大変動
雑居ビルの入口で立ち止まっている間に、一人僕の目の前のドアの中に入っていく人がいた。
ここまできて、なにをためらっているんだろう。ミュージックプレーヤーを取り出そうと鞄をごそごそしていたら、ドアの近くに立っている僕を迷惑そうに見て、また中に人が入っていった。
このままここに立っていても、変に思われるだけだ。通行人にも不自然にうつるだろうし、なによりビルの中に先に入った人にも怪しい人だと思われているだろう。
意を決して、僕はビルのドアの前に立ち、中に足を踏み入れた。
二階のドアの前で、また立ち止まってしまう。ドアには、「まきたクリニック」の文字がプリントされている。
つづいて、「神経科・精神科」の文字も目に入り、僕の足は張り付けられたように止まってしまった。
ドアノブに腕を伸ばす。手が震えているのがわかる。あと少し、もう少し頑張ったらーー。
一階のドアが開いて、コツ、コツと誰かが階段を上ってくる音がする。その音から逃げるように、僕はドアノブを回して中に入った。
はじめての精神科は、意外にも穏やかに僕を迎え入れた。床、天井、壁紙が白で統一されている。そのまま吸い込まれそうになりそうに思ったけど、壁には目立たない薄い模様が入ったデザインになっている。
観葉植物や花も置いてあり、黒い革張りの長イスは僕が座ってもちょうどいいくらいに体が沈んだ。
僕は今、受付で渡された問診票を書いているところだ。
受付にいた看護師さんは、僕が予約をした西田という者で、はじめてここにきたことをたどたどしく伝えたら、僕の様子をさして気にするそぶりもなく、「では、問診票を書いていただけますか」と、黒いサインボードに挟まれた紙とボールペンを渡して、今はカルテがしまってある棚でなにか作業をしている。
まわりを見ると、順番待ちの人が三人いる。全員女性だ。僕と同い年くらいの人と、三十代くらいの人が二人。それぞれ雑誌を読んだり、手帳を開いたり思い思いのことをしている様子だ。
僕の目からは、どの人も病人には見えない。
雑誌を読んでいた人が名前を呼ばれて、診察室の方へ向かうときに僕の目の前を通った。香水の、いい香りが一瞬だけ辺りに漂う。
女の人は読んでいた雑誌をブックスタンドに直して、そのまま診察室へ入っていたようだ。
僕の座っている角度からは、診察室の入口は見えない。左手にある細い通路の奥に診察室があるのだろう。受付の隣にある部屋のプレートには「第二診察室」と書いてあるけれど、ドアは閉まっていて、中の様子は確認できない。話し声も聞こえてこないので、今は誰もいないかもしれない。そんなに簡単に診察室から声が漏れるような作りだったら困ってしまうから別にいいんだけど。
思考を巡らせていたら、そっちに集中しすぎたらしく、手に持っていたボールペンを落としてしまった。
いかんいかん。重い腰をあげてボールペンを拾うと、もう一度長イスにちゃんと座る。すっと僕の体を受け止めてちょうどいいところまで沈んでくれたので、しっかりと問診票を記入することにした。
住所と名前は書いたので、年齢と家族構成のところからだ。年齢は十八歳、と……。
しばらく書く作業に集中していたけど、症状を書くところで止まってしまった。僕が困っていること、とりあえずは不眠なんだけど、それ以外はどう書くべきか。
家族仲が悪いとか、大学生活が不安とか、太って階段がキツイとか。
まあ、身体的なことはいいとして、精神科で診察してもらう上で書くべきことは、リストカットとか不安がひどいとかそんなことだろう。
でも、自分をそんな簡単に無防備にさらけだすわけにはいかない。
しかも相手はプロだ。こちらが防衛していることを悟られないように、症状を話して、欲しい薬をピンポイントでもらう。
これが理想の展開だ。こちらからの情報は怪しまれない程度に小出しにしなければいけない。
症状の欄には、「不眠」とだけ書くことにした。
次に困ってしまったのは、「当院を受診した理由」の項目だ。ここは当然ながら、萩原先生に紹介してもらったからなんだけど、それだと僕がカウンセリングを受けていることを知られてしまう。
近かったから、なんていうのは理由にならないし。家から二時間近くかかっているのに、どこが近いというのだ。
どうするのがいいか考えたところ、萩原先生の紹介状を持ってきていることに気付く。
どうやら、ちゃんと頭が回っていないようだ。仕方なく、僕は「カウンセラーの紹介」と書いて、残りを一気に書き上げた。
受付の看護師さんに問診票を渡して、僕はまた思索にふける。
何の話をしたらいいかがまとまらない。
緊張しているからだろうか。でも、ビルに入る前よりは緊張がほどけてきたように思う。精神科の敷居は思っていたより低いのかもしれない。
ほどなく、「西田さん」と呼ばれて顔を声の主に向ける。
看護師さんがカルテを持って僕を呼んでいた。
