機知の戦い
十回ほど同じ曲を聴いただろうか。バスは大学のキャンパスがある坂道の交差点まで進んでいた。頭の中は曲の歌詞と、カウンセリングの質疑応答のシミュレーションでいっぱいだ。現在の自分はカウンセリングが必要ない普通の状態であること、何故呼ばれたのかわからないくらいの健康さをアピールできたらベストだ。
バスが坂を上りきって、ドアが開いた。ペットボトルのコーヒーを一口飲んで、僕はバスを降りた。
校門の脇に咲いている桜は少しずつ散りはじめている。散りはじめが一番きれいだと思う。昔、きれいな時間が短いからいいと言ったら「短いからきれいなんて寂しい」と言われたことがある。そう言われると、確かにそうかなとその時は思ったんだけれど、やっぱり散りはじめの桜はきれいだと感じる。美しさの中の寂しさが、よりきれいに見せているのだろうか。
しばらく桜の木の下で考え事をしていたら、予鈴がなったので、僕はあわてて校舎へ向かう。一限の講義の教室はどこだったか。
カウンセリングの質疑応答だけじゃなくて、考えることはたくさんあるんだと感じたけど、今さらどうにもならない。僕は時間割に載っている教室の番号を見て、別の校舎に向かって走り出した。
教室には既に大勢の学生で席が埋まっていた。僕は後ろの空いている席にそっと座った。必修の講義だけに、一限でも多くの人が履修するようだ。チャイムが鳴ってしばらくして先生が入ってきた。
初回ということで、前期でどこまでの範囲をカバーするとか、何回目で誰の理論を取り上げるとか、解説めいたことがほとんどだった。初回なので出席もとらずに、一時間ほどで講義が終わってしまった。後三十分、静かに過ごしておくようにと先生は言っていたけど、教室は既にざわざわしている。他の教室に聞こえたらまずいんじゃないかと思ったりしたけれど、多くの学生はそのまま校舎の外へ出て早めの休み時間を過ごしているようだ。窓から、さっきまで教室にいた学生の姿が見える。
教室に残っているのは僕だけになった。腕時計を見ると、十時十分を指している。カウンセリングの予約時間まであと三十分。昨日から考えている対策でなんとか対処はできると思うけれど、やっぱり緊張する。
カウンセリング室の紹介の紙を鞄から取り出して、じっと見つめる。萩原先生、とでも呼べばいいのだろうか。
初対面の人に対して、なんと呼べばいいのか僕は未だにその辺がよくわからない。人付き合いになれていないというか、基本的に向こうからアプローチしてきた人に対して答えるというパターンで今までの友人とは関係を構築してきた。まあ、今回も向こうから電話があった訳だし、アプローチされた側になる訳で。
向こうが積極的にカウンセリングしたいかどうか、辺りが線引きのポイントになるかな。向こうが僕のことを色々聞きたい感じで、探りを入れてくるタイプのカウンセラーならもう僕は完全防備の態勢に入るだろう。
ただでさえ深い話は苦手なのに、最初からがっついてくる感じのカウンセラーは苦手だ。まあ、こちらが防備しているのを悟られないのが一番いいんだけど。簡単に、さっさと終わらせてしまおう。カウンセリング室は二号館にあるらしい。僕が教室を出ると、一限目の講義の終わりをしらせるチャイムが鳴った。
大学は広くて、未だにどことどこが繋がっているかよくわからない。一号館と二号館は繋がっていて、掲示板のところが境目になっていたはずだ。とりあえず、掲示板の前に向かって歩を進める。
二限から講義のある学生が丁度やってくる時間で、掲示板の前は混雑していた。特に急を要することは張り出されていないことを確認して、僕は二号館への通路を歩く。入って右手に就職課があって、左手には階段がある。カウンセリング室は通路をまっすぐ進んで、保健室の手前で左に曲がったところにあるようだ。
実際に進んでいくと、保健室の手前に細い通路がある。通路の奥にドアがあった。ドアの前にはポストが備え付けられている。ネームプレートには「カウンセリング室」とはっきりと書かれていた。
ノックをしようとしたけど、緊張で手が震えた。後ろの通路から誰かが見ているかもしれない。後ろを振り返ると、通路は人が行き交っている。就職課や保健室が近くにあるから仕方ないのかもしれないけど、この作りはなんとかならなかったのだろうか。いくら部屋が奥にあるとはいえ、角を曲がって行った人は100%カウンセリング室に用事があることがわかってしまうではないか。
今、通路を歩いている人たちは僕のことなんか気にもしていないようだけど、角を曲がった時に、誰かに見られてしまったかもしれないじゃないか。額から汗が出てくるし、のども渇いてきた。とりあえずハンカチで汗を拭いて、ペットボトルのコーヒーを一口飲んだ。いつまでもここで立っていたら余計変に思われてしまうだけだ。
