12
門から邸宅の奥へと続く道は、広大な庭園を突き抜け屋敷へと延びる。道の中央には馬車を走り易くするめ、整然と四角い石が敷き詰められていた。
その石畳の上を、何度も後ろを振り返りつつ、ダンブルが必死の面持ちで駆け続けている。
屋敷へと逃げ帰るダンブルにとっては、悪夢でも見てるかのようであったろう。
侯爵の側妃ユラの兄であったトマス(ガウエン)が行方不明となり、侯爵家が総力を上げて捜索していたのは知っていた。
だがそれは、十年も前の話。
しかも、杳としてその行方は知れず、皆は声に出してこそ言わぬが、何処かで野垂れ死んだのだろうと噂されていたのだ。
だから、ダンブル自身もそう思い、あの生意気な子供の事を「ざまあみろ」と嘲笑っていた。
それが事もあろうに、この時期に己の前に姿を現したのだ。その事に恐れ慄き恐慌を来していた。
何故なら、侯爵家の上級家臣であるはずの自分が、今回の陰謀に加担して侯爵を裏切っているのだから。その上、その現場をトマス(ガウエン)に見られていたのだ。
――馬鹿な、今頃になって、何故……いや、まだ間に合う。
元が、小心者なダンブルであったが、この陰謀に係わったのは、欲望に塗れた野心が膨らみ、その衝動に突き動かされての事だった。上手く立ち回りさえすれば、このトラッシュの領主の座が、転がり落ちてくると踏んでいたのだ。
だが、早くもそのことに後悔しつつ、露見した後の事を考え恐れを抱いていた。これは、明らかな侯爵家への裏切り。後に、関係者からどのような報復が為されるのかを考え、震えが沸き上がって来るのを止めることが出来ない。
だからで有ろうか……。
――赤子とトマス(ガウエン)さえ始末してしまえば……。
陰謀など、最初から無かった事にしようと考えていたのだ。
しかし、それこそ馬鹿な話なのだが。
そのような事をすれば、陰謀を巡らす者達からも、裏切りの謗りを受ける事となる。だが、焦るダンブルには、そこまでの考えに至る余裕が無かった。
今は、この場をどの様に凌ごうか、その事ばかりをぐるぐると考え巡らせながら、必死に駆け戻っていたのだ。
ここ数年は走るどころか、まともに歩く事さえしてこなかったダンブル。転がるように屋敷内へと辿り着いた時には、全身は汗まみれ、玉のような雫が顎先から滴り落ちていた。
「だ、誰か! 賊が邸宅内に侵入しておるぞ!」
喉がからからに干上がり嗄れた声でダンブルが、屋敷内に向かって喚き散らしていた。
その頃、そのダンブルを追い掛けるガウエンは、ダンカン達警邏隊の面々の助力もあり、ようやく門前の争乱の場から抜け出した所であった。
しかし、その時には既に、ダンブルの姿はもう見えない。
――ちっ、ダンブルめ、逃げ足だけは速いとみえる。
だが、赤子が屋敷内にいるのだ。先ずは屋敷に逃げ戻るのが先であろうと、そう見当を付け、ガウエンは屋敷へと向かう。そして、赤子を救いだし、その場に居るダンブルをも捕まえてやろうと、ガウエンは思っていた。
ガウエンにも、今回の事件の全貌はまだ見えてこない。だからこそ、ダンブルを捕まえ事の真相を聞き出さなければいけないと考えていた。
実際のところ、今までは、あの赤子がユラの産んだ子だというのは、魔除けの鈴や顔立ちがユラに似てるといった、実にあやふやなものだった。どちらかといえば、過去の想いに囚われていたガウエンの、勝手な思い込みに近かったのだ。
それが今は、ダンブルの態度から確信へと変わり、ふつふつと沸き上がる怒りを抑えきれずにいるガウエンであった。
――ダンブルだけは逃がす訳にはいかない。
