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「メンタルヘルス」という言葉を知ったのは三年前だ。僕がパソコンを買ってすぐ、高校生の頃だ。
インターネットの巨大掲示板サイト「天の声」で掲示板めぐりをしていて、メンヘル板なるカテゴリを見つけた。
てっきり「メルヘン」だと思って、お花畑とかが好きな人が書き込みをするところだと思っていたら、「メンヘル」の間違いだった。
意味が分からなくて検索してみたら、メンタルヘルスの略で、「メンヘル」だと知った。肝心のメンタルヘルスの意味は、そのまま精神の健康という意味で、精神的な健康を保つことだと知った。
あと、精神科など、メンタル関係の病院に通院している人をメンヘラ、メンヘラーなどということもメンヘル板のスレッドをみて知った。
今の僕はメンヘラ一歩手前というところだろうか。別に通院していなくてもメンヘラといえるのだろうか。そんなことを考えていたら、スクールバスの時間が迫っていた。
僕はあわてて、バス乗り場へ向かった。
スクールバスを降りて、四ツ谷駅のロータリーに着いたら、角野さんの車が既に停まっていた。助手席に山部さんが乗っている。
僕は後ろのドアを開けて、車に乗り込んだ。
「こんにちは。よろしくお願いします」
挨拶すると、二人の返事は
「ういー」
「あいよ」
だった。いつもと同じだ。
「今日はどこへいくんですか?」
「うーん、てきとう」
「決めてないなー」
僕と二人がかみ合ってないのか、いつも二人はこんなゆるい感じだ。
「いくでー」
角野さんがゆっくりと車を発進させた。
みんなといると、楽しい。
最初に、家電屋のゲームコーナーへいった。それぞれ、自分の気になるゲームをチェックしている。僕が得意なのはパズルゲームと育成シミュレーションだ。あとはロールプレイングはストーリーがおもしろければ買う。アクションをはじめとする格闘ゲームはまるでできない。
強い将棋ソフトがないか、テーブルゲームのコーナーをみたけれど、どうもこれというものがなかった。
いつかパソコンが人より強くなるかもしれない。速く指して、強い将棋ソフト。出たら売れるんだろうな。
角野さんと山部さんは最新ゲームのコーナーで遊んでいた。どうやら格闘ゲームらしい。角野さんは必殺技を出して、どんどん敵を倒していく。すごい。
「疲れた。代わって」
「あいよ」
角野さんから山部さんに交代したけれど、山部さんもどんどん敵を倒している。二人がすごいのか、僕が下手なのかはわからないけど、とにかくすごい。
結局、最終ボスのところでやられてしまって、お店を出た。
「二人ともすごいですね。僕、必殺技出せないんですよ」
「いやいや、それはないわ」
「出せなさっぷりを見たかったな」
どうやら、必殺技は出せるのが普通らしい。格闘ゲームはみんな通る道と二人はいうけど、僕は一本も持っていない。初めて買ったゲームソフトが、将棋だと言ったら、妙にウケた。
うーん、僕って変わってるのかな。
ゲームセンターに入って、音の大きさにびっくりしたけど、二人は平然としている。ゲームセンターに入ったのは久しぶりだ。こんなに中の音、大きかったかな。
山部さんは格闘ゲームの席に座って、黙々とプレイしている。
角野さんは音ゲーのコーナーへいって、ダンスダンスレボリューションを始めた。
動きがすごい。一番難しいモードを、軽快な足さばきでこなしていく。しかも、ほぼ全ての矢印を完璧にタイミングを合わせてクリアしている。
角野さんが三回プレイするのをずっと見ていた。一回三曲だから、合計九曲みていることになる。角野さんはどの曲もクリアできるようだ。三百円でこれだけ遊べたら、楽しいだろうな。
気付くと、後ろに山部さんがいた。
「角野さん、すごいですね」
「そうやな。人にはなにか得意なことがあるというのはほんまやということがわかった」
山部さんが言う。
なるほどと思ったけれど、それは角野さんにほかに特技がないということになる。
もちろん、そんなこと角野さんには言わない。いや、言えないけど。
角野さんが曲をプレイし終えた。
「いこか」
角野さんは満足そうな顔だ。僕たちは車に戻った。
「じゃあ、駅に送るから」
「えー、もう終わりですか?もっと遊びましょうよ」
角野さんがあっさりと言ったので、思わず大きな声を出してしまった。
「いや、俺、家でごはん食べるって言って出てきたし……」
角野さんに続いて、山部さんからも
「またすぐ遊ぶがな。そんなにがつがつせんでも」
