大学よりの使者
「もしもし。西田です」
緊張で声がこわ張る。
「こちら鹿鳴館大学カウンセリング室の森下と申します。西田秋則さんでいらっしゃいますか?」
「あ、は、はい。そうですけど」
電話の相手は落ち着いた声で僕の名前を呼んだ。大学から?でも何故カウンセリング室から電話が?
僕の頭は事態を把握しようと全力で情報を整理している。落ち着かないと。ごくりとつばを飲みこんで、相手の言葉を待った。
「あ、今お電話大丈夫ですか?カウンセリングに興味がおありということで、電話させてもらってるんですけど」
話がよくわからない。カウンセリングに興味?大学から直接携帯に電話してくるということは、何か重大なことなのだろうか。そこまで考えたとき、思わず、口から声になって言葉が出てきた。
「あ、アンケート?」
思いのほか大きな声を出してしまったようで、バスの中の視線は僕の方に集中したけど、それも一瞬だった。
「はい、興味があるとアンケートに記入されていましたので、電話させていただいてます」
確かに、アンケートには「興味がある」に○をつけたけれど、「興味がない」の方に○を着けるのがなんだか悪いような気がしたからなのだと説明するには、電話の主にはそれこそ本当に伝えづらかった。
「あ、あの……今、帰りのスクールバスの中なんです。ですから、今はちょっと……」
なんとか穏便に電話を切りたかった。何事もなかったかのようにこのまま家に帰って、明日から普通の学生生活を送るのだ。
「そうですか。わかりました。では、明日のご都合はいかがですか?」
「あ、明日ですか?ええっと……」
僕は、昨日配布された時間割を見て、明日、履修する講義があるか探した。明日、水曜日は一限の「経済学概論」だけしか講義がない。裏を返せば、二限目以降は暇ということだ。
「えっと、明日なら二限以降は空いてます」
「はい、わかりました。では、明日の二限、十時四十分から予約おとりしておきますね。担当は、萩原先生になります」
「あ……はい、よろしくお願いします。それでは失礼します」
なんとか電話を切ることはできたけど、明日、カウンセリング室に行くことになってしまった。
電話を切ると、バスのエンジンの音が大きくなって、ドアが閉まった。
僕は大きくため息をついたけど、きっとエンジンの音でかき消されて、誰にも聞こえていないはずだ。
家に帰ると、すぐに自分の部屋に向かった。スーツをハンガーにかけて、ネクタイを外すとそのままベッドへ横になった。入学式や歓迎パーティーのことは、カウンセリング室からかかってきた電話で吹き飛んでいった。頭の中は、明日のカウンセリングにどう対処すべきかということでいっぱいだ。
そもそも、何故僕の携帯に電話がかかってきたのか。これは、先日のガイダンスの施設紹介の時に、僕が「興味がある」に○をつけたから、というのがカウンセリング室の人が言っていたけど、それだけの理由で、携帯の番号まで調べて電話してくるだろうか。
住所や緊急時の連絡先に携帯番号を書いたけれど、そういった書類を扱っているのは学生課のはずだ。カウンセリング室の人は、学生課のどこかにある、僕の個人情報が書いてある書類を見た、ということになる。まあ、個人情報といっても、大学に入学してから書いたものなので、本当に住所と電話番号くらいしか書いていないけど、学生課を通さないと多分書類を閲覧することはできないだろう。
あるいは、「興味がある」と回答した学生がほとんどいなかったのだろうか。自分から積極的に利用しようと思わない、なんていうか「面倒くさい」ことには最初から関係をもたないこと、関心を持たないのが、自分に干渉されたくない、なんていうか「今どき」の生き方だったりするのだろうか。
さらに可能性を模索すると、「興味がある」と回答した学生はある程度いたが、特にカウンセリングが必要と判断されたので、電話がかかってきたという可能性も考えられなくはない。
確かに、僕は今までカウンセリングを受けたことが一度や二度じゃないけど、僕のそんなところまで知っている人は、大学にはいないはずだ。
大学に出した願書からも、そこまではたどり着けないと思う。色々深く考えすぎだろうか。明日、カウンセリング室へ行って、「あ、なんとなく○つけちゃったんです」とでも言っておけばそれで解決するだろう。ふと思い直して、鞄の中から紙を引っ張り出す。ガイダンスの時に配布された、カウンセリング室の資料だ。
明日は水曜日だから、水曜日担当のカウンセラーの写真と、紹介文を見た。
萩原義久。三十歳前後だろうか。カウンセリング室の中で、唯一の男性カウンセラーだ。「大学生という限られた、素晴らしい時間を有意義に過ごすため、何か相談事や悩んでいることがあれば気軽に相談してください」とのことだ。なんというか、ありきたりな文章だというのが第一印象。顔写真は白黒の印刷だからよくわからないけど、まあ、眼鏡は似合ってるんじゃないかな。印象は悪くない。