それは、過去の因縁や、今回の件での怒りばかりではない。ここで逃せば、今度は逆にガウエン達が捕縛される事になりかねないのだ。なんといっても、ダンブルは治安局の局長なのだから。
下手をしたら内乱罪を適用され、治安局全体が動くかも知れない。そうなれば、いかなガウエンでも、抗しきれるものでは無いのだ。直ぐさま捕縛され、弁明する間も無く処刑されてしまうだろう。
それは、ガウエンばかりでなく、協力してくれたダンカン達にまで累が及ぶ。ここは是が非でも、ダンブルと赤子の身柄は押さえなければいけないのだ。
その事を考え、沸き上がる怒りと共に、焦りにも似た気持ちをも抱えて、ガウエンはダンブルの後を追っていた。
ガウエンが、石畳の上を駆け庭園の間を抜けると、目の前に、これもまた小城かと見紛う大きな屋敷が現れる。
白亜を基調とした佇まいは、清楚な雰囲気をただよわせる。が、門と同じく周囲の随所に、ごてごてとした装飾がなされ、それが家主の品の無さを露呈していた。
――門構えや石畳といい、この屋敷まで……ダンブルめは余程、金回りが良いとみえる。
通常は邸宅内の小路は地を踏み固めた程度のもの、石畳まで敷く者などは滅多にいない。都市部の通りに関しては公的機関が整備し、邸宅内は個人の負担であるからだ。
石畳を敷くとなると、莫大な費用が掛かる上に、その後の保全維持にかかる費用も馬鹿にならない。領主であるならまだしも、一個人が整備しようとするなら、余程の大商人でなければ無理な話である。
ダンブルも治安局の局長とはいえ、所詮は地方都市の上級官吏に過ぎず、どう見ても、門構えや屋敷なども分に過ぎる持ち物なのだ。
――ふん、裏では余程の悪どい行いをしてるとみえる。
如何に局長クラスとはいえ、その給金で賄える筈など無いのだ。
ガウエンは眉をしかめ、この分なら容赦なく締め上げる事が出来そうだと思うのだった。
――それにしても、妙だな。
一抹の不審を覚えて、ガウエンは屋敷を見渡す。
不思議なことに、やけに屋敷周辺が静かなのだ。
屋敷内にも、子飼いの私兵共が居ても良いはず。ダンブルが屋敷へと逃げ戻っているのなら、それら私兵達が、直ぐにも飛び出して来るはずなのだがと、ガウエンは訝しむ。
――罠か?
ならばと、ガウエンは正面からの突入を警戒し、裏手に回ろうとするが、その時……。
「ひぎいぃぃぃ!」
耳を劈く甲高い悲鳴が、屋敷の中から聞こえて来た。しかもその声は、人が今際の際に上げる、魂切るような断末魔の叫びに聞こえたのだ。
――む、この声はダンブルか……一体、何が?
その声に、慎重さをも忘れて屋敷へと走り出すガウエン。そして、玄関の取手に手を掛けようと――その扉が勢いよくも「バンッ!」と開けられた。
慌てて後ろに飛び退くガウエンの目の前を、屋敷内で働く侍女達が悲鳴を上げながら走り抜けて行く。そればかりか、私兵に見える男達までもが数人は混じっている。
「おい、中で何があった!」
ガウエンが、目の前を走る侍女のひとりの腕を掴み、鋭い声で問い質す。
「ひいぃぃ……だ、旦那様があぁぁ……」
その侍女は、ガウエンを認めて驚きの声を上げる。が、直ぐ様、後ろを気にしてガウエンの腕を振り払うと、慌てた様子で外へと逃げて行く。
「あっ、おい……」
逃げ出す屋敷の者達の様子から、屋敷内で何やら容易ならざる事が起きていると想像に難くない。その事に訝しむが、何よりも、屋敷内に囚われてるであろう赤子が心配なガウエン。
一瞬、躊躇するものの、開け放たれた扉から屋敷内へ、そろりと一歩踏み出した。
途端に、屋敷内に漂う、濃密な血臭が鼻につく。
――む、これは?
