第一話
どこの国にも問題の一つや二つあるもので。
ここランベール王国の王城の一室にも苦虫を噛み潰したように渋面を作る男がいた。
「王子のご様子は?」
「また娘を部屋に招き入れていたようです」
その言葉に壮年の男は呆れたように嘆息し、平然と答える目の前の人物に批難を含んだ眼差しを向けた。
「またか。お前からもう少し強く言ったらどうだ。ただでさえ良くない噂が市井にまで流れている。このままあの方が国王になられても信任を得られず、国は破綻するぞ」
「そうさせないために私がおります。もう少し待って頂けませんか?ヨシュア様の心は未だ癒えてはおりません」
「母君がご逝去なされてからもう三年も経つのだぞ。いつまでも甘い考えでおられては困る」
重厚な執務卓に肘をつき頭を抱える男に怯むことなく彼女は宣言した。
「承知しております。私がヨシュア様を国王として相応しい方にしてみせます」
「……お前の事は信頼している。我が娘なら未来の夫の手綱も握ってみせろ」
父、ヴィルヴァラン侯爵の言葉にヴァレットは慎ましやかな笑みを浮かべた。
コンコン。
許可をもらうよりも早く、ノックと同時に扉を開け放つ。その瞬間、部屋から流れ出た甘ったるい芳香に包まれヴァレットは思わず鼻を顰めた。
「きゃあ!」
室内にいた女の一人が慌ててシーツで体を隠す。他の女達はまたかというように気怠げなため息をつき帰り支度を始めた。
「……何度も申し上げているはずです。女遊びはほどほどにしてくださいと」
ヴァレットは腕を組み部屋の主をまっすぐに見据えた。その人物は面倒くさそうに上体を起こし、不躾な訪問者に不満げな顔を向けた。
「何しに来た、ヴァレット。勝手に私の部屋に入ってくるな」
出て行けと睨まれてもヴァレットは動かなかった。その間に女達は身支度を整え、そそくさと退室する。
部屋の主は舌打ちし、外れたボタンを留め直し始めた。
「私があなたの部屋を訪れるのに理由はいらないでしょう。婚約者なのですから」
その言葉に部屋の主ーーヨシュアは手近にあったクッションを彼女に投げつけ叫んだ。
「僕はそんなの認めていない!よりにもよってお前のような醜い娘など!出ていけ!お前の顔なんて見たくもない!!」
いつものように飛んできたクッションをひらりとかわすと間抜けな音を立てて壁に激突した。それには見向きもせずにヴァレットは無表情に言った。
「いつまで幼子のように女の乳を吸っているおつもりですか。そろそろ自覚をお持ちください。あなたはランベール国の唯一の世継ぎなのですよ」
ヨシュアはお小言はうんざりだとばかりにベッドに蹲り両手で耳を覆う。
「うるさい!うるさい!うるさい!お前なんか大嫌いだ!僕の視界から消え失せろ!!!」
癇癪を起こしたヨシュアは何を言っても聞き入れようとはしない。落ち着くまで待つしかないことをヴァレットは短くない付き合いの中で知っていた。
仕方ないとため息をつき『また後ほど参ります』と言い置いて部屋を後にした。
美と宝石の神に愛されしランベール王国。
豊富な鉱山資源と研磨の技術を誇り、宝飾品でかの国の右に出るものはいない。王都には最先端の流行が集まり大陸中の乙女が一度は夢に見る場所だ。
そんな絢爛豪華なランベール王国で国民の目下の悩みと言えば、唯一の後継ヨシュア王子についてだ。
王子というのは多くの国民にとっては遠くから姿を拝めただけで子々孫々に自慢できるほどの殿上人であり姿絵や噂話は飛ぶように広まって行く。
中々子供の出来なかった国王に跡継ぎが誕生したと発表された日には国の至る所で祝福の宴が開かれたものだ。
ヨシュア王子は今何歳だ。大層麗しい見目をしているとか。もう大人と一端の会話をなさるらしい。先日初めて狩りに出たそうだ。
微笑ましい噂話もけれど、いつからか不穏な気配を帯び始めた。
臣下の息子と剣の稽古をしてこっぴどく打ち負かされたらしい。物覚えの悪さに教師が匙を投げたそうだ。
最近では女に現を抜かしているらしい。