そんな声がしたので、しぶしぶながら、はーい、と言わざるをえない。
「じゃあ、次、いつ遊んでくれますか?」
なにか約束を取り付けたかった。
「具体的にはわからんけど……いつがいいの?」
「明日」
「子どもか」
素直に希望を言ったら、角野さんに即突っ込まれた。
「じゃあ、月曜日はどうですか?」
妥協案を出してみた。月曜日は英語の授業がある。学校にいったご褒美で遊んでほしかった。
「わかった。ええよ」
角野さんがそう言ってくれた。
「ありがとうございます。楽しみにしてます」
うれしい。月曜日、頑張れそうだ。
「場所は今日と一緒でいい?」
「できれば大学まで来ていただけるとありがたいです」
自分でもかなり無茶なことを言っているのがわかる。なんでこんなに必死なんだろう。
「大学どこだっけ?」
角野さんと山部さんには話をしていなかったらしい。
「鹿鳴館大学です」
「ああ、あそこね。いいよ」
「ありがとうございます!」
予想外の嬉しい答えに、思わず声が弾んだ。
「ちょっとちょっと、二人で決めんといて。運転俺やん……」
山部さんが少し不満げだ。
「運転、日によって違うんですか?」
「そそ。交代で車出してる」
角野さんの答えに、なるほどとうなずいた。
「あっち、カツ丼あるやん。久しぶりにいこうぜ」
「カツ丼かー。しゃあないな、わかった」
山部さんが食べ物で納得するなんて珍しい。
「美味しいカツ丼があるんですか?」
「まあ、楽しみにしといて」
角野さんの含みのある答えが気になる。月曜日になればわかるからいいか。
「今日はありがとうございました。月曜日、楽しみにしてます」
駅まで送ってもらって、車から降りた。
「ばいびー」
「ほなな」
角野さんと山部さんの車は、すぐにロータリーから出て見えなくなったけど、僕はしばらくロータリーの出口を見ていた。
部屋に入ると、どっと疲労感が押し寄せてきた。倒れ込むように、ベッドで横になる。
今日はいろいろあった。エゴグラム、通院を薦められたこと、角野さんと山部さんと遊んだこと……。
要するに、全部楽しいことだ。萩原先生と話ができたし、そのあと三人で遊べた。
でも、今はとても寂しい。どうしてだろう。
気分を変えるために、エゴグラムの診断結果の紙を取り出して、もう一度読んでみる。
人の言動をかなり批判的に捉え、節度を保ちながらも相当厳しい態度で接していくほうで、やや意地悪い面が見られる。
物事を現実的に捉え、事実に従って判断するリアリストで、直感的にもよくバランスがとれている。人情を優先するか、筋道を通すかで迷うことも多いが、状況に対応して、うまく使い分ける柔軟性がある。
素直で人当たりがよく、屈託なさそうに振る舞うが、周りによく順応しようとして、自分を抑える気持ちが強く、自然な感情が出し切れていない。慎重で我慢強いが、何でもないことを気にして思い悩むほうで、優柔不断の傾向が目立つ。
当たっていると思う。診断結果をみて、やられたと思った。
テストには正直に答えたので、言い訳のしようもない。プログラム通り作られた順列組み合わせで出力された結果だと自分に言い聞かせようとしたけれど、診断結果みたいな性格の人間は嫌いだ。
僕に問題があるから、萩原先生は精神科への通院を薦めたのではないだろうか。
角野さんと山部さんに、次に会う約束を取り付けた時、嫌われていないだろうか。自分の思うようにしたかった。だけど、それはわがままだ。
僕の心は、数時間前とは打って変わってどす黒いものでいっぱいだ。
楽しかった反動なのだろうか。でも、今ひとりという事実は変わらない。
僕は床に落ちている紙の箱からカミソリを出して、手首を切った。血が滲む。まだ切っていないところがある。傷と傷の間をどんどん切っていく。
手首が血で真っ赤に染まった。
あんなに楽しかったのに、なんで手首切っているんだろう。
気がつくと、窓の外は明るくなっていた。
いつの間にか眠っていたらしい。朝食をとりに、部屋を出た。
いつものようにパンを牛乳で流し込んで終わりだ。
「今日、講義が休講になったから、休むね」
母さんにそう言って部屋に戻る。
休講になった講義は一つだけで、履修している授業はあと二つある。
嘘をついたわけじゃない、言葉が足りないだけだ。何度も何度も自分に言い聞かせた。
駄目だ。僕はなんて駄目なんだろう。
今日も休んでしまった。
床に落ちていたカミソリを拾って、傷の上から切りつけてみた。傷口と傷口が繋がって、新しい傷口が開く。
生暖かい血が出てきた。
気分が落ち着くのがわかる。
ベッドに入って、頭からふとんをかぶった。