玄関から入って直ぐの場所、そこは四、五十人は整列出来そうな大きな玄関ホール。そして、正面には幅広の階段があり、上階へと続いている。
その階段上やホールの至る箇所に、数人の武装した男達が血を流して転がっているのだ。倒れ伏す男達は虚ろな目で虚空を睨み、既に息絶えているのが窺える。
そして、ホールの中央では、肥太ったダンブルが玄関に背を向け立っていた。しかし、その背中からは、にょきりと両刃の剣の切っ先が突き出ていたのだ。
「あぎぎぃぃぃ……」
背中から刃を生やしたダンブルが、がくがくと震えながら呻き声を上げる。その両手は前に伸ばされ、剣を突き立てた相手を掴もうとしていた。
だが、途中で力尽き、僅かに触れる指先が、相手の革鎧の表面を撫で擦りながら床へと崩れ落ちた。
そして、倒れたダンブルの向こうには……。
「ゴーグ!」
そう、そこには右手に血に塗れた剣をぶら下げ、左手に赤子を抱いたゴーグが立っていたのだ。
「何があった! どういう訳だ!」
一時は、ゴーグの裏切りをも考えたガウエンである。その口調が、詰るかのように荒くなるのも致し方ないものであった。
ガウエンが険しい声を掛けると、途端に、赤子が「ほぎゃあほぎゃあ」と火が付いたように泣き出した。どうやら、赤子も無事なようで、ガウエンはほっと安堵のため息を吐き出す。
それにゴーグも、どのような経緯か分からないが、ともあれ赤子のために、ダンブル達と切り結んだのだと推察され、その事にも安堵の息を漏らす。
しかし、ダンブルまで斬ってしまったのは頂けない。この度の、事の真相を問い質すのもだが、相手は小悪党とはいえ、仮にも治安局の局長なのだ。この後の始末をどう着けようかと、ガウエンは眉をしかめる。
だが……。
「……」
ゴーグは問い掛けには答えず、殺気混じりの凍てつく視線をガウエンに向かって放つ。
「ゴーグ?」
「ちっ、ガウエンか……これほど早く、この場所を探し当てるとはな。これも、運命か……」
そう呟くように言うと、驚く事に、剣の切っ先をガウエンに向けたのだ。
「なっ……何のつもりだ。この場でのそれは笑えないぞ。悪い冗談にもほどがある」
「……すまねえが、こいつは冗談ではない」
ゴーグのその言葉に唖然とするも、ガウエンはしかしと、周りで倒れるダンブル達を見渡す。
それを察したゴーグが、同じくダンブル達を眺めながら答える。
「あぁ、こいつらか。馬鹿な連中さ、肝心なこの赤子を害そうとしてたから。それに、お前と結んだ約定もあったからな」
「それなら……」
「だが、護るとは言ったが、返すとは言ってないぜ」
答えるゴーグが向ける冷たい視線の中には、今では殺気すら混じっていた。
「……嘘だろ」
ガウエンには、ゴーグの態度や言葉に信じられない思いで一杯であった。それは、明らかにガウエンとの関係を拒絶するものであったからだ。
今の護衛士として一人立ちしたガウエンがあるのも、ゴーグの手助けがあったからこそである。
過去には、剣の師ローエンと共に、三人で依頼を熟したこともあったのだ。師ローエンと同じく、ガウエンにとっては数少ない、信頼を寄せる兄貴分とも頼む人物なのだ。
だから……。
「……何故だ?」
絞り出すように、ガウエンの口から衝いて出る言葉は、その一言だけであった。
「……昔、ガウエンお前に言った事があったな。俺達護衛士は、この国では自由に振る舞えるが、ただひとつ、守らなければいけない約束事があると」
それはまだ、ガウエンが十代、ゴーグと最初に出会った頃の話。数頭の狼にガウエンが襲われ、危うい所をゴーグに助けられたのだ。
