仮面 ~1~
普段はこういうの書かないんですけど……書いてみたら半端なく楽しかったですね(笑)
誰もに好かれる委員長。如月みちるについて簡略的に説明させると、誰もがそう言うか、類似したことを答える。事実、如月みちるはそんな女子生徒だった。HRや学校行事等でクラス全員を見事にまとめ上げ、頭も決して悪くなく、人好きのする笑顔を振りまき、先生からも生徒からも絶大なる信頼を得ている。
欠点がないことが欠点。如月みちる以上の完璧人間には、まだ十七年の短い人生だが、俺も出会ったことがない。
だが、教室の右斜め後方の席から彼女を見つめていて、いつも思うことがある。
「如月っちー」
昼休み。いつもどおりクラスメートの女子に囲まれながら昼食をとっていた如月みちるは、ひとりの男子生徒に呼びかけられて、楽しげな会話を中断させた。
「あ、松木くん!」
「先生に進路希望の紙、全員分出しに行ってくれたっしょ? サンキュね」
もうひとりのクラス委員、松木が手を合わせる。如月みちるは仕方なさそうに笑って、軽く頬を膨らませた。
「今朝寝坊したんでしょ? 先生に『しっかりさせろ』って言われちゃったよ。連帯責任だって!」
「悪い悪い! 勘弁! な?」
嫁の尻に敷かれた旦那がごとく、松木が情けない声を出す。途端に周りでどっと笑いが起こった。クラス内カースト上位の人間は、基本なにをしても周りを笑わせられる。そんなことがよくわかる絵だった。
「まあ、とにかくありがとな」
そう言って松木は、如月みちるの左肩を軽く叩くと、仲のいいメンバーたち大勢と教室を去っていった。おおかた購買にでも行ったのだろう。中庭で菓子パンを片手に談笑している姿がしばしば見受けられる。
「みっちーってさ、松木と付き合ってないわけ?」
松木たちが去った途端、如月みちるを囲む女子のひとりが問う。他の女子も、興味津々に聞き入る。
「えー、付き合ってないよお! 同じ委員ってだけ!」
「でも松木は明らかにみっちーのこと好きじゃんかー!」
「もういいから付き合っちゃいなよ!」
女子という動物はすぐにこういう話に繋げたがる。俺は小学校高学年の時点で、その生態に気付いていた。
「松木かー。いいねえ、優良物件」
「賃貸じゃないんだからさ」
しみじみと呟く女子に、如月みちるが素速くつっこみを入れる。再び辺りを笑声が支配した。
ひとしきり笑った後、如月みちるはおもむろに席を立った。
「どこ行くの?」
「ちょっとゴミ捨ててくるね! すぐ戻る!」
彼女は片手に五百ミリリットルの紅茶の紙パックを持っていた。
教室のゴミ箱は――何人が守っているか知らないが――昼食のゴミを捨てることが禁じられている。
えらーい、真面目ー、と声をかけられながら、如月みちるはひとりで教室を出た。さすがに一階の購買脇のゴミ箱までは、誰もついてくる気になれないらしい。
また好き勝手に喋り始めた女子を横目に、俺はよっこらせ、と腰を上げる。昼休み終了までに、隣の隣のクラスの奴に、午前中に拝借した数学の教科書を返す約束がある。
教室を出た俺は、進路方向である右手を向いた。隣の教室のすぐ横に階段があり、その更に向こうに目的の教室がある。
如月みちるはちょうど階段に差しかかったところで、彼女はすでに足を掛けていた。
上に行く階段に。
俺は一瞬間立ち止まった。購買は一階、ここは三階。あの如月みちるがそんな初歩的なミスを犯すはずがない。
なにより心を引いたのは、階段を上りゆく彼女の、ちらりと見えた横顔。
クラスメートに囲まれている時のように微笑みを湛えているわけでもなければ、授業中のようにきりっと引き締まっているわけでもない。
ひたすらに、無表情。唇は固く結び、視線はただ階上を見つめている。
一階に行くと嘘を吐き、上階へと向かう如月みちる。それに気が付いているのは、俺ひとり。
友人に返すはずの教科書が、急速に頭の片隅へと追いやられていくのを感じた。
★
四階には三年生の教室が並んでいる。もしかして彼女の所属する吹奏楽部の先輩に用があるのかとも思ったが、彼女は上級生たちがガヤつくその階を素通りしていく。
五階には主に演習室と会議室がある。生徒会室も同じ階にあるが、如月みちるが上っている階段からは遠く離れた場所に位置している。
この階まで来ると、辺りが静まり返ってくるのが肌で感じられた。埃っぽい五階に人の気配はなく、遠くに三年生たちの喧騒が聞こえる。
階段を上りながら、足音を立てないようこっそり上履きを脱ぐ。如月みちるはそんな俺に気付くことなく上り続け、やがて五階の廊下を歩き始めた。
振り返られたらおしまいなので、ここから先は階段横の防火扉の陰から、後ろ姿を見つめることにする。
彼女は颯爽と廊下を闊歩していたが、不意に足を止めて、その場に佇んだ。
横には「演習室C」の札が掛かった教室。そこに入るのかと思えば、そんな様子も見せない。ただその場に静止して、軽く俯いているだけ。
いよいよ如月みちるのしたいことがわからなくなってきた俺の耳に、突如としてそれは飛び込んできた。
カコンッと響く、乾いた音。
なにが起こったのかわからなかった俺は、一拍置いてから、ようやくそれが如月みちるの紅茶パックが床に叩きつけられた音だということを理解した。
すでに静寂に包まれていた五階が、さらに静まり返ったような気がした。
左肩に手を伸ばす彼女。松木に叩かれたほうの肩だ。
心なしか、身体がわずかに震えている。
「キモ」
聞き間違いでなければ、如月みちるは確かにそう言った。普段なら絶対に聞き取れないような声だが、如月みちるに全神経を集中させていた俺には、ぎりぎり聞き取ることが出来た。
キモ、だと。朗らかな笑い声を上げ、人に対する優しい言葉を繰り出し、クラスをまとめる凛とした声を出す、あの口が、キモ、だと。
極めつけは、顔を軽く右に向けた彼女の、肩越しに見えた、目。
嫌悪感に満ち溢れ、本気で気持ち悪いものを見つめるような、目。
「……」
ようやく震えが止まると、如月みちるは床に叩きつけた紅茶パックを拾い上げ、別の階段から下りていった。
五階にひとり、取り残される。
俺は防火扉の傍に立ち尽くしたまま、一歩も動くことが出来なかった。
なぜか。
如月みちるの、あの目を見た瞬間、
「――は」
ものすごく興奮した自分が、そこにいたから。
心臓が凄まじい速さと力で脈を打つ。
シャワーカーテンの隙間から女神の裸体を覗き見てしまったかのような高揚感に包まれながら、俺は昼休みの終わりを告げるチャイムを、どこか遠くに聞いていた。