「診察室の方へどうぞ」
どうやら、戦いの時がやって来たようだ。
「はい」
小さく返事をして、僕はイスから立ち上がった。
診察室のドアは開いたまま固定されていて、カーテンが待合室との仕切りになっていた。
カーテン越しに待合室まで声が漏れるんじゃないかと思ったけれど、そんなことを心配して入らないわけにはいかない。
「失礼します」
カーテンを開けて、恐る恐る足を踏み入れた。
「お待たせしました。駒沢といいます」
カーテンを開けると同時に、はきはきとした声で迎えられた。
「どうぞおかけください」
声に促されて、僕はイスに腰掛ける。
意外なことに、担当は女の先生だった。年齢は僕より十歳くらい上だろうか。太いフレームの黒縁メガネがよく似合っている。
「初診の方ですね。あ、紹介状があるのか」
嫌みを感じさせない声だ。第一印象は悪くない。
先生は紹介状を読んで、僕のカルテに何やら記入している。
問診票の項目を一通り見てから、先生は口を開いた。
「えっと、紹介状を魅せていただいたんですけど、カウンセラーの先生の紹介でここにいらっしゃったんですか?」
「え……、あ、はい。大学でカウンセリングを受けていて、最近眠れないことを先生に話したら病院を紹介されました」
正直に答える。変に隠して事態がややこしくなるとまずい。
「なるほど。わかりました。大学は……鹿鳴館大学ですか」
先生が紹介状を見ながら言う。
「はい、そうです」
僕はただただ、質問に答えていくだけだ。
「萩原先生……私知ってるかな。女の方?」
「いえ、男の先生です」
萩原先生の話題になった。まず僕のまわりのことから状態を確かめていくのだろうか。
「そうですか。じゃあ、私は存じ上げないかな。私の知ってる人で萩原さんって女の人しかいないし」
揺さぶられているのだろうか。僕は警戒レベルを上げる。
「今、困っているのは眠れないことですか?」
質問にどう答えるべきか。眠れないこと意外にも困っていることはいっぱいあるけれど、会ったばかりの人に言うことではないと思って、僕はうんうん、とうなずく。
「はい。眠れなくて困ってます」
先生は少し間を置いて、なにやら考えている様子だ。
「眠る前に、色々考えたりすることはありますか?」
的確な質問だ。やはり相手は百戦錬磨なのだろう。答えをたくさん引き出せるようなことを訊かれている。
「えっと……。うーん……」
なんと答えるべきか。うまく答えがひねり出せない。
「なんで眠れないのかな、って思います」
嘘ではない。自分でもどうして眠れないのかわからないし。
「そうですか。考え出すと止まらないときってありますよね」
先生はそう言って、カルテに何か書き込んだ。のぞき込んで中身を確認したい衝動を、ぐっと抑える。
「大学生活はどうですか。もう慣れました?」
先生は僕が答えにくい質問を狙ってやっているんじゃないかと思えてきた。慣れて順調にやっていたら、僕はたぶんここには来ていないだろう。
「えーっと……環境が変わったので、まだですかね……」
自分が考えていることが出ないように、質問に答える。今のところ、なんとか精神科に来る必要があるかないかぎりぎりのラインの患者にうまくなれているはずだ。
「なるほど。高校と大学はやっぱり違いますよね。慣れるのにも時間がかかるかな」
どうやら、あまり深い詮索はされなくなったようだ。今日はとにかく、眠れないことをアピールして、睡眠薬をゲットできればそれでいい。できれば強めのものがいいけれど。
駒沢先生とは、そのあとも無難な会話を続けただけだ。こちらから眠れないということ以外の余計な情報は渡さないようにしたし、向こうからもさほど突っ込んだ話はこなかった。
あんまり深く探ってこないんだ。悪い先生じゃないんだと思いはじめたところで、
「それでは、お薬出しておきますね。また来週いらしてください」
駒沢先生から仕事用の笑顔でそう言われた。
「ありがとうございました」
僕はそう言って待合室に戻る。
長イスに座ってから時計を見たら、思ったよりも針が進んでいた。
三十分ほど話していただろうか。初診だったとはいえ、結構時間をとってもらえた方じゃないだろうか。
事前にネットで情報収集していたけど、三分診療の病院がかなり多いらしい。初診でもあまり時間をとってもらえない病院も多いとネットではいわれていた。
いい病院に当たったのかな。そんなことを考えていたら、受付の人に名前を呼ばれて、会計をしたあと薬を渡された。どうやら院内処方らしい。薬局に行く手間がなくてよかった。
受付の人は医療事務の人っぽくて、薬剤師さんがいるようには見えなかったけど、まだ奥にスタッフの人がいるのだろうか。
色々と詮索してしまったけれど、今はもらった薬のチェックの方が先だ。そう思い直して、僕は早足で病院をあとにした。




