仮面 ~3~
「なによ」
「いや」
「お察しの通り、母親の目につかないところで、あたしの身体べたべた触ってきたの。娘と戯れてるんじゃないよ? そんなレベルじゃなくて。無抵抗な小学生だったあたしはされるがまま。ようやく事態に気が付いた母親が急いで離婚してくれた時には、時既に遅し。男アレルギー娘の誕生ってね」
「大変だね」
「坂元に言われるとなんか腹立つ」
「ひどい言い様だ」
腹が立つ、と言われても、実際しょうがないと思った。その時の俺は『仮面』の剥がれた如月みちると対峙出来て、ものすごく声が弾んでいたのだ。
「じゃあ、クラスの女子が如月さんと松木の仲を囃し立ててる件についてはどう思ってる?」
「は? って感じだね。なんであいつと噂にならないといけないの。しかも、あたし今朝あいつのことで先生に怒られたんだよ! しっかりしろよ!」
どうやら昼休みに冗談めかして言ったことには本気でむかついていたらしい。窓枠に手を打ちつけると、彼女は痛そうに掌をさすった。
「つーかなんで女子ってすぐそういう話に繋げたがるわけ? あたし、話しててうざいんだけど」
「生態だと思って諦めたほうがいいと思うよ」
如月みちるは長い髪をくしゃくしゃと掻きむしると、俺のふたつ隣の席に着いて、だらしなく肘をついた。吐き出し尽くしたのか、余韻のように深い溜め息を吐く。
世の中のすべてを敵に回しているかのようなその表情に、思わずドキリとして目が離せなくなる。
「……じゃあ、どうして女子校にしなかったの? それに委員長なんて、そんな目立つ存在」
三つめの問い掛けに、如月みちるは、ちらりとこちらを見やった。そこに嫌悪的なものはなく――まあ実際あるのだろうが――純粋にこちらを意志の強い目で睨んでいるように見えた。
「……中学は私立の女子校だった」
やがて、とつとつと語り出す。こいつなら話しても大丈夫、と思われたのなら狙い通りだ。
「そこはパラダイスだったよ、男の先生と関わりさえしなければ。……でも、その環境に甘えていたら、大人になってからひどいことになる。どうせ結婚出来ないんだから、独立した人にならないといけないでしょ? だから公立の共学を受験した。委員になったのは……いろんな責任を背負って、生き抜く訓練をするため」
「生き抜く……か」
高校生とは思えない志である。俺は深く感心しながら、最後の質問をする。
「如月さんて、今のクラスに友達いる?」
「さあね。少なくともあたしは、特に誰のことも友達とは思ってない」
これで決定的になった。俺は内心ほくそ笑む。
「キモい男子も、うざい女子も、みんな知らない。将来のために、付き合ってるだけ。文句ある?」
俺はなにも答えなかった。如月みちるは顔の向きを前に戻すと、不貞腐れたように、もう一度鼻を鳴らした。
「……まあ、クラスのみんなには黙っといて。といっても、坂元がなにか言ったところで、あたしのキャラがブレるとは思えないけど」
なんかひどい言葉が聞こえた気がする。俺は苦笑して、ブレザーのポケットに手を突っ込んだ。
「今日は随分とぶっちゃけてくれたね」
「溜まってたみたい。溜まったものには『処理』が必要。男子もそうでしょ?」
「あはっ! 今のも録っておけばよかった」
場にそぐわない言葉に、如月みちるは、訝しげにこちらを見た。
「録って……?」
ポケットから手を出す。そこには、青いケースにはまったスマートフォン。
「最近のスマホって、すごく性能いいよね」
トン、トンとタップして、再生。
「ポケットに入れてても、よく録れる」
『キモいね、確かに。松木も米山も、誰に許可取って肩――』
如月みちるの顔に、絶望の色が浮かぶ。
『――キモい。マジで無理』
やがてそれが激しい怒りに変わるのと同時に、見えてくるものがある。
『特に誰のことも友達とは思ってない。キモい男子も、うざい女子も、みんな知らない。将来のために――』
「……下衆が」
まさに、嫌悪感の塊。心底気持ち悪いものを見つめる時のような、軽蔑の込められた、目。
ははっ、と笑い声が漏れるのを止められなかった。
そして俺は、そんな自分を心底気持ち悪いと思った。
★
滑稽。ゆえに面白くないものもある。
「喧嘩なく決まってよかったねー!」
「な! ってかパン食いの倍率やばかったな」
「なんだったんだろ、あの壮絶なじゃんけん大会」
その日の六限はHRだった。月末に開催される体育祭に向けての係決め、種目決めを終えて、クラス委員のふたりが、使用した黒板を綺麗にしている。
昨日散々扱き下ろしているのを聞かされたからだろうか、如月みちるがいかにも楽しげに喋っているのが、非常に滑稽である。そこらのアイドル女優よりもずっと演技力があるかもしれない。
しかし、だ。
「松木くんは『台風の目』でしょ? なんか意外だなあ。足速いんじゃなかったっけ?」
「最後のリレーのために蓄えとこうと思ってな」
「そっか! 頑張ってね。応援してる!」
面白くもない。教室の右斜め後方で、誰にも気付かれないように舌打ちする。
なんでかわからないが、如月みちるがそんな風に笑うのが、えらく気に食わなかったのだ。貼りつけた笑み。思ってもない言葉の数々。彼女の『仮面』の表情は、俺にとってもはや違和以外の何物でもなくなっていた。
「如月っち、ブレザー!」
「え?」
その時、松木がなにかに気が付いて声を上げた。見ると、如月みちるのブレザーの脇腹辺りがが、チョークの粉で白く汚れていた。
「待って、動かないで」
黒板消しを持っていないほうの手で、松木が如月みちるの脇腹を軽く叩く。瞬間、彼女の肩が小さく跳ねた。わずかな動きなので、松木は気にもかけない。
彼が顔を上げたなら、さすがに気付くだろうか。
俺が好きで好きでたまらない、彼女のあの、目に。
「――ありがとう、もう、いいよ」
声と口元はにこやかに、如月みちるが手を離させる。いいことをしたとばかりに満足げな表情を見せる松木から少し顔を背け、彼女が視線を投げたのは、俺だった。
怯え、怒り、緊張、屈辱、軽蔑、懸念、そして嫌悪。
雄弁な目は、本日も様々な色を映し出す。
あ、面白い。と口角が上がるのを感じた。
滑稽さと面白さが両立する時が、俺の最も心が躍る瞬間だった。