その時に、護衛士だと名乗るゴーグに興味を覚え、あれこれと護衛士について聞いた事があった。その時の事を思い出し、ガウエンは、はっと息を呑む。
「まさか、王の勅命!」
「そういう事だ。まぁ、それだけではないが……」
実際のところゴーグは、王から直に命を受けた訳ではなかった。それどころか、勅命を受けたのも、このトラッシュに到着してからの事だったのだ。
旅の垢落としだと称して、先ずは酒でも一杯と思い、酒場へと向かった。そこで、以前、世話になった男から協力を求められての事であった。
ただし、その男は王に近しい存在であり、これは王命であると言ったのだ。
ゴーグは、鋭い眼差しをガウエンに向けつつ口を開く。
「俺ももう歳だ。これから先も護衛士を続けていくのは、少々厳しい。だから、今回の依頼を受ける事にした。成功報酬は近衛軍の盾術教官の地位。今の俺には願ってもない報酬だ」
そこで言葉を区切ったゴーグが、目の前で倒れるダンブルを一瞥して、また言葉を続ける。
「もう、後戻りは出来ねえ。お前が、どうしても赤子を返せというなら、後は剣にて決着を付けるしかねえな」
ゴーグはそう言うと、泣き叫ぶ赤子を、近くにあった机にそっと置く。
そして、背に負う丸盾を左手に持ち、両刃の剣を右手に持って構えた。
「どうしても、赤子を返して欲しければ、俺から力付くで奪い取れ!」
ゴーグはそう言うが、ガウエンには兄貴とも慕うゴーグに刀を向ける気になれない。だが、ユラの子供でもある赤子を見捨てる事など、それもまた、出来ようはずも無いのだ。
「ど、どうしてもなのか?」
「あぁ、どうしてもだ。それに……」
何故か言い澱むゴーグの最後の呟きは、口中へと消え去る。しかし、次の瞬間には、かっと目を見開き、決意も顕に剣気を迸らせていた。
「さあ、剣を抜け!」
ゴーグが放つ剣気。それは、鬼気とも呼べる凄まじいものであった。
「くっ……」
その鬼気迫る剣気に押され、思わず後ずさるガウエン。相手は兄とも頼むゴーグなのだ。泣き叫ぶ赤子とゴーグを見比べ、裏切られたとはいえ、未だ太刀を構える決断を付けかねていた。
だが、躊躇していたガウエンも遂に――
十年前、心の奥底に封印したはずの熱き想い。図らずも、生まれ故郷であるトラッシュの街に訪れ、その想いが封印を突き破り噴出したのだ。
今は、その想いに突き動かされているガウエン。ユラの産んだ子だと思われる赤子を、見捨てられるはずもない。
幼き頃に、ユラとの間に交わした約定、「ユラに何かあった時は、僕が必ず駆け付け助ける!」を守るためにも、覚悟を決める。
師ローエン曰く、剣士に必要なのは、例え相手が誰であろうと斬り倒す、確固たる不動の心構え。
その不動の覚悟をガウエンは決め、刀の柄に手を掛け鞘から刃を引き抜いたのである。
事ここに至り、遂にゴーグの鬼気と、ガウエンの熱き想いが激突する。
それは、命のやり取りさえ辞さぬものであった。
「ほぅ、やっと死合う気になったか。だが、俺には鈴鳴りの剣は通用しねえぜ」
にやりと笑うゴーグは、剣と盾を構えたまま、じりじりとガウエンに迫る。
それも、そのはず。
ガウエンが使う秘剣、【鈴鳴りの剣】は鈴音で相手を惑わし、攻撃の拍子を狂わせその隙に斬り捨てる術。
だが、対するゴーグも、盾術を駆使する防御を主とした、どちらかといえば待ちの剣。相手の剣を盾で受け止め、その隙に斬り捨てるもの。
どちらも相手の隙を窺う、似たような剣術を使う。
しかも、盾を持つ分、ゴーグが有利ともいえる上に、長年ガウエンと接してきたゴーグには、ガウエンの長所も短所も知り尽くしているのだ。