頭の中の片隅にあった、「約束をなかったことにして行かない」という選択肢はやめておくことにしよう。
男のカウンセラーのほうが、僕は話をしやすい。まあ、なんとか適当にあしらっておけばいいか。いざとなったら、ちょっと精神病んでますみたいなキャラでいけばいいや。
ぐう、と大きな音でお腹が鳴ったので、そこで考えるのをやめた。
僕は起き上がって部屋を出る。何も難しく考えなくていい。大丈夫。僕は自分にそう言い聞かせた。
今日の夕飯はハッシュドビーフだった。テーブルで食事をしているのは僕一人だけだ。僕の家は機能不全家族一歩手前みたいなところがあって、僕は家で食事をする時は、一人でしか食べない。家族が食事をしているときは自分の部屋でおとなしく過ごしている。ここ二年くらいでなんというかあきらめみたいなものを感じていて、現状より悪くならないようにするのが精一杯だ。両親と話し合って決めた訳じゃないけど、僕は家族と必要最低限の接触しかしないと決めてからは、状態はそんなにひどくなっていない。
まあ、両親がなにか揉めていても、音楽のボリュームを上げてやり過ごすだけだ。姉はこの家族に嫌気がさしたのか自立心があるのかわからないけれど、大学は下宿して、東京で就職先を見つけて働いている。もう三年くらい顔を見ていないけれど、たまに送られてくるメールを見る限りでは元気なようだ。
「ごちそうさま」
母に聞こえるか聞こえないかくらいの声で言って、僕は台所を後にした。
湯船につかって天井を見上げて、今日の出来事を思い返す。大学の入学式という一大イベントの上に、カウンセリング室からの電話など忙しい一日だった。
大きなレベルとしての不安は、大学生活に適応できるかということ。目の前の問題としては、明日のカウンセリング室でどう対応するかということが挙げられる。
普通の思考なら、大きなレベルとしての不安をカウンセラーに話すんだろうな、なんて思う。大学生活をうまく送れるか心配なんです。とかなんとか言っておけばカウンセリングっぽいんだろう。
明日、カウンセリング室に行くのはいいけど、何を話そうか。さっき自分で適当なことを話しておくと決めたはずなのに、なんだかそれも違う気がしてきた。
本当にカウンセリングの必要があるんじゃないか、なんて考えも出てきて、僕は思わず湯船からあがってシャワーを浴びる。
「僕は大丈夫。僕は大丈夫。僕は大丈夫」
そう自分に言い聞かせた。
カウンセリングは、簡単に終わらせよう。のぼせそうな頭で、僕はもう一度強く思った。
目覚まし時計が朝の六時を告げる。なんとか目覚まし時計をとめたけど、もう一度眠りたいという欲望を、僕はカウンセリングをしっかりこなすんだ!と頭に言い聞かせて目を覚ました。
顔を洗って、朝食を食べる。ちなみに、朝食も家族ばらばらだ。高校時代から、昼食以外、食事は一人でするものという意識があるのだが、仲のいい友人に話すとびっくりされるので、「あー、世の中の家族って仲むつまじいんだ」なんて思う。
朝食はパンにマーマレードをぬって、牛乳で流し込んだ。
車で駅まで送ってもらって、駅のホームで電車を待つ。一限から講義がある日は週に二日だけだけど、毎日この時間に通勤って大変だろうな、とスーツを着ているサラリーマンの人を見て思う。
ホームに電車が滑り込んできた。びゅっと風が舞う。まだ朝の風は冷たくて、僕はちょっと震えながら電車のドアの開ボタンを押した。
いつもより一本電車を早くするだけで、見える景色は違ってくる。人が少ないのは嬉しい。
どうも人が多いのは苦手だ。満員電車という程ではないけど、最近はこの路線も乗客が増えてきて、帰宅ラッシュの時間帯だと、最寄り駅まで座れなかったりすることもある。
ミュージックプレーヤーを出して、お気に入りの音楽を聴く。今日はしっかりしないといけない。一限の後は、カウンセリングがある。好きな音楽を聴いているうちに、頭が冴えてきた。今日の僕は戦闘モードだ。
四ツ谷駅で降りて、スクールバスが来るまでの間、駅前のコンビニでパソコン雑誌を読む。さすがに全部買う訳にはいかないけど、週刊誌一冊、隔週刊誌一冊、月刊誌二冊を購読している。
雑誌とコーヒーをレジに持って行って、僕はバス乗り場の列に並ぶ。バスの中で読むと酔ってしまうので、最新のニュースのところだけ頭に入れるようにしている。
十五分ほど待つと、スクールバスがやって来るのが見えた。雑誌を鞄にしまって、乗り場に停まったバスに乗り込む。一限から講義がある人は少ないらしく、いつもより人が少ない。まあ、数えるほどしかまだスクールバスに乗っていないから、比較するサンプルが少ないから当てにはならないか。そんなことを考えながら、僕は自分の思考が渦巻いて、研ぎ澄まされていくのを感じた。
ドアが閉まって、エンジンのうなる音と共にバスが動き出す。
ちょうど、僕の一番好きな音楽が流れていたので、プレーヤーのリピートボタンを押した。