、事態は大きく動く事となる。

 アルベール侯爵の、その後の消息が、ガウエン達のもとにもたらされたのである。


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