こうして改めて、本気で対峙してみると、どうにも攻めあぐねるガウエンであった。
ガウエンが間合いを詰め、斬撃を繰り出そうとする度に、すうと盾を動かし狙いを遮る。その度に、ガウエンは後ろに大きく飛び退き、その間、ゴーグは微動だにしない。
ならばと、ガウエンはゴーグが防御しきれぬほどの手数で、斬撃を放ち続ける。降り下ろし、振り上げ、横薙ぎへと流れるように繋ぎ、刃を次々に繰り出すのだ。
だが、ゴーグはその全てを左手に持つ盾で弾き、じわりじわりとガウエンへと近付く。
鈴の音に惑わされる事もなく、堅実に捌きガウエンに迫る。
まさに、『鉄壁』。
その異名が示す通り、確実に攻撃を跳ね返し、ひたひたと相手に迫る様子は、不気味な異様さを感じるほどであった。
ゴーグが手に持つ丸盾は、肘まで覆う程度の大きさの物。盾としては、近衛軍等が使うものと比べても、それほど大きい訳ではない。護衛士として活躍するゴーグが、その仕事柄、持ち運びや取り扱いが便利なように、通常よりも小さな盾を使っている。
しかし、その小さな盾が、今のガウエンには、ゴーグの体の全てを覆い隠す、大きな盾となり映っていた。
――ゴーグの盾術。これ程のものだったとは。
それが、ガウエンの正直な感想であった。
今までも、何度かゴーグと手合わせをした事はある。だがそれは、遊びの域を出ないものだと思い知らされ、今更ながら、その盾術の凄味に驚嘆し舌を巻く思いであったのだ。
――ふむ……しかし、このままでは埒が明かない。
徐々に追い詰められているのはガウエン。それに、ゴーグが王命だと言った事から、このまま時間が過ぎれば、どのように事態が転ぶかも分からない。
そこで、ガウエンは大きく飛び退くと、今までに見せた事もない構えをみせた。
それは一撃に全てを掛ける構え。振り被るが如く上段に刀を構え、大きく体を仰け反らした体勢。その刀の棟は頭越しに背中へと回され、その背に張り付くが如し。
まるで、据え物でも斬るかのような、なんとも、不恰好な構えである。
そのガウエンの構えに、ゴーグがおやっと片眉を上げた。しかし、直ぐに何かを思い付いたのか、驚きの声をあげる。
「あっ、まさか斬鉄か……」
だが、その時には既に、ガウエンがするすると前へと進み、間合いを詰める。
そう、それは正しく、あの師ローエンが使った、鉄をも斬り裂く秘技『斬鉄』であった。
もっとも、ガウエンが使う『斬鉄』は、ローエンが使う程に洗練されず、まだ荒削りなもの。それが、不恰好な構えに現れていたのだが。
しかしそれでも、ゴーグに衝撃と動揺を与えるには十分なものであった。
「ちっ!」
舌打ちと共に、慌てて後ろに一旦下がろうとするゴーグ。だが、それより早くガウエンの渾身の一撃が――足運び、膝、腰、肩、腕、肘、手首、体の全てが柔軟なバネとなり切っ先の一点に集約される。降り下ろされる刃が雷光の煌めきとなり、ゴーグの頭上に迫る。
盾術の妙諦は真正面から剣の刃を、或いは槍の穂先を受け止めぬ事にあるという。斜めに相手の斬撃を受け流し弾き、相手の体勢をも崩すのだ。
咄嗟に、ゴーグは頭上に丸盾を構える。しかも、ガウエンの刃に対して斜めに向けて。
だが、ガウエンが刃の刃筋は毛筋の乱れも見せず、斜めに受け止めようとする盾を、持ち手の左腕ごと難無く斬り飛ばす。そして、その勢いそのままに、ゴーグをも斬り裂こうとした。
しかし、そこは歴戦の護衛士であるゴーグ。辛うじて身を捩り、ガウエンの斬撃を躱すと。
「があぁぁぁぁ!」
獣じみた雄叫びを上げたゴーグが、左腕一本を犠牲にして得たガウエンの隙に目掛けて、右手に持つ剣を横薙ぎに振るう。
――殺った!