僕は意を決して、一歩踏み出して、ドアをノックした。
「……」あたりを静寂が支配した。もう一度ノックをする。
「はい」と、返事が聞こえたように思えたけど、気のせいかもしれない。色々と考えていたら、ドアの向こうからコツコツと音がして、ガチャ、とドアが開いた。
「えっと……予約の方かな。はい、中へどうぞ」
にこやかな笑顔で案内されて、僕はカウンセリング室の中へ入った。入ってすぐ目の前にパーテションとなるガラスの壁があって、左側も同様のガラスで見えなくなっている。パーテションの奥に、対面式のソファーと、小さなテーブルがあった。
「西田秋則君、かな?」
予約のリストらしきファイルを見て、尋ねられた。
「あ、はい、そうです。よろしくお願いします」
口の中がからからする。
「はい。萩原といいます。まあ、座りましょうか」
嫌みを感じさせない笑顔でそう言われて、僕は勧められたソファに腰を下ろした。
「どうも。萩原です。鹿鳴館大学には毎週水曜日に来ています」
そう言うと、萩原先生はファイルを開いた。
「えーっと、西田君、水曜日希望となっていますが、これは講義の関係かな?」
なんだか僕の知らない間に僕がカウンセリングを希望したみたいな感じになっている。何故だかよくわからないけれど、この流れはちょっとまずい。
「あ、あの……昨日、カウンセリング室から携帯のほうに電話をもらったんですけど、スクールバスで帰るところだったので、とりあえず今日伺ったんですけど」
とりあえず、僕は意図せずここに来たことを伝えなくてはいけない。
「なるほど。本当なら昨日の森下先生希望だったということかな?」
どうやら誤解が生まれているようなのでひとつひとつ解決していかねば、と思い最初から説明することにした。
「えっと、僕は別にカウンセリング希望という訳ではないんです。そもそも、なぜ携帯に電話がかかってきたのかも、よくわからないんです」
「おや、そうなんですか」
どうやら向こうとしても意外な返答だったようだ。僕は続ける。
「多分、入学式前のガイダンスの時に、学生が利用できる施設の紹介があったんですね。そのアンケートに、カウンセリング室に興味があるかないか、どちらかに○をつけて回答することになってたんですけど、実際にカウンセリングを受けたい訳ではないんです。でも、全く興味がないという訳でもなくて、「興味がある」に○をつけたんです。それで電話がかかってきたのかなと思うんですけど……」
しどろもどろになりながらも、とりあえず言いたいことは言えた。
「ああ、なるほど。で、昨日の担当が森下先生…あ、女の先生なんですけど、その先生から引き継ぎがあったもので。水曜日希望ということかなと思ったんですが、特にそういったことではないということですか?」
どうやらわかってもらえたようだ。少し安心した。
「あ、はい……まあ、そんなところです」
「なるほど。せっかく来てもらったことだし、一時間、お話ししませんか」
「……」
嫌な感じはしなかった。カウンセラーというより、ごく普通の温和な人、という感じだ。
「はい、よろしくお願いします」
自分の口からすっと言葉が出た。自分でも少し驚いている。何を話すか、こっちはまだ何のカードも用意していないのに。
大人の人と普通に「お話し」をするのは久しぶりだ。胸がドキドキしているのは、緊張しているのか、それとも別の何かなのかはわからないけれど。
「西田君は、どこから通っているのかな」
「えっと、笹川市から通っています。四ツ谷駅で電車を降りて、スクールバスを利用しています」
無難な質問だ。そしてうまく返せた。
「そう。それだと、結構時間がかかるんじゃないの?一時間半くらいかな」
また無難な質問。カウンセリングでもこういった質問から入るタイプの人を僕は何度か経験してきた。
「そうですね。まず、駅から家まで車で二十五分かかるので、母に送り迎えしてもらっています。あとは電車で四ツ谷駅まで三十分。そこからスクールバスで五十分くらいです。単純計算だと一時間半ちょっとですけど、待ち時間とか入れると二時間くらいですね」
「それは大変だね。毎日頑張ってるんだね」
少し意外な反応だった。てっきり「下宿は考えなかったの?」と返ってくるものだと思ったからだ。そこで僕が、「あ、僕、生活能力ないんで」なんて答えたら「やっぱり勉強と一人暮らしは大変?」なんて話が広がって、僕のいろんなところをつつきまわされる。という辺りまで先読みしていた。
