仮面 ~6~
松木が腕を伸ばす。反応が一歩遅かった如月みちるは、精一杯抵抗したが、そこはやはりまた男女の差。あっという間に絡め取られる。
男性恐怖症になった経緯を、彼女はこの前語ってくれた。力で屈服させられる怖さを、彼女は知っている。
だから、今この瞬間の松木も、一週間前の自分も、双方同じだけ最低だ。
「なんでだよ。いつもふたりでクラスまとめたり、バカ話したりしてたじゃん。他の女子も、俺の話題が出た時の如月っちは満更でもなさそうだって」
「ほんとに離してったら! 嫌なの!」
「だからなにが嫌なんだよ!」
「嫌って言ったら嫌! ってか松木くんはこんなにしつこいのは、あの教室に手ぶらで戻るのが恥ずかしいからでしょうがっ!」
あ、禁句。と俺が思った瞬間、松木の顔にサッと赤みが差した。プライドが無駄に高い松木に、それは言ってはいけない。俺には好都合だけど。
「――っ!」
声にならない叫びが、漏れる。ここに敢えて『漏れる』と書いたのは、彼女の唇が、すでに松木のそれに塞がれていたからだ。
如月みちるが、松木の胸元を力一杯押す。申しわけないが、まだ助けにいけない。
頼む。耐えてくれ。
如月みちるが藻掻く。知らないうちに、左拳を強く握っている自分がいた。
松木の口付けは、しつこい。彼女が後ろへ後ろへと逃げても、粘っこく追い求めて止まない。
炎。腹の辺りで、正体不明の、炎が灯っているのがわかる。ぎり、という音がして、奥歯と奥歯が軋り合う。
そして、松木が彼女の制服のリボンに手を掛けた瞬間を見届けると、俺は普段よりかは声を張り上げて、言った。
「録画完了」
ふたりの顔が、ぱっとこちらを向く。
「は?」
松木が俺に気を取られた隙を逃さず、如月みちるは腕から脱け出した。そのまま校舎にもたれかかって座り込む彼女に、松木が再び近付く前に、続ける。
「だから、録画。如月さんが手を振り払った辺りから、今さっき無理やりモノにしようとしたところまで。『手ぶらが恥ずかしい』って言い当てられて怒ったところも、全部」
右手に持ったスマートフォンを軽く振ってみせると、松木は苦々しげに口元を歪めて訊いた。
「……なんで、坂元にここがわかったんだよ」
ちらり、と如月みちるに目を向ける。青ざめた顔に表情はない。すぐに視線を前に戻し、俺は「なんとなく」と肩を竦めてみせた。
「ちなみに今録った物は家のパソコンに送るから、今後俺のスマホを狙ったとしても無駄だから。一応」
「そもそもどうしてお前が介入してくるわけ。関係ないはずだろ」
「関係ある。如月さんは俺のいい友人だ」
俺の発言に、松木はもちろん、如月みちるも驚いたように顔を上げた。というか、俺も内心首をひねっていた。自分で言い放っておいてなんだが、友人? 俺と如月みちるが? しかしその他の言葉でここの関係性を説明するのも面倒くさいので、特に訂正はしない。
「……は、如月っちと坂元なんか、喋ってるところも見たことないけどな」
嘲るように、松木が言う。
「あれだろ? お前どうせ一方的に如月っちが気になってるだけだろ? こんなところまで探しにきて、挙句に盗撮までして。ストーカーかよ。マジで気持ち悪いぞ、そういうの」
「松木が自分の物差しで俺をどう測るかは知らないけど――」
スマートフォンを操作しながら、顔も上げずに、
「SNSとかにさっきの奴アップされたくなけりゃ、ここでのことは口外せずにとっとといなくなってくれないかな」
脅す。それはまさしく、脅迫以外の何物でもなかった。
自分の口から、こんな平然と残酷な脅し文句が出てくる日が来るとか思わなかった。……いや、嘘だった。たった一週間ほど前にも、ほぼ同じ手段で如月みちるを脅したばかりだ。
あの時は、ただただ楽しかったが、今はただ、胸糞が悪いばかりである。
「クラスの中心ってだけでクラス委員になった松木は、クラスメート、主に女子にどう思われるだろうな、この映像を」
「……」
向こうに反論の余地はない。それを悟ったのか、松木は開き直って鼻を鳴らした。
「俺じゃなくて、お前らのほうがいなくなれば?」
どこまでも傲慢な男だ。俺は思わず溜め息をこぼすと、如月みちるの傍に歩み寄って、しゃがみ込んだ。彼女が震えて、身を縮める。
「如月さんが動けない」
「なんで」
質問が多い男である。
「さあ。おおかた、松木が怖いんだろ」
なんてこともなさげに答えてやると、松木は多少傷付いたような目をして、顔を伏せた。
「恐怖の対象から逃げるより、恐怖の対象が自ら去ってくれるほうがよっぽど楽だと思うんだけど」
そこに決して同情しないのは、間違いではないはずだ。
「……下衆が」
こちらを睨む松木。普段は端正な面立ちも、怒りに歪めば多少は醜い。
「下衆はお前だ」
そして俺も、特定の人物以外に睨まれて悦ぶ趣味はない。
★
「あたしからすれば、どちらも下衆だけど」
松木が立ち去ってから間もなく、如月みちるがおもむろに口を開いた。
「しかもなに、友人って。あたしは絶対にごめんだね……」
口調は通常と変わりないが、声は絞り出したように細い。
「……我慢しなくていいよ」
「なにを」
「吐き気、おさまらないんでしょ」
「……」
ただでさえ蒼白な顔が、さらに青く変色する。口元を押さえる手が小刻みに震えているのは、気のせいではない。
「……じゃあ坂元もどこか行ってよ」
「そんな状態の如月さんを置いてはいけない」
「なら見ないで」
「それも聞けない」
「お願いだから……っ」
如月みちるは片手を壁につくと、俺に背を向けて、地面に咳込んだ。吐瀉特有の酸っぱい匂いが、辺りに立ちこめる。
俺は背中をさすってあげようと手を伸ばしたが、触れるや否や「触らないで」と鋭い声が飛んできた。
「今のあたしは、汚い。そしてあたしは男が大嫌い。お互いにいいことなんかひとつもない」
「俺は汚いとは思わないけど」
「あたしがだめなの!」
口元を拭って、如月みちるが叫ぶ。
「男なんか、大っ嫌い! 松木も坂元も、本気の本気で気持ち悪いんだから――!」
だから、どっかに行ってよ。そう呟いた彼女の声は、今にも泣き出しそうだった。
「……」
彼女の言葉を受けて、どうしてそういう判断に至ったのかはわからない。
俺は如月みちるの左肩を引っ張って身体を反転させると、彼女が反応するより先に、
「――」
一瞬にして、唇を奪った。
彼女は驚いていた。俺も驚いた。
吐瀉の味はしていただろうか。憶えていない。それほど気にしていなかったのだ。直前に口元を拭っていたから、しなかったのかもしれない。
俺はそのまま如月みちるの後頭部に手を添えると、自分の胸元に彼女の顔を押しつけた。
「……吐く?」
恐る恐る声を掛ける。如月みちるはなにも言わなかった。
ただ、しばらくして、押し殺したような啜り泣き声が聞こえてきて、俺はなぜかほっとしたような、悲しいような、苦しいようなそんな感じの妙な気持ちになった。
如月みちるは、俺に縋りつくでもなく、拒絶するでもなく、両手をだらんと下げて、静かに涙を流していた。
下校時刻を告げるチャイムが、どこか遠くに聞こえる。