ゴーグがそう思ったのも、無理からぬもの。
降り下ろした体勢のまま、がら空きとなった胴に横薙ぎの剣が迫るのだ。誰が見ても、そう思った事であろう。
だが、太刀を降り下ろすと同時に、ガウエンの体は沈み込んでいく。
それは、前後に開いた両足を股割りの要領で滑らせ、床の上にぺたりと座ったのである。
それは、まさに間一髪。ガウエンの頭上を通過した剣が、数本の髪の毛を斬り飛ばし散らしていく。
そして、降り下ろしたガウエンの太刀が、今度は逆に、上に向かって掬いあげるように跳ね上がる。その刃の切っ先は、ゴーグが纏う革鎧のもっとも防御の薄い箇所、股間にするすると伸び的確に捉えると、ゴーグの体を存分に胸まで斬り裂いた。
「ぐわっ!」
呻き声を洩らし、剣を取り落としたゴーグがその場に踞る。
見る間に、床には血溜まりが出来、ゴーグの切り裂かれた腹からは臓物が溢れ出てきていた。
ゴーグは、その腹の傷を押さえながら、呻くように途切れ途切れの声を出す。
「……やっちまったな……馬鹿な事をしちまった。まさか……斬鉄まで使えるようになっていたとはな……」
「ゴーグ、何故だ。何故、こんな事に……」
ガウエンはそこまで言うと、言葉が続かなくなり、後は絶句してしまう。
戦闘の最中は異様な高揚感に包まれ、その戦いに集中していため、考えられなかった様々な想い。だが、終わってみれば、色んな感情がガウエンを襲い苛む。
ガウエンにとってゴーグとは、そういう存在だった。しかも、傷付けたのはガウエン自身なのだ。
傷付き倒れるゴーグを眺め、呆然となってしまうのも仕方の無い事であった。
「……俺はな……ローエン殿と出会い……傭兵を止めて護衛士の世界に飛び込んだ……それは、ローエン殿が持つ……圧倒的な強さに、魅了されての事だった……」
痛みに顔を歪めて、ゴーグがぽつりぽつりと吐き出す言葉は、ガウエンも初めて聞く話だった。それは、普段は面倒見の良い兄貴分だったゴーグが、初めて見せる感情の吐露でもあったのだ。
「個人の強さで……ここまで行けるのかと驚いたものさ……だから……俺も何時かはと思い……」
ゴーグもまた、ガウエンと同じく、個人の強さに惹かれる男であったのだ。傭兵は集団での戦闘を主とする職業。だから、個人戦を主とする護衛士へと鞍替えしたにである。
「だがな……やはり……ローエン殿がいる……高みには届かなかった……俺は何時しか諦めていた……そこに現れたのが、ガウエンお前だった……最初は取るに足りない子供だと思っていた……だが、お前は驚く早さでめきめきと力を付け……あのローエン殿に迫る勢いさえみせる……それに引き換え俺は歳と共に衰えていく……今、考えると、俺はお前に嫉妬してたのかも知れないな……だから、衰える前にローエン殿の薫陶を受けたお前と……」
そこまで言い差したゴーグが、ごぼりと血の塊を吐き出した。
「ゴーグ!」
慌てたガウエンが、ゴーグの体を抱き締め支える。
「……ふ、相変わらず甘い男だな……武張ってるようで心根には優しさがある……だが、剣士にとって……その甘さが、いつかは命取りになる……そんな事では、あの男にも勝てないかも知れないぞ……」
「あの男?」
