たくさんよりちょっと
何度寝返りを打っただろうか。眠れない。疲れているのに、眠りたいのに眠れない。
動きたくない。何もしたくない。
どれくらい時間が経ったのだろうか。気になって時計を見る。三時前だ。本来なら、大学で講義を受けている時間。
せめて、やれることはやっておこう。病院に予約の電話を入れることにした。
右手に携帯、左手に萩原先生からもらった紙。準備は万全だ。
番号を慎重にひとつずつ押していく。手が震えた。
電話番号の入力が終わった。あとは発信ボタンを押して電話をかけるだけだ。
電話が繋がったら、なんて言えばいいんだろう。シミュレーションしておかないとだめだ。
入力した電話番号をクリアして、予約をとる練習を先にやることにした。
まず、診察を受ける日を決めなくてはいけない。履修している講義の関係上、平日で空いているのは水曜日だけだ。
あとは週末だけど、さすがに日曜日は休みだろう。そうなると、第一希望は水曜日で、第二希望は土曜日だ。曜日が決まった。一歩前進だ。
次は、電話が繋がった時のシミュレーションだ。
「もしもし。まきたクリニックです」
きっと向こうの第一声はそんな感じだろう。
「予約を取りたいんですけど、水曜日は空いていますでしょうか」
うんうん。いい感じだ。できるだけ丁寧に。そして、精神科へ来る必要があるのかな?という印象を相手に植え付けられたらなおいい。
「はい、大丈夫ですよ。お時間はどうしましょう?」
脳内で受付の人の声を再生する。仮想敵、というやつだ。
「三時にお願いします」
「はい、わかりました。お名前をお願いします」
「西田といいます。西田秋則です」
「西田さんですね。予約入れておきます。失礼します」
「はい。失礼します」
……よし、完璧だ。
僕はシミュレーションした会話をぶつぶつと何回も繰り返す。二十回くらい練習しただろうか。なんとか口ごもらずに言えそうな気がしてきた。
携帯電話を手に取り、番号を入力する。
手が少し震えているのがわかる。大丈夫、大丈夫、大丈夫。自分にいいきかせて、僕は発信ボタンを押した。
コール音がする。一回、二回、三回……五回目で繋がった。
「はい、三つ葉大学病院精神科です」
予想だにしない言葉が耳に入ってきた。
「あ……え、えーっと、まきたクリニックさんではないですか?」
口をぱくぱくさせながら、なんとか声にした。
「はい。こちらは三つ葉大学病院精神科になります」
無情な答えが返ってきた。
「はい、わかりました……。失礼します」
電話を切って、番号を何度も何度も確かめた。
萩原先生からもらった紙の番号と、何度見ても同じだ。
なにかが間違っているらしい。
ベッドに戻る気力すらない。そのまま床に倒れ込んで、まるで死んだようにぴくりとも動けなかった。
夕日が射し込んできた。少し眩しい。横になったまま直接日の当たらないところまで動いた。
紙の上に乗ってしまったらしい。カサカサと音がする。背中の下から紙を引っ張り出す。カウンセリング室のメールアドレスの紙だった。
重たい体を起こして、机に向かう。iMacをネットにつないだ。なんだかいつもよりつながるのが遅い気がする。ISDNだから遅いのかな。早くADSLにしたいな。
検索サイトで、キーワードを「まきたクリニックと」入力して検索をかけた。
何件かヒットしたけれど、どうやらまきたクリニックはホームページを持っていないらしい。
県内の精神科をまとめたサイトがあった。Command+Fでページ内検索すると、ヒットした。まきたクリニックの電話番号は、萩原先生からもらった紙に載っていた番号とは違っていた。
もらった紙の方が違うのだから。ネットの電話番号の方が正しいのだろうか。
番号をメモしたけれど、また間違い電話をかけてしまったらと思うと、怖くて電話できない。
僕にできることは、萩原先生のアドバイスを待つだけだ。
カウンセリング室のパソコンにメールを送った。
もらった紙の番号に電話したら、三つ葉大学病院精神科に繋がったことと、ネットでまきたクリニックの電話番号を調べたことを書いておいた。
やったことは少ないけど、ひどく疲れている。
ごはんを食べたあと、そのままベッドで横になった。
なにがあっても、世界はまわっているらしい。
朝日がさんさんと射し込んでいる。
動かない体をなんとか起こして、台所までいった。
「今日は調子悪いから、学校休む」
母さんにそれだけいって、部屋へ戻る。
自分から休むことを伝えたのは、大学に入ってから初めてだ。なんだかもう、気力がなくなってきている。どうやら五月病ならぬ、四月病らしい。
部屋でやることといえば、テレビをみるか読書かネットくらいだ。ベッドに入っても眠れないのはもうわかっている。
本棚に目をやると、未読の本がどんどんたまってきている。そういえば、入学してから家で本を読んでいない。北口駅近くの本屋で読んだだけだ。なにかいい本はないか探す。
僕の目が、ピタッと一冊の本のタイトルに釘付けになる。そういえば、松野さんに借りたままになっている本だ。
今の僕にぴったりのタイトルだ。「ものぐさ精神分析」を手に取って、寝転がりながら読みはじめた。
集中力がなくなってきたかな、と思うと同時にお腹がなった。
とりあえず、なにか食べよう。冷蔵庫の中に八宝菜があったけど、レンジで温めるのが面倒だ。冷凍庫を開けたら中にアイスクリームが三つあったので、それをお昼とおやつ兼用にすることにした。
おいしい。やっぱり糖分は必要なんだな。頭の中のもやが晴れたように思えた。
部屋に戻って、iMacの電源を入れた。高校の頃、毎日ネットをやっていたのに、最近はあまりやる気力がない。だけど、今の僕は糖分を補給したばかりだ。
やっていないことは、今のうちにやっておかないと。巡回コースにしていたページをひとつひとつみていく。
「天の声」のゴルフ板、Mac板、ライトノベル板にミステリー板。メンヘル板もチェックしておいた。
あとは、現役女子高生の精神科通院日記、Amazonで欲しいもの探し。
一通り終えると、ひさしぶりだったせいか満足感がある。楽しみにとっておいたことをまとめてやった感じだ。
ついでに、メールチェックもしておいた、結構たまっていたので、ひとつひとつ確認する。購読しているメールマガジンとAmazonからのおすすめがほとんどだったけど、見慣れないアドレスから一件メールが届いていた。
開いてみると、「荻田です」というタイトルとともに本文が表示された。
荻田です。
名簿が間違っているのはよくあることです。
調べた、あたらしい番号に電話をしてみてください。
短い、簡潔な文章だった。アドレスはカウンセリング室のパソコンではなかった。
どうして荻田先生がメールを読んだのだろうと考えて、気がついた。
おそらく、カウンセリング室のパソコンから荻田先生のパソコンに転送されたのだろう。だけど、カウンセラーは私的な連絡先を教えてはいけないはずだ。
——荻田先生は、僕のことを本当に気にかけてくれているんだ。
僕も、できるだけのことはしよう。やらなきゃ。




