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第六話

 



「まったく、あなたは本当に仕方のない人ですね」


 辛辣な言葉とは裏腹に汗でへばりついた前髪を払う手つきはどこまでも優しい。すぐにひんやりと冷たいものが額に当てられ、身体にこもった熱を溶かし、ほんの少しだけ呼気が楽になる。


「……なぜ、きた」

「今はお休みください。お咎めならまた後で甘んじて受けましょう」

 今すぐ出て行け。そう続けたくとも熱に冒された身体はいうことをきいてはくれない。紡ごうとした言葉は声にはならず、荒い息が漏れるだけだ。

 こんな状態では追い払うのも億劫でヨシュアは再び深い眠りに身を委ねる。

 先程とは違い、熱の中でも芯が凍えるような虚無感はなぜか感じなかった。


 傍らで彼女は安堵のため息をつき、まる椅子に腰をかける。

 目の前にいるのは出会った時より成長した彼。けれど中身は悪い方向に捻じ曲がったまま大人になってしまった。幼いからこそ許されるわがままを今になって消費しようとしている愚かな人。

 それでもどうしようもなく愛しく感じてしまうのは、彼の本質が変わっていないと思うからだ。

 眠る彼にいつかの面影を重ね、過去を辿るようにゆっくりと瞳を閉じた。






 ずっと、ずっと大嫌いだった。

 恵まれた環境で、誰もに認められ、愛されて、望まれて生まれてきた彼のことが。




『紹介いたします。これは私の娘、ヴァレットにございます。以後お見知り置きを』

 そう言って尊敬する父は自分よりずっと年下の子供に頭を下げた。紹介を受けた彼女も習った作法どうりに一生懸命に礼をとった。

 ヨシュア王子はなかなか子供の生まれなかった国王陛下にやっと授けられた希望なのだと教えられた。ゆくゆくは彼が王位を継ぎ、そんな彼をお前が支えるのだと。

 少女は王子との対面に期待に胸を膨らませ今日という日を迎えた。

 なのに、だ。

 彼はきらきらと綺麗な金髪の下の眉を顰め、不躾に少女を睥睨して一言、こう言っただけだった。

『これが娘?こんな不細工な女の子を見たのは初めてだ』


 父は苦笑し彼に言い返すことはなかった。少女は唖然とし、一拍置いて侮辱されたのだと気づく。ふつふつと湧き上がる怒りに、顔を真っ赤に染める。けれど王子に逆らってはならないと事前に言い含められていたため、唇を噛み締め必死に堪えた。その後も父と彼の会話は続いていたが、少女の耳には一つも入ってこなかった。



『ヴァレット、下を向くな。弱さはさらけ出すものではなく強さを支えるものだと心得よ』

 帰り道、後ろを悄然と歩く少女に父は前を向いたまま突き放すように言った。

『なぜですか、お父様。彼は私を侮辱しました。私は自身の名誉を守ってはいけないのですか?』

 少女は悔しさに顔を歪め、遠く大きな背中に言い返した。けれど父は振り返ることなく語調を緩めることはなかった。

『お前が守りたい名誉とはなんだ?顔の造作を貶められただけで傷つく名誉など捨ててしまえ』

 その時は父が王子を擁護しているように感じ、少女はますます憤った。父までも王子が大切なのだと思うとどこにも居場所がないような気がして、王子が憎くて憎くて仕方なかった。




 この頃にはすでにヴァレットに母はいなかった。

 産後の肥立ちが悪く、体調が戻らず年々弱り、最後は眠るように息を引き取った。ヴァレットが最初の出産だったために彼女に兄弟はおらず、けれどすでに爵位を継いでいた父、ヴィルヴァラン侯爵が後妻を娶ることはなかった。

 彼らは大体の例に洩れず政略結婚だった。それでも寡黙な父とおおらかな母はゆっくりと愛を育み、いつしか互いが互いにとって無くてはならない存在になっていた。

 夫人亡き後、長男のいないヴィルヴァラン侯爵には方々から再婚の打診があったが娘がいるから問題ないと彼は決して諾としなかった。

 跡継ぎはどうすると問われ彼はこう答えたそうだ。

『将来、娘が産んだ子に爵位を譲れば問題ない。それまでは私が侯爵としてこの国を支えよう』

 ランベール王国では女が家督を継ぐことは許されていない。貴族に産まれた娘の役割は他家に嫁いで家同士の繋がりを深くし、子をなして家を守ること。それだけだった。


 ヴァレットにも当然、それを前提とした教育が施されるはずだった。

 常に美しく、淑やかに、口は慎み、楚々と微笑み、男を立てる。教養として楽器を嗜み、刺繍を施し、夫となる人のために自身を尽くす。


 けれど、ヴィルヴァラン侯爵はヴァレットに別の道を用意していた。


 六つの歳、ヴァレットはペンを握った。

 与えられた知識は令嬢にとって必要の範疇を越える。教養に加え自国と周辺国の歴史、地理、算術、その他諸々の知識が叩き込まれる。

 八つの歳、ヴェレットは剣を握った。

 普通の令嬢なら手習いに針を持つ頃、ヴァレットには重すぎる木剣を必死に振るう。

 ヴィルヴァラン侯爵はヴァレットをまるで息子のように育てたのだった。


 ヴァレットも始めは父に言われるがままに勉学と稽古に励んだ。

 それが当たり前だと思っていたし、父に褒めて欲しかった。

 物心つく前に母は他界し、家族は父ひとりだった。親戚はいるにはいるが滅多に会うことはなく、たまに顔を合わせても彼らはヴァレットに嫌そうな目を向けた。すぐに何もなかったように微笑むがヴァレットにはそれがとってつけたようなちぐはぐな印象を受け好きにはなれなかった。

 だからどんなに辛くとも大好きな父がやれと言うのならこれは必要なことなんだと信じて疑わなかった。


 けれど成長するにつれそれがおかしいことなのだと理解していった。

 普通、令嬢はここまで勉学に力は入れないし、子息でも一部を除いて稀な事だった。

 汗をかき、泥だらけになるような剣術だって令嬢にとってははしたないことだ。そもそも女の子はズボンを履いたりしない。

 父はなぜヴァレットにこんなことを強要するのか。疑念は膨らみ続ける。それでもヴァレットはこれが自身のためなのだと言い聞かせた。


 十の歳、初めて王子殿下に拝謁した。

 そして、ヴァレットは確信した。父は自分のことが嫌いなのだと。


 父は息子が欲しかったのだ。嫁ぐ以外役に立たない娘なんかより、自身の後を継いでくれる息子が欲しかったのだ。


 薄々、気づいてもいた。令嬢に必要な要素が自分には欠けている事に。

 肖像画に描かれた母は美しい人だったが、ヴァレットには瞳の色以外受け継がれなかった。

 ヴィルヴァラン侯爵は糸のように目が細く口元は常に引き結ばれ厳つい表情を崩さない。身体つきもがっしりしており、見るものに威圧感を与えた。

 ヴァレットは父によく似ており、将来を期待することは出来なかった。

 特にこのランベール王国では美しさもまた、ひとつの権力の象徴であった。


 けれど面と向かって不細工と言われたのはあれが初めてだった。父もまたそれを否定しなかった。

 ヴァレットの胸を事実という刃が貫く。ヴァレットに向けられる視線に明確な意味が書き加えられる。

 “女のくせに” “女の子なのに” “男だったなら” “せめて母君に似ていれば” かわいそうに” “生意気だ” “哀れだ” “どうしてあんな娘が”

 ヴァレットは齢十にしてすべてを悟った。


 自分は誰にも、父にさえも望まれない欠陥品だったのだと。


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