「……俺を……王命だと言って誘った男……近衛軍武術師範筆頭マルコム……」
武術師範筆頭、それはこの国で一番の武人を意味する。そのような者まで、今回の件に関わってるのかと、ガウエンは驚く。
「……あぁ、これで……上手い酒も飲めないし……可愛い女を抱く事も出来ない……詰まんねえことをしちまった……だが、後悔はしてねえ……」
ゴーグも、ローエンと出会いその強さに惹かれ感化されると、一度は最強を目指したのだ。しかし、それは叶わぬものと諦めていた。だが、ガウエンの側で面倒を見ている内に、諦めたはずの強さへの渇望がまた溢れだしてきていたのだ。
それはガウエンと、命を賭して真剣にて立ち合いたいとの想いの形となってであった。しかしそれもまた叶わぬ想い。
ガウエンを弟のように思っていたのだから、言い出せるはずも無かったのだ。だが、このトラッシュの街に到着し、マルコムにガウエンの元から赤子を拐って来いと頼まれた。最初は断ろうとしたが、そこで抑えていた想いを呼び起こしてしまったのだ。
もしやすると、ガウエンと一戦を交える事になるかも知れないと。
――衰える前にガウエンと……。
そう考えたゴーグは、もはや止まる事が出来なかった。ゴーグもまた、剣という名の強さに取り憑かれた武人であったのだ。
「……ガウエン、お前は俺を倒したのだ……国一番の、いや、この大陸一の……」
そこまで言い掛けたゴーグが、唐突にがくりと首を落とす。その表情は満足気に微かに笑ってるかのように見えた。が、目は虚ろに見開き虚空を見続ける。それが全てを物語っていた。
ゴーグが、遂に力尽き、果ててしまったのだと。
「うおぉぉぉぉぉぉ!」
ガウエンの慟哭の声が屋敷内に響き渡る。ガウエンに感化されたのか、赤子もまた、更に泣き声の激しさを増し、二人の声が共鳴して谺していた。
かつて、師ローエンがこう言っていた。
「剣術を覚えれば、更なる悲劇が訪れるかも知れんぞ」
それは剣士が持つ宿命ともいえる、無情さ、非情さを、如実に表す言葉でもあったのだ。
その事を思い知らされ、涙するガウエンであった。
◇
ガウエンがゴーグと対峙する少し前。
ダンブル邸の門前では、奇妙な争いが続いていた。ダンブル家の私兵と治安局の衛兵が争っているのだが、大勢の衛兵の内、約半数以上の者達が何故か、周りを囲むだけで右往左往してるだけなのだ。
その奇妙な争いを、通りの物陰から眺める二つの人影があった。
目立たぬように、薄汚れた茶色い外套をすっぽりと被り、体を覆っていた。しかし、外套の中からは時折、かちゃかちゃと金属が擦れあうような音が聞こえて来る。
その事から、中身は物々しい出で立ちだと想像が付く。
そして、片方の男が驚きの声音を滲ませ、もう片方の男に話し掛けた。
「おい、聞いたか。今、嫡子救出と叫んでたぞ」
「あぁ、俺も確かに聞いた」
「という事は……あの屋敷に若君が……」
「だな……」
「こうしちゃおれん。俺は直ぐにも団長や奥方に報せて来る!」
「なら、俺はここで、もう暫く様子を見て、本当に若君が居るか確かめる」
「分かった。頼んだぞ」
片方の男は慌てたように立ち上がると、通りの向こうへと駆け出した。
そして、もう一人の男も、そろりと屋敷へ近付いて行くのであった。