今さらだが、萩原先生は予約のファイルを開いた以外は、特に自分専用のファイルを持っていないようだ。しかも、僕が部屋に入ってから、メモを取った様子もない。
これは本当の「お話し」なのだろうか。てっきり少しはカウンセリングのにおいもすると思ったけれど、僕の考えすぎだったようだ。
年配の人と普通に会話をするのはどうしたらいいのだろうか。
カウンセリングではなくなると、それはそれで心配がなくなる訳ではないようだ。
「えっと……四ツ谷市の高校に通っていたもので、知っているところから通えるのはいいかな、と思ったんです」
自分から自分の情報を相手に渡しているような返事になってしまったけど、もう気にしないことにした。
「そう。自分の知っているところから近いと、安心できるしね」
「あ……はい。いいなあって」
相づちを打って、向こうの反応を待った。
「……」
「……」
部屋の中を静寂が支配している。僕から何か喋らないといけないんだろうか。
「あ、沈黙は苦手?」
「え、えっと……ふ、普通です」
少し的外れな答えを返してしまった。いつの間にか相手にペースを握られてしまっている。
「ずっと緊張しているみたいだけど、そんなに固くならなくていいよ。今日は西田君がお客さんなんだから」
笑顔でそう言われて、僕はうんうん、と頷くだけだ。眼鏡の奥の目が笑うとなくなってしまうくらい細い。なんだかもう、色々と考えたりするのは無駄な抵抗のような気がしてきた。もう流れにまかせてしまおう。
「あ、えーっと……大学生活、大丈夫かな…って、思ってます」
「ん、大学生活かあ。特に心配なところはどこかな」
「うーん……」
答えにつまってしまう。大学生活で心配なところ、不安なところは山ほどある。
「えっと……勉強についていけるかな……とか、心配です」
「もう講義は始まっていると思うけど、最初からなにかつまづくところとかがあったのかな」
「あ、そういう訳じゃないんですけど、周りの人がみんな優秀そうに見えちゃって」
これは本当の話だ。ガイダンスの時以来、僕はどうも周りの人より何か劣っているような気がしてならない。
「ああ、最初はみんな知らない人ばかりだからそう見えちゃうんじゃないかな。ここを受験するときも、周りの人が自分より頭がいいんじゃないか、なんて感じなかったかい?」
萩原先生は相変わらず、笑顔で僕に優しく語りかける。
「あ、はい……そう思いました」
「頭の回転が速い人はね、色々考えてそういう思考になることがあるんだよ。僕は、西田君が思ってるほど心配しなくていいと思うんだけどな」
「……」
黙っている僕に、萩原先生は続ける。
「もし心配なら、学習支援センターを利用したり、直接先生の研究室に質問しに行ってもいいんだよ。学習支援センターや図書館とは連携して学生をサポートしているからね」
「あ、はい……ありがとうございます」
不安が渦巻いていた心が、一瞬でも落ち着いた気がした。
「僕から質問していいかな?」
萩原先生の声に、僕は頷くだけだ。
「これから、なにか楽しみなことはある?」
そう訊かれて、僕は今週末の予定を話す。
「あ、今週末、友人とお花見に行くことになっているんです。高校時代の先輩と、その友人六人組で仲良くしてらっしゃるんですけど、その中に入れてもらって楽しくやってます」
そう答えると、萩原先生の目が、もっと細くなった。
「よかった。今まで心配なことを聞いていたけど、友達の話になったら、顔がぱっと変わって笑顔になったから。安心したよ」
自分のことみたいに嬉しそうに先生は言ってくれた。
僕はすぐ、表情に出るタイプの人間だ。どうやら今回も顔に出ていたらしい。
「そろそろ一時間経つね。今日はこれくらいにしておこうか」
そう言うと、萩原先生はソファから立ち上がった。
「来週もこの時間空いてるけど、予約入れておこうか?」
先生が訊ねる。
「あ、はい、よろしくお願いします」
迷わず、僕はそう返した。
「はい、わかりました」
先生はそう言うとにっこり笑って、予約表に僕の名前を書いて、次の予約時間の紙を渡してくれた。
「それじゃ、来週まで。またね」
カウンセリング室の出口で萩原先生はそう言うと、にっこりと笑ってドアを閉めた。
僕はゆっくりと歩き出す。
後ろから萩原先生に見られてるんじゃないか、なんて考えて動きがかくかくしているのが自分でもわかる。2号館から出て、近くにベンチを見つけると、座ってコーヒーを一口飲んだ。
萩原先生。ああいうタイプのカウンセラーの人もいるんだ。悪い人じゃなかった。そう思って、僕は大きく息を吸い込んだ。僕が息を吐くのと同時に、春の風がびゅっと舞って、僕の気持ちを遠くに持っていった。