今の世は一応平和を呈しているが、ランベールの富を我が物にせんと戦争を仕掛けてこないとも限らない。
昔はここら一帯の国が領土を巡り血で血を洗う戦争を繰り返してきた。互いが疲弊しきってしまったために締結しそれぞれが繁栄していったが、砂上の楼閣のごとくその関係は脆い。
王とは国を導く者。
ヨシュアが王位に就く事に誰もが不安を感じていた。
だからと言って王には子供が彼しかおらず、現王の息子を差し置いて他の者を王に立てるなど以ての外だった。
ところでヨシュア王子にも婚約者がいる。
ヴァレット・ヴィルヴァラン侯爵令嬢。国王の次に権力を持つヴィルヴァラン侯爵の一人娘だ。そんな彼女が王宮を歩けば注目が集まるのは当然のことで。
「まあ!ヴァレット様ではありませんか!ごきげんうるわしゅう」
今日という日も例外ではなく回廊を颯爽と進む彼女の姿をみとめ、二人の令嬢が駆け寄ってきた。ヴァレットはにこやかに迎え、挨拶を返す。
「シルフレイア様、アミール様。お久しぶりです。今日はどうなされたのですか?」
「この時期は王城の庭園にそれは素晴らしい薔薇が咲きますでしょ?どうしても見たくてお父様に無理を言って連れて来てもらいましたの」
「わたくしはシルフレイア様に誘われて、ご一緒させて頂きました。噂には聞いていたのですが、まだ一度も拝見したことがなくて」
自身が花であるように着飾った彼女達は意味ありげに目配せし、艶やかな笑みを覗かせる。そんな二人にヴァレットは底のしれない微笑を向けただけだった。
「そうでしたか。先日拝見する機会がありましたが見事に咲き誇っていましたよ。お二人の瞳に映れば薔薇達も更に極上の赤に色付く事でしょう。折角ですからご案内したいところですが、所用がありますのでここで」
「あら、残念ですわ。未来の王妃様ですものね。さぞ、お忙しいのしょうね」
「邪魔をしてはいけませんわ。シルフレイア様、参りましょう」
二人の令嬢はクスクスと笑いながら去っていった。その方向に彼女達が言っていた薔薇が咲く庭園はなく、あるのは王子が暮らす区画だけだ。あからさまな彼女達の態度に怒りすら湧かず、ヴァレットはただ呆れるしかなかった。
ヴァレットが通った後にはさざなみが広がるように彼女の話題が密かに人々の間で囁かれる。
侯爵令嬢であり王太子の婚約者である彼女に向けられるそれは決して好意的なものではなかった。
彼女が申し分ない侯爵令嬢であったなら、そこに含まれていたのは羨望や憧れ、嫉妬といったごくありふれた感情だっただろう。
けれど彼女を見るもの達の瞳には前者はもちろんそれ以上に嘲りと憐憫の情があった。
最大の理由をあげるならばまずはその容姿だ。
一重まぶたの目は糸のように細く、唇は厳しく引き結ばれている。頬にはそばかすが散り、眉毛は勇ましい放物線を描いていた。大抵の男と同等の位置に視線がくる高い背と程よくついた筋肉のため可憐とはほど遠い。お世辞にも美しいとは言えない彼女は美を好むこのランベール王国ではそれだけで侮蔑の対象であった。その身分、立場ゆえに表立って軽んじられる事はないが彼女を見る人々の目は明らかだった。
けれど、そんなものは全部今更だ。どうして美しく産んでくれなかったと両親を責めたって自分の容姿が変わる訳でもなく、無駄にプライドの高い貴族たちがしおらしくしたところでヴァレットを認めるとは思えない。あわよくば自分の娘をあるいは自分こそが未来の王妃にと考えているものは少なくないはずだ。
王子自身、美を好み最愛の母を亡くしてからは女遊びが顕著になった。母性を求めるように女を囲い始め、隣国にまで色狂いの王子と揶揄されるまでになっていた。市井には悪い噂が蔓延し、唯一の跡継ぎであるヨシュアに対して事情を知る貴族達は腫れ物に触るような扱いだ。
幼い頃から彼を見てきたヴァレットにしても婚約者として強く窘める事は出来なかった。
それもある日を境に状況が百八十度変わることとなる。