仮面 ~4~
「如月さん」
帰りのHRが終わった。相変わらず女子に囲まれて笑顔を振りまく如月みちるに、俺は無遠慮に声を掛ける。周りの女子が訝しげにじろじろと見てきた。あたり前だ。いつも教室の右斜め後方で静かにしている空気が、いきなりクラスのマドンナに話しかけたら、何事かと思うだろう。
「ちょっといい?」
それらの視線を振り切り、輪の真ん中にいる如月みちるを誘う。
彼女は迷っているようだった。えっと……と目を伏せる。
しかし、これ見よがしにブレザーのポケットに手を突っ込むと、彼女は諦めたように小さな溜め息を吐いた。
「坂元があたしを呼び出すとか生意気」
彼女がそう言ったのは、階段を上り始めてからのことだった。
「一応四月二日生まれなんだけど」
「生まれ順の話じゃなくて」
うんざりしたような返答を後ろに聞きながら、五階へ到達。相変わらず人の気配はなく、遠くに三年生たちの声が聞こえるだけに留まっていた。
「で、なんか用? それともからかいに連れてきただけ?」
演習室Cに入り、窓をひとつ開ける俺の背後で、如月みちるが後方の席に着き、椅子の前脚を浮かせる。
「俺が誘わなくてもここには来たんじゃないの?」
「否定はしないけど超むかつく」
如月みちるは不機嫌そうな溜め息を吐くと、自らの震える身体を抱き締めた。
「胴を触られるのはきつい?」
「高一の初期なら家帰ってから吐いてた」
「吐いてたんだ」
意外な事実に目を丸くする。如月みちるは肯定しようとして「――待って」と俺をびしっと指差した。
「スマホ、出して電源切って」
「別に今日は録音してないよ」
「いいから切れっ!」
さすがに昨日の嫌がらせが堪えたらしい。俺は肩をひとつ竦めてみせると、ポケットの中からスマートフォンを取り出し、電源を切って、窓際の机の上に置いた。
顔は怒ったままだが、如月みちるは満足げに鼻を鳴らして、ぷい、と前を見た。
ふと、疑問に思っていたことを尋ねてみる。
「……どの程度までなら、平静を保てるの?」
俺の唐突な質問に、しばらくの間を置いてから、如月みちるは「はあ?」と柄悪く返してきた。
「だから、どこをどのくらい触られたら『誰もに好かれる委員長』的スマイルが崩れるのかなって」
「……知らないよ。ほんとは指一本でどこ触られたって、その手を叩き落してやりたいくらいだし」
「そっか」
俺はスマートフォンを手に取ると、窓の傍を離れた。演習室の後方にいる如月みちるに近付く。
「ちょっと測ってみようか」
「え? ――なに?」
顔を上げ、近くに寄ってきた人影にようやく彼女が反応した時には、俺はすでにすぐ傍まで来ていた。
思わず逃れようとした彼女の左手を、俺の右手で机の上に押さえつける。
ひっ、と喉の奥から息のような悲鳴が漏れるのが聞こえた。
「ここに『誰もに好かれる委員長』はいないから……そうだな、如月さんが本気でこの手を振りほどくのを限界だとしようか」
「離し」
コン。と固い物がぶつかり合う音で、如月みちるの言葉を遮る。見せつけるように、左手でスマートフォンを机の上に置くと、彼女は大人しくなった。
押さえつけた彼女の手も、肩も、長い髪の毛先も、かすかに震えている。
以前の俺なら、女子のこんなところを見たならば同情のひとつもしただろう。
しかし――
「っ!」
逃げるように宙を惑っていた右手も、がっちりと手首から捕まえる。両手でしっかり繋がった俺たちは、端から見れば何事かと思うほど、互いに戦々恐々とした空気を醸していたことだろう。
「……ねえ、如月さん」
囁くような声で、ゆっくりと名前を呼ぶ。顔を上げるように促したつもりなのだが、彼女は反応しなかった。
「如月さん」
さっきよりも毅然とした声音で呼びかけながら、両の手に少し力を込める。如月みちるはびくりと身体を震わせると、
「……この外道」
ぎっ、と強い目で睨んできた。
知らず、こぼれ出る笑み。
この目に睨まれる感覚を憶えてから、俺は彼女にただ同情することは出来なくなっていた。
「……すごい顔」
俺が彼女の嫌悪的な視線を好きだと知ったら、どんな目をするだろうか。
きっとまた、気持ち悪いものを見るような目をして、俺を悦ばせるだけなんだろうな。そう考えると、いろいろおかしくて笑えてくる。
「……なに」
「いや、ね」
口元が緩みすぎるのを抑え、じっと如月みちるを見つめ返す。男子との接触で、視線は有効か否か。
答えは有効で、彼女は頬を朱に染まらせて、歯を食いしばった。しかし、目は決して逸らさない辺り、生来の気の強さを感じる。
「……いつか如月さんが男子にキスなんかされた日には、一体どうなるんだろうね」
「してみれば」
憤った声で返される。
「あんたの制服にゲロ吐いてやる」
「……ぷ」
思ってもみなかった言葉に、小さく吹き出して笑う。彼女らしいといえば、まさにその通りだ。いかにも本気な辺り、とか。
「如月さんさ、怖いもの見たさって知ってる?」
「制服汚れるよ」
「逃げるよう善処する」
「やめて」
如月みちるは俺の手を振りほどこうと藻掻いた。が、そこはやはり男女の差。俺の手が緩むことはない。
「離して。お願いだから」
「やーだよ」
「ほんっとに――」
それは、調子に乗った罰だった。
あ、と思う間もなく、
「――」
如月みちるの下瞼に、透明な液体が乗っかる。
表面張力。この状況で、なぜかそんな言葉を思い出した。
でも、そんな力が働いていたのは、ほんの少しの間のことだ。ダムは瞬く間に決壊し、それは頬と机に転がり落ちる。
重すぎる沈黙が、演習室を襲う。これは明らかに俺が悪い。彼女をからかいすぎたことも、彼女の頬の筋から目を離せずにいることも。
「……ごめん」
ゆっくりと、彼女の両手を解放する。自由になった彼女は、手の甲でごしごしと目元や頬を拭った。
「…………もう行ってもいい?」
目の周りを赤くなるほどこすった後、ようやく如月みちるは口を開いた。俺は頷くほかない。
如月みちるは最後にもうひと睨みしていくと、席を立ち、足早に演習室を去っていった。鼻を啜る音が、やけに響いて聞こえた。
机に残る水滴を見つめる。静かでがらんとした演習室内において、唯一そこだけが彼女のいた形跡のようで、妙に浮き上がって見えた。
――なんだか、未だかつてなく舞い上がっていたのが、嘘のようだ。
彼女の涙が塩分だけを残して乾いてしまっても、俺はその場から動